第3話 物語
「また泣いていたんですか?」
マリーが尋ねると、ユリアはこくんとうなずいた。
マリーは、困った人です、と溜息をついた。
「いつまでもめそめそしないでくださいね。気持ちはわかりますけれど、いいかげん、切り替えてください。そんな精神状態では、イリス様をお守りすることなんか到底できませんよ。もう二度と失敗は許されないんですから、気を引き締めてください」
それに、泣きたいのはあたしのほうなんですからと、マリーは小さく付け加えた。
「承知しました、マリーさん」
ユリアは深々と
ユリアもまた、マリーと同様、使用人としてイリスにお仕えする者の一人だった。
マリーもユリアも、イリスとは同級生だ。だから傍から見れば、マリーたちがイリスに対して敬語を使うのはおかしなことだったし、もっと言えばイリス様などと敬称を付けるのもあまり自然なこととは言えなかった。
だが当人たちにとっては、骨身を惜しまずイリス様をお慕い申し上げること、それこそが自然なことなのだった。
なんといってもイリスはお人形さんみたいにかわいらしいお顔をしていたし、気立てがよくてどんなことも笑って許してくれる包容力があった。しかもイリスは貴族のご出身であられたのだ。つまりはイリスには、それだけ尊ぶべき価値があったと言える。
マリーやユリアが、イリスにお仕えすることを自らの使命と考えていたのも、まったく不思議なことではなかった。
いまや、イリス様に対しては敬語で接すべし、というのがこの学校の暗黙のルールとなっていさえした。
イリスはこの学校の象徴的な存在であり、汚さざるべき尊きアイドルであり、神聖不可侵の信仰対象だった。
「読み聞かせ、始めましょうか」
空気を切り替えるように、ぱん、とマリーが手を叩いた。
教室には、椅子を並べてその上にクッションを敷いただけの簡易的なベッドが用意されていた。イリスが寝ているあいだに、マリーとユリアとで作ったものだ。
マリーが簡易ベッドの端に座って、膝枕を作った。
イリスは、膝枕に頭を預け、いつものように物語を聞く態勢を整えた。
マリーの膝枕に頭を置いて寝転ぶのは、読み聞かせをしてもらうのには最適の態勢だった。暖かくて居心地がいいし、ときおりマリーが頭を撫でてくれるので、リラックスした状態で物語を聞くことができるのだった。
イリスは読み聞かせをしてもらうのが好きだった。字の読み書きができぬイリスにとって、本を読むのは至難の業だが、読み聞かせであれば、いくらでもたくさんの物語を摂取することができる。
イリスは物語が大好きだった。物語はいつだって、現実よりもはるかに充実した現実感をもたらしてくれたからだ。
イリスは、ここ最近、毎日毎日筋書きの似たような小説を読み聞かされ続けていた。
しかし、自分が主人公の物語を毎日のように読み聞かせてもらうことは、イリスには、なんら苦痛ではなかった。むしろ、一日のなかで最大の楽しみであると言っても過言ではなかった。物語というものがただでさえ好きなのに、イリス自身が主役の物語ともなると、楽しみは倍加して当然だった。それに、どうせ幾日か経つと物語の内容はあらかた忘れてしまうので、イリスはいくら同じような話を聞かされても飽きることがなかったのだ。
読み聞かせのお時間は、イリスの日常のルーティーンに組み込まれていた。
イリスは記憶力が乏しい。
だからイリスは気を抜くとすぐに、自分とは何者であるのか、どうして魔法が使えるようになったのか、自分は何を為すべきなのか、といった基本的な事項をまるきり忘れてしまうのだった。
それなので、イリスは、毎日のように自分が主人公の物語を読み聞かせてもらい、自分が魔法少女であること、病気のお母様を救わねばならぬこと、しかし病気のお母様を治癒するためにはまだ魔法の力が不足していること、それゆえいまは魔法の修行を積んでいる最中であること、魔法修行がてらに学校じゅうの人たちの身体と心の傷を癒やしてまわるという高貴な慈善事業に日々勤しんでいることなどなどを、すっかり暗記し直す必要があった。
「早く、早く」
イリスが急かすと、マリーは柔らかい笑みを浮かべた。
「では、よろしくお願いしますね、ユリア」
マリーの命に従い、ユリアが一冊のノートを取り出した。
もちろん、濃厚で芳醇なイリスの人生がたったノート一冊分で書ききれるはずはない。
実際、イリスの来し方を余すところなく克明に書き下そうと思ったならば、何百万字にも及んでしまい、ノート一冊にはとても収まりきらず、図書館の本棚に並んでいる文豪の全集くらいのボリュームにはなってしまっただろう。
ユリアがいましがた取り出したこのノートには、そんなイリスの人生をぎゅぎゅっとコンパクトに要約して物語形式に編み直したものが書き記されているのだった。
ユリアはノートを開いて、ゆっくりと朗読し始めた。
「題。『フルール・ド・リスの魔法の姫』。第一章。『魔法少女の誕生』」
凛とした涼やかな声だった。つい先程まで目を腫らすほどに泣いていたユリアの声とは思えないくらい美しい声だった。
小鳥のさえずりみたいな流麗な響きに、イリスはうっとりし、物語の世界に一気に没入していった。
物語は次の一文から始まった。
「イリスは、人生のどん底にいるような気分だった」
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