第10話 魔法

 悪魔と契約を交わしたその日の夜、イリスは激しい悪寒に襲われた。たくさん着込んで、ベッドに潜り込んで頭から毛布を被ったが、寒くて仕方がなかった。全身をかたかたぶるぶる震わせ歯をかちかちがたがた鳴らしながら、ベッドでしばらく横になっているうちに、イリスはいつのまにか眠ってしまっていた。眠ることができたのは、健康的な眠気に襲われたからというよりも、むしろ震え疲れてしまったせいだったように思われた。


 朝起きてみると、悪寒はすっかり治っていた。身体も、とりあえずは健康そのものだ。


 しかし、それ以外で昨日との変化は感じられない。ほんとに、魔法が使えるようになったのだろうか。昨日舌を噛んだときできた傷は、口内炎となって腫れていた。治癒魔法が使えるようになったのなら、こういうちょっとした傷くらいは寝ているあいだに治ってもよさそうなものなのにと、イリスは不満に思った。


「口内炎よ、治れ!」


 念の為、唱えてみるが、何も起きない。もしかしたら、昨日のできごとは全部、夢だったのかもしれないと、イリスはぼんやり考えた。悪魔と契約して魔法少女になるなんて、ほんと、変な夢を見たものだ。


 そんなことより、早く学校に行く支度をしなきゃ。


 イリスは我に返って、洗面台に足を運んだ。顔を洗い、歯を磨き、制服に着替える。

 それから、きちんと朝ごはんを食べた。あいにくいまは、固くてぼそぼそした黒パンしかなかった。牛乳すらもなかったので、黒パンは水で流し込み、朝食を終えた。お粗末なお食事でしかなかったが、ともかくも腹ごしらえをしておかないと、昼までもたない。


 お母様の様子を見てみると、ベッドの上で寝息を立てていた。起こしてしまわぬよう、小さな声で、いってきます、とイリスは声をかけた。


 イリスはかばんを持って、家を出た。ゆっくり歩いて行っても、学校の始業時間には余裕で間に合う時刻だった。イリスは、道端に咲く花を鑑賞したり、小鳥のさえずりに耳を傾けながら、朝の散歩を楽しむようにして学校を目指した。


 小川に架かる、小さいおんぼろの橋を渡りきったところで、イリスは妙な物体を見つけた。

 手のひらサイズのその物体は、茶色くて、地面の上でわずかにうごめいている。なんだろうと思って近づいていくと、正体はすぐにわかった。


「小鳥さん!」


 小鳥が怪我をしていて動けず、地面にうずくまっていたのだ。イリスはそっと小鳥を手のひらに載せ、容態を確認した。お腹からは血を流していて、見るからに痛々しい。いまにも息絶えそうに思えた。


 どうしよう。学校まで連れて行って、保健室の先生に見てもらおうか。でも、学校まではまだ距離がある。そのあいだに死んじゃったらどうしよう。それに、保健室の先生は、生徒を診るのが仕事だ。小鳥の手当ての仕方なんか、知っているのだろうか。


「どうしよ小鳥さん。あたし、どうしたらあなたを助けられるか、わかんないよ」


 昨日のことが、夢じゃなければよかった。悪魔さんと出会ったのも、魔法が使えるようになったのも、全部ほんとのことだったなら、この小鳥さんだってかんたんに治せたかもしれない。


 小鳥さんの痛みに苦しむようすを見ているうちに、イリスは泣きべそをかきそうになった。何もできない自分が悔しかった。小鳥さんの動きはどんどん緩慢になってきていて、またたくまに衰弱していくようだった。


「泣くな。お前さんには、魔法があるじゃないか」


「えっ」


 最初は空耳かと疑った。

 だが、違った。

 確かに、はっきりと聞こえる。


「魔法を使うのだ。お前さんには、とびきり上等の魔法の力がある。何せ、この私が魔法を授けたのだからな」


「悪魔さん? 悪魔さんね!」


 イリスは思わず顔がほころんでいた。

 昨日のできごとは、やっぱり夢なんかじゃなかったんだ。それに、すでに昨日別れた時点で、悪魔さんとはもう二度と会えないとばかり思っていた。契約を果たし、魔法を授ける役目を終えた悪魔は、どこかへ去ってしまうのだと思い込んでいた。また戻ってきてくれて、イリスは心底嬉しかった。


 イリスは慌てて周囲を見回したが、悪魔さんの姿はどこにもない。あの黒猫の姿は、どこにもなかった。


「おい、どこを探しているんだ。私はここだ。ここ」


「ねえ、どこなの悪魔さん。あたしには姿が見えないよ」


「かばんを見ろ」


「かばん?」


 脇に抱える自分のかばんに目をやった。すると、かばんにつけていたクマさんのぬいぐるみのキーホルダーが、ぴょこぴょこ動いている。


「私だよ。ちょうどよかったので、このぬいぐるみに私の魂を入れさせてもらった」


 なんでも、悪魔は自由自在にどんなものにでも自分の魂を移し替えることができるのだという。昨日にしても、悪魔さんは黒猫に変身していたというよりは、黒猫の形をした物体に、自分の魂を宿していたというのが正確なところであるらしい。


「かわいい! クマさんが動いて、喋ってる!」


 幼いころからクマさんのぬいぐるみが大好きだったイリスにとっては、まさに眼福がんぷくの光景だった。


 しかし、いまは見とれている場合ではない。

 小鳥さんを、助けなくちゃ。


「魔法を使うにはどうすればいいの、クマさん。じゃなかった、悪魔さん」


「まず、できる限り具体的に、事細かに、小鳥の傷が癒えたありさまを頭に思い浮かべるのだ」


「わかった。やってみる」


「よし。それができたら、今度は強く念じるのだ。小鳥の傷を癒やしたいと、強く願え。最後に、呪文を唱えよ」


 悪魔さんが教えてくれた呪文は、正直な感想としてはあんまりかっこいいものには思えなくて、少々意外だった。

 でも、だからこそ効果てきめんなのかもしれない。人々によってよく使いこまれた呪文だからこそ、言霊ことだまの力がぎっしりと宿っているのだろう。


 イリスは悪魔さんの指示通り、傷がみるみるうちに癒え、元気になってお空を飛んでいく小鳥さんの姿を想像した。それから、小鳥さんが元気になってほしいと強く念じた。

 最後に、こう呪文を唱えた。


「痛いの痛いの、とんでいけ!」


 小鳥さんが一瞬、まばゆい光に包まれた。あまりの眩しさに、イリスは目をつぶった。手のひらがじんわりと熱くなった。


 少しずつ光が和らいできた。まぶしくなくなってきた頃合いを見計らって、イリスはおそるおそる目を開けた。


 小鳥さんは、すっかり元気になっていた。


「すごい。これが魔法の力なんだ」


 イリスは、感動して呟いた。


 小鳥さんは、手のひらのうえで二、三回羽をばたつかせたかと思うと、逃げるようにして飛び立った。空の彼方に飛び去る小鳥さんを、イリスは手を振って見送った。


「小鳥さん、元気でね。また怪我したりしないようにね」

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