第5話 懇望

 イリスは今日、学校の帰り際に、エレンという名の同級生から一通のお手紙を受け取っていたのだ。


「あの、これ、手紙。一生懸命書いたから、絶対、読んでね。絶対よ」


 エレンは頬を紅潮させ、目を伏せながら、お手紙を渡してくれた。エレンはお手紙を渡すやいなや一目散に走り去ってしまったから、イリスはお礼を述べることもできなかった。


 お手紙に何が書いてあるのかはわからないが、きっと喜ばしいことが書いてあるに違いない。イリスはそう確信していた。何しろ、イリスにとって、エレンはクラスのなかでただ一人の味方だったからだ。他の凡百の同級生たちと違って、エレンだけは、イリスを無視したり蹴ったり殴ったりしなかった。そんなエレンちゃんからのお手紙なのだから、「お友達になりませんか」とか「いつも応援してます」とか「悩みがあったらなんでも相談に乗るからね」とかといった、嬉しい言葉がたくさん記されてあるに違いないのだった。


 もっとも、エレンとは、会話を交わしたことさえほとんどなかった。人見知り同士のため、これまで互いにお近づきになるきっかけが掴めずにいたのだ。

 それでもイリスは、エレンのことを自分の味方だと固く信じていた。なぜかというと、まず、エレンもイリスと同様、貴族の生まれだったからだ。平民の多いこの学校のなかでは、家柄がよいというだけで目立ってしまい、周囲に溶け込めずいじめの対象にもなりやすい。イリスにとって、エレンは、平民に混じって学校生活を送るという労苦を分かち合う仲間だと言えた。


 エレンとイリスとのあいだには、同じ境遇にある人間同士の深い心のつながりのようなものができあがっていたと言ってもよいだろう。会話はなくとも、二人のあいだには絆が芽生えていたのだ。


 それにイリスは、教室で、エレンちゃんからじっと見つめられることがしょっちゅうあったのだ。その視線は、


「いじめらていて可哀想。でも、何もしてあげられなくてごめんね」


という、憐憫の感情の表れであるようにイリスには思えた。


 エレンは、貴族出身のためにただでさえいじめられる危険性が高い。だから、そんな彼女がいじめを止めようものなら、たちまちイリスと同様、いじめの標的となってしまったに違いない。エレンが、イリスのために何もできないのは無理のないことではあったのだ。


 そのためエレンの視線を感じるといつもイリスは、


「ありがとうエレンちゃん。あたしは平気だよ。エレンちゃんも学校生活がんばって」


というメッセージを込めて視線を送り返すのだった。そんなメッセージに気づいたか、エレンのほうからも熱い視線が返ってくることがよくあった。その視線は、こう訴えかけてきているようにイリスには思われた。


「ありがとう。イリスちゃんも毎日大変だと思うけど、がんばってね。何もできなくて歯痒いけど、心のなかではずっと応援してるからね」


 真偽はともあれ、エレンが、イリスのことを気遣ってくれているのは確かであるようだった。


 イリスは、エレンちゃんともっと親しくなりたいと思っていたところだった。そんななか、よきタイミングでお手紙をもらったので、イリスは本当に嬉しかった。このお手紙が、現在の二人の膠着状態を打破する大きな一手となるのではないかと、イリスは期待に胸を膨らませていた。それに、エレンちゃんと仲良くなれれば、お母様を元気づけられるような明るい話題ももっと増えるに違いない。


 イリスはブランコを漕ぐのをやめ、通学カバンのなかから封筒を取り出した。エレンからもらったお手紙だ。イリスはわくわくとどきどきとそわそわの混じった気持ちで、ゆっくりと封筒を開けた。少し緊張して、手が震える。中には便箋が一枚入っており、びっしりと細かい字が書き込まれていた。


 イリスは、ひと目で察した。


 これは親愛の情が記されたお手紙なんかじゃない。

 むしろ正反対だ――。


 そんなイリスの印象は、残念ながら的を射ていたようだった。お手紙をじっくり読んで、印象は確信へと変わっていった。一度読み、それから、二度、三度と読んだ。何度読んでも同じだった。


 勘違いしていた自分自身の浅はかさに怒りがこみ上げ、それからすぐに感情は悲しみへと移り変わった。便箋を元通り封筒にしまい、それからその封筒をカバンに入れた。ブランコに座ったまま、しばらく呆然とし、公園内を歩き回る野鳩を見るともなく眺めた。


 突然、唇のあたりが水滴で濡れた。舌で触ってみると、薄い塩味がした。そのときイリスは初めて、自分が涙を流していることに気がついた。お昼に舌を噛んだときできた傷口に塩味が滲みて、いたずらに痛覚を刺激した。


 希望の光は消えた。

 暗黒の世界のただなかで、ぽつんと一人きりで生きているような感覚にイリスは陥った。

 この世に神様はいないのだと、このときイリスはぼんやりと感じた。この世に神がいたならば、これほどまでの凄惨な仕打ちをイリスに与えることはなかったろう。


 それでもイリスは、こう呟きたくなる自分を止めることができなかった。


「お願い神様、あたしに力をください。お母様を救うことのできる力を。いじめを受けなくなるほどの強大な力を」


 だが、実際に声に出してみて、ようくわかった。

 やっぱり、神様なんていないんだ、と。

「神様」という言葉がいかに虚ろな響きしか持っていないかということを、イリスは身体で実感した。


 だからイリスが次のように懇望こんもうしたのは、ごく自然なことだったのだ。


「この世に神様がいないのなら、悪魔さんでも構いません。悪魔さん、どうかあたしに力をください。あたしのくすんだ魂でよければ、いくらでも差し上げますから」

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