第9話 契約
イリスは、待ちきれなくなったのだ。早く契約を結び、魔法の力を得たかった。
「それから、魔法を発動させる際には――」
「わかった」
「え?」
「もう、わかった。わかったよ」
イリスは両腕を身体の前で交差するように左右に振り、悪魔さんの話を遮った。
「あたし、平気だよ。どんなことが起きたって、へっちゃらだもん。契約を交わしたせいで、どんな困難が襲ってこようとも、いまよりは絶対、ましなはずだから。だから、もう説明は、大丈夫。あたし、覚悟はできてる」
黒猫の目がお月さまみたいにまんまるに見開かれた。悪魔さんは、仕方のないお嬢さんだ、とでも言うように、ふう、と大きな溜息を漏らした。
「後で悔いても、知らないからな。では、改めて尋ねるとしよう。一度返事したら、もう契約は破棄できないからな。慎重に答えたまえ」
悪魔さんの目が一瞬、鋭く光ったように見えた。
「私と契約し、魔法の力を手に入れたいか」
「もちろんです」
イリスは躊躇なく、答えた。いまさら、迷ってなどいられなかった。
お馬鹿さんになっちゃうのは、もちろん、ちょっぴり嫌なことではあった。でも、学校に通ってお勉強を始めようと思ったのは、もともと、お母様を助けるためだったはずだ。お勉強をして、いい職について、お金を貯めて、お母様を外国の病院に連れて行って、病気を治してもらおうと思っていたのだ。しかし、そんな回りくどいことしなくたって、魔法の力が手に入るなら、自分の手で直接お母様を救うことができる。ならば、お馬鹿さんになったって、お勉強ができなくなったって、なんの問題もないじゃないか。イリスはそう思った。
だから、イリスはこの悪魔さんとの契約に、迷いなく合意した。
そして、いま一度、力強く懇願した。
「魔法の力を、あたしにください」
「よろしい。では、契約成立だ。明日、目が覚めるころには、魔法の力が手に入っているだろう」
悪魔はここで一呼吸置き、それから高らかにこう宣言した。
「明日からお前さんは、魔法少女だ」
魔法少女。
わくわくする言葉の響きだった。
「魔法少女」
声に出して、呟いてもみた。
イリスはなんだか心がうきうき弾んでくるのを感じた。明日が来るのが楽しみだと思えるだなんて、いつぶりだろう。
日が落ち、辺りはすっかり真っ暗になってきていた。悪魔さんの黒猫姿が闇に溶け込んでしまいそうだった。黒猫の二つの目だけは、虚空の真ん中でらんらんと光っていた。
それを見つめているうちに、うきうきわくわくの気分が落ち着いてきて、イリスはそこはかとなく不安を感じ始めた。
「ねえ、お母様の病気、魔法の力でほんとに治せるかな。そんなことあたしに、できるかな」
「お前さんは、強い子だ。きっと大丈夫。自分を信じることだ」
「ありがと悪魔さん」
悪魔さんは、優しかった。イリスの脳裏に、同級生や先生たちの顔が頭に浮かぶ。あの人たちのほうがよっぽど悪魔じゃないかと、イリスは思った。
「幸運を。では、私はこれで失礼するよ」
そう言って立ち去ろうとする悪魔さんを、イリスは慌てて呼び止めた。
「待って。最後に一つ、聞いていい? どうしてあたし、悪魔さんを呼ぶことができたの」
イリスには不思議でならなかったのだ。どうしてあんなにも容易に、悪魔を召喚することができたのか。
イリスの知る限り、悪魔召喚には相当な苦労がつきもののはずだ。イリスが読んできた物語のなかで、主人公たちは、相当に高度な錬金術や悪魔学の知識を活用し、ときには複雑な魔法陣を書き、ときには長々しい呪文を唱えて、苦労に苦労を重ねて初めて悪魔召喚に成功していた。
対してイリスは、ただお願いしただけで、悪魔を呼び出すことができてしまった。いったい、どういうことなのか。
「運がよかった。それだけのことだ」
悪魔さんの話によれば、実はイリスは偶然にも、運よく悪魔召喚のための条件をすべて満たしていたのだった。
悪魔を召喚するためには、まず、悪魔に来てほしいことを声に出して言う必要がある。また単に声に出して言うだけではなく、午後4時44分44秒きっかりに言う必要がある。この世とこの世ならざるものとを結びつける時刻だからだ。偶然にも、この条件もイリスは満たしていた。また、声に出して言う際は、口に血と涙を含んでいなければならない。イリスは、嫌なお手紙を読んだことが返って功を奏し、この条件も満たすことができていた。
さらに、前日に蛇肉を食べていなければならないという。
蛇のお肉なんか、想像しただけで気持ち悪いし、食べてなんかないよとイリスは一瞬思った。
だが、すぐに気がついた。闇市で買った、あのお肉だ。貧しいので高い肉が買えず、昨日も闇市で安価な肉を購入したのだが、まさかあれが蛇の肉だったとは。イリスは、びっくりしてしまった。イリスは、肉と言えば、牛か豚か羊の肉しか知らなかったのだ。
「うええ」
思わず蛇肉を吐き出したくなったが、昨日の晩に食べたものなので、完全に後の祭りだった。もう、とっくに消化されてしまっている。
そして最後に、最も重要な条件があった。それは、自己利益のためでなく、他人の利益のために、悪魔を呼ばなければならないということだった。
「自分のためじゃなくて、
おとぎ話のなかで、悪魔を呼ぼうとする錬金術師や呪術師が揃いも揃って自分の欲望のために呼んでいたことを、イリスは思い出したのだ。
「悪魔という生き物は、我が強い人間が嫌いなんだよ。一般に思われているイメージとは、真逆かもしれないがね」
もっとも、自己利益のためであっても、錬金術や悪魔学を使えばむりやり召喚することもできてしまうのだがと、悪魔さんは付け加えた。
「そうだったんだ」
話を聞くうち、イリスは思った。
運命はまだ、自分を見捨てちゃいない。偶然にも悪魔を召喚することができて、契約を結ぶところまで漕ぎ着けたのだから。一時は運命を呪ったりもしたけれど、大丈夫。あたしは、ついてる。どこまでも、運命は自分の味方だ。
そう思うとイリスは、自信がこんこん湧いてきた。なんだってできる気がした。つらかった日々とも、今日でおさらばだ。
悪魔さんが、不意に駆け出し、近くの塀にひょいと飛び乗った。
「今度こそ、おいとまさせていただくとしよう。ではな」
「あ。ちょっと待って」
「なんだ。まだ何かあるのか」
「血の誓約書とか、書かなくていいの? ほら、あるでしょ、指を噛みちぎって血を垂らして書くやつ」
「お前さん、やっぱりおとぎ話の読みすぎだよ」
悪魔さんは呆れたように言った。
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