第6話 不運

 いじめられるのは、いまや慣れっこだった。


 小さなころは、もっと世界が華やいでいたような気がする。家は裕福で、イリスが欲しがるものはなんでも手に入った。イリスはクマさんのぬいぐるみが大好きで、買って、買ってとお父様によくおねだりしたものだった。おねだりのたびにお父様は快くクマさんを買ってくれた。それで、家には何十匹というクマさんが我が物顔で住み着くことになった。お母様の横で、クマさんを抱きしめて寝るのが好きだった。


 家のなかは賑やかで、遊ぶものもたくさんあって、退屈しなかった。いまよりずっと大きなお屋敷に住んでいて、使用人が何人もいたからだ。それに、モコという名の大きな犬を飼っていた。庭の芝生で追いかけっこして遊ぶのが楽しかった。天井近くまである巨大な本棚には、古今東西のあらゆる絵本が揃っていて、毎日のようにお母様に読み聞かせてもらっていた。


 いじめや暴力とは無縁だった。叱られることもほとんどなかった。お父様もお母様も、イリスをめいっぱい甘やかしていたのだ。待望の一人娘がかわいくて仕方がなかったのだろう。


 仲良しの友達もいた。隣の家に住む、長い栗色の髪がきれいな女の子で、一緒に草花を編んで髪飾りを作ったり、四つ葉のクローバー探しに熱中したり、おままごとをしたりした。同い年だったから、よく気が合った。


 毎日が幸せで、心の底から満ち足りていた。


 お父様の失踪によって、生活のすべてが一変してしまった。


 収入がゼロになり、以来、貧しい暮らしを余儀なくされることになった。大きなお屋敷を失って、小さなおんぼろの小屋に移り住むことになった。使用人を雇うことができなくなり、イリスはお母様と二人暮らしをすることになった。毎日、食卓がしんと静まり返って、とても辛かった。夕食のメニューも様変わりしてしまい、以前は大きな羊肉や牛肉のステーキがメインディッシュであることが多かったのに、いまとなっては、闇市で安く売られている硬いお肉を主菜とせざるを得なくなっていた。


 後で知った話だが、どうやら、お父様は密かに悪事をはたらいていたらしい。お父様が具体的にどんな悪行を犯したのか、幼いイリスにはよく理解できなかったが、国に背くようなことをしでかしてしまったのは確かなようだった。だから悪事が白日のもとに晒されたとき、お父様は国王の怒りを買った。貴族の地位は剥奪され、財産も土地も没収された。お父様がある日突然失踪してしまったのは、捕らえられるのを恐れてか、それとも皆に合わせる顔がないと思ってのことか、いまとなってはわからない。


 お母様は悪事には一切加担しておらず、裁判でもこのことは立証された。

 それでも、お母様に嫌疑の目を向ける者は絶えなかった。黒幕はお母様だとまで言う者もいた。お母様は不倫していたとか、そのお相手は悪魔だったらしいとか、ゆえにお母様は魔女に違いないとかいう、いわれのない噂話さえ飛び交った。


 お母様は働きに出るようになったが、精神的に追い詰められていたうえに、もともと身体の強いほうではなかったため、すぐに体調を崩した。医者に診てもらうお金を惜しんで自宅療養しているうちに、お母様はみるみるうちに体重を落とし、やつれていった。

 慌てて医者に見せたときにはもう遅かった。

 お母様はさまざまな病気を合併して患っており、外国の大きな病院に行かない限りは治る見込みがないとのことだった。むろん、財産が根こそぎ没収されてしまったいま、外国に行くお金など、捻出できようはずもなかった。


 不幸中の幸いだったのは、お母様は、ただちに死に至る病気には罹っていなかったことだ。いくつか薬を飲んで、日がな一日じいっとベッドの上で安静にしていれば、どうにかこうにか生きながらえることのできる状態ではあったのだ。ここ数年のあいだにお金を作って外国の病院に行けさえすれば、かつてのように元気な姿で動き回れるようにもなるはずだった。

 こうした事実が、悲しみに暮れるイリスの心をいくらか慰めてくれた。


 お金を作るため、イリスはすぐにでも働きに出ようと思った。

 イリスなりにいろいろと考えた結果、「身体を売る」ことに決めた。「身体を売る」仕事であれば、技術や体力がなくともかんたんに始められ、しかも稼ぎがいいということを、いつだったか耳にしたことがあったのだ。

 しかし、それがどういうたぐいの仕事であるのか、イリスにはあまり想像ができなかった。どこに行けば「身体を売る」ことができるのか、こんなに幼い自分にも勤まるものなのかどうか、不安だらけでお母様に相談すると、イリスの案はぴしゃりと却下されてしまった。いまは働くのではなく、勉強に精を出したほうがいいというのだ。学を身につけることが結局はお金を作るためには近道だとお母様に熱心に諭され、イリスはしぶしぶ、学校に通うことを承諾した。


 これが地獄の始まりだった。


 イリスはこれまで、一度も学校というものに通ったことがなかった。貴族の子供は、学校には通わずに、家庭教師をつけて自宅で勉強するのがふつうだ。この例に漏れず、イリスもついこないだまでは家庭教師に勉強を見てもらっていたのだった。だがイリスの家は、いまや家庭教師を雇う余裕などなくなってしまった。イリスは平民と同じ学校へ通わざるを得なくなった。選択の余地はなかった。


 こうして始まったどきどきそわそわの新生活は、蓋を開けてみれば、少しも楽しいものなんかじゃなかった。

 転校初日からすぐに、いじめの標的になってしまったのだ。

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