第8話 悪魔

 果たして、思いは届いた。


 イリスは背筋にぞくっとした寒気を感じた。恐る恐る振り返ってみると、黒猫が呑気そうに後ろ足で頭を掻いている。


 イリスはすぐに悟った。「悪魔さんね」


「ああ、そうだ。私は悪魔だ」黒猫が返事した。


 悪魔さんは、黒猫の姿をしていた。

 のちに悪魔さんから聞いた話によると、ほんとの姿は全然違ったものであるらしい。大きさはもっと大きいし、角や羽が生えていて恐ろしげな見た目をしているのだという。もっとも、ほんとの姿で人前に出ることは滅多にないようだ。なんでも、黒猫姿でというのが、初対面の人間に会うときの礼儀なのだそうだ。


 悪魔さんは、イリスが座るブランコのすぐ隣にとことこ歩いてきて、ちょこんと地面に座って、こう切り出した。


「話は聞かせてもらったよ」


 低くて落ち着きのある声だった。聞いていて心地がいい。かわいらしい黒猫姿をしていることもあり、悪魔さんと話していても不思議と怖くはなかった。


 悪魔さんは、事情をすでにあらかた把握していて、話が早かった。


「力が欲しいのだろう。現状を変えるために。いいだろう。魔法の力を授けてやろうではないか」


「ほんとに、ほんとなの」


 イリスはびっくりした。こうもうまく話が進むとは、思ってもみなかったからだ。


「もちろん、タダでというわけにはいかない」


「わかってる。魂が欲しいんでしょ」


「違う、違う」

 悪魔さんはケタケタ笑った。

「お前さん、おとぎ話か何かの読みすぎだよ。確かに大昔には、人間の魂を抜き取って、知性や技術を授ける悪魔というのもいたようだが。最近じゃ、老いぼれ悪魔以外で、魂なんていう不確かなものを欲しがる悪魔はいないだろうね」


「じゃあ、何が欲しいの」


「知性だよ。お前さんの、知性をいただこうじゃないか」


「知性?」


「知的能力、と言い換えてもいい。要するにお前さんは、魔法の力を得る代償として、少々お馬鹿さんになってしまうというわけだ」


 悪魔さんの言うには、知性を吸い取るというやり方はここ最近のトレンドなのだという。

 はるか昔には、人間から知性を吸い取る悪魔など存在しなかった。人間は総じてお馬鹿さんだったからだ。地球は平らであるだの、すべての物質は水からできているだのといった誤った理論を信じる無知蒙昧な連中だったのだ。そんなお馬鹿な連中から、知性なんか吸い取ったって仕方なかった。だから悪魔は、人間と取り引きをする際、知性や魔法を授ける代わりに魂を吸い取るということをしていたのだった。


 近代の科学革命以降、この関係性はわずかに崩れることになった。人間も、多少は知恵を身につけるようになったのだ。現代科学といえど悪魔的視点からすれば間違いだらけではあるのだが、以前に比べれば、人間の知性は飛躍的に向上したと言っていい。


 人間の知性の質が高まるにつれ、悪魔はその知性を欲しがるようになった。一人一人の人間の知性は未だ悪魔に遠く及ばぬものの、数多くの人間から知性を吸い取れば、悪魔は自身の知的能力を大幅に向上させることができる。その程度には、人間の知性は成長していたのだった。

 そこで悪魔たちは、人間との取り引きにおいて、知性をいただくことにした。そして、知性を受け取る代わりに、人間に魔法の力を授けることにした。


 科学革命というのはつい最近学校で習ったばかりなので、イリスにはよく理解できる話だった。


「講釈が長くなってしまったようだ。歴史の話はこれくらいにして、いくつか注意事項を話そう。注意事項をしっかり理解して、自分の頭でようく考えてから、契約を結ぶかどうか決断してほしい」


 悪魔は座ったまま微動だにせずに喋り続けた。


「まず、知性が吸い取られれば、いろいろな知的活動に支障が生ずるから、覚悟することだ」


「わかった」


「例えば、そうだな。第一に、計算が苦手になる。暗算などはまずできなくなるだろうし、分数の計算もおぼつかなくなるだろう。第二に、記憶力が貧弱になる。人名や地名や年号を覚えるのは特に難しくなるはずだ。ただし、新しく記憶するのが苦手になるだけであって、過去の記憶が消えてしまうことはないから、そこは安心してほしい」


 いくらお母様を救えるといっても、お母様との思い出まで消えてしまったら、たまったものではない。だが過去の記憶が元通りなら、なんら問題はなかった。計算は、いまの時点ですごい苦手分野なので、さらに苦手になったところで痛くも痒くもありはしない。そうイリスは思った。


「第三に、方向音痴になる。第四に、字の読み書きができなくなる。他にも、ケース・バイ・ケースでいろいろな知的活動が困難になることがある。覚悟することだ」


「うん。覚悟する」


 本好きのイリスにとって、字の読み書きができなくなるのは、あまり喜ばしいこととは言えなかったが、お母様を救うためと思えばいくらでも我慢できる範囲だった。


「また、一度の契約で、一種類の魔法しか授けることはできない。お前さんの場合、お母さんを治癒したいというのが一番の望みだから、授けるとしたら治癒魔法だけになる。つまりお前さんは、私と契約を結んでも、病や傷を癒やすことのできる魔法しか使えないのだ」


「うん。それで全然いいよ」


「例えば攻撃や防御に使える魔法、また変身魔法なんかは使うことができないから、注意すること。いじめの克服が第二の望みだったようだが、それについては治癒魔法でなんとか対処するしかない。治癒魔法だけでは、いじめっ子に反撃を食らわせるのは難しい。だから、いじめを完全に克服するのは難しいかもしれないな。ただし、魔法は自分自身にも使用できるから、殴られたり蹴られたりしたときの痛みを魔法で癒すことはできる。少しは足しになるだろう」


「わかった」


 魔法で自分自身をも治癒できるのなら、これっぽっちも問題はなさそうだ。どうせ、いじめっ子たちに反撃してやりたいなどとは考えていない。


「それから、二匹以上の悪魔と契約を交わすことは、固く禁じられているから、注意することだ。〈二重契約の禁止〉といって、悪魔界での重大な禁則事項となっている。攻撃魔法が使いたくなったからといって、別の悪魔とも契約しようものなら、えらい目に遭うからな」


「うん」


 当然、二重契約なんかしたいと思うはずもなかった。この悪魔さんとさえ契約すれば、治癒魔法が使え、お母様を救うことができる。それだけでイリスには十分だった。


 注意事項のお話はまだまだ続いた。悪魔さんは喋り続け、イリスはそのたびに、うん、うん、と返事していたが、ついにイリスは我慢ができなくなった。

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