二十一

 前述のとおり、和久田徹は自らが瀬川徹だった時期のことについてはほとんど覚えていない。それは自らの両親についてもあてはまることで、彼にとって母親といえば腹を痛めて瀬川徹、今の和久田徹を産んだ実の母親ではなく、もう十年近く一つ屋根の下で暮らしている叔母にあたる人物だった。

「母親?」

 だから彼はフェルミの口から「母親」という言葉が出たとき、少したじろいだ。母親になりたい、だって? 何を言っているんだこいつは。だったらおれほど不適格な人間はいないじゃないか。

 あるいは和久田は、確固たる母親というものを知らないからこそ、大多数の人間よりも強く動揺したかもしれなかった。

「そもそも」

 和久田は声を発したが、その声は思いのほか小さく、かすれていた。一度強く咳払いをして最初から言い直す。

「そもそも生理とかはパルタイにはあるのか。セックスしたところで卵子も精子もなかったらどうにもならないだろ」

 それにお前、あんな小さい体で妊娠なんてできるのか。とは思ったが、言いはしなかった。言わなくてよかったと思った。答えるフェルミの顔にある憂いの色は、決して嘘を交えた類のものではなかったのだ。

「そこはパルタイ自身にもよくわかっていないんですよ。ですからきっと、パルタイは生物のように殖えることを想定していない種なんでしょうね」

 その顔はひどく悲しそうで、和久田の心の内にあった彼女への怒りや不信はたちまちするりと消えていった。こんなにも悲しそうな人の顔を、和久田は今まで一度も見たことがないような気がした。

「じゃあフェルミはなんでそんな願いを持ってるんだ。子供が産めないなら養子縁組でもするのか」

「私もわかりませんよ、どうして自分が母親というものに対して執着しているのか。でも、事実私は母親というものに執着し、母親になりたいと強く願っているんです。しかしパルタイとしての体は母親というよりむしろ親に庇護される子供で、インテリジェンスが作った戸籍があるにしても所詮は高校生、結婚しているわけでもありませんし養子縁組なんてできません。

 子を孕むこともできない、法律に基づいた家族関係も結べない、それでも自らと同じものを有した何らかの家族を、願わくば私が母親である形で、得たかった。

 恐らく私が最初に生まれたパルタイだからなんでしょうね。そしてそのための、私の因子を持った別の個体を作るための試作として、鎧型のザインがある」

 言ったでしょう和久田さん。あなたは殺さない、もしかするとあなたの願いは停滞するパルタイの事業に展望を開く作用があるかもしれないからと。

 停滞しているパルタイの事業という言葉が意味するのは、決してパルタイという集団全体のことではなかったのだ。

 フェルミは一歩前へ踏み出し、和久田の手を取り両手で包むように握り込んだ。

「私は私の一部を有するザインを、私の種を人間であるあなたに埋め込む。植え付けられた種は芽を出し、葉を広げ、茎をのばし、高く伸びて、やがて無数の枝葉と太い幹を持った木になる」

 手のひらの全体が円を描きながら撫で、人差し指の先が和久田の手の甲を滑る。

「パルタイに生物的生殖はできない、しかしディングを貸与できるのと同様に、パルタイの力と存在の一部を人間に埋め込むことならば十分可能です。人間とは、逆といえば逆ですけど」

 優しく和久田の手を撫ぜるフェルミの手は彼我の性差を感じさせる柔らかさを持ち、またあたたかかった。武藤の、周囲とは完全に断絶した彫像のような手とは異なり、触れたところから次第に溶けて混ざりあっていくのではないかと思わせる、そんな手をしていた。

 長躯のパルタイは慈愛を込めた目で和久田を見た。その自我がほんの三か月前に生まれた赤子同然のものとは思えない視線に彼はたじろいだ。

 いや、本当のことをいうと、どきりとしたのだ。矢で心臓を射貫かれたような、痛みのない、鼓動を速くするものが瞳と瞳を通じて和久田に流れ込んだ。にこやかにほほえむフェルミを前にして、和久田はどうすることもできず、気付かないうちに引き結んでいた口が、またひとりでに開いた。

「おれは……おれは、母親がどうとか、よくわからん。フェルミが知ってるのは実はおれの叔母にあたる人で、両親はもう十年も前に事故で死んでるんだ。今までおれを育ててくれた二人や哲也も、そりゃあ悪くは思ってないけど」

 哲也というのは彼の義兄の名前だった。

「あの三人に感じる、親愛の情、みたいなものが、実際普通の家族に対するものと同じなのかどうか、おれにはわからないんだ」

 和久田の母だと思っていた人物が実はそうでなかったこと、彼の両親は既に鬼籍に入っていることを打ち明けると、フェルミはぎょっと目を見開いたが、視線を右に向け、ぐるりと回し、また前を見ると、にこりと笑顔を作った。

「それでも構いません。いえ、むしろ好都合かもしれませんよ? 私たち二人が二人とも家族の何たるかを知らないとするならば、二人でそのシニフィエを作ればいいんです」

 共同作業ですよ、と悪戯じみた口調でフェルミが呟いた。

「和久田さんの願い事っていうのは、何なんです?」

「わかるんじゃないのか」

「本人がどう思ってるのかっていうのも重要ですから」

「鎧っていうのは、まさにその通りだよ。一番最初の願いについてなら、どんぴしゃりだ。哲也に見せてもらった特撮番組の……いや、固有名詞でもわかるか。だったらそうしよう。ずっとクウガに憧れてて、今でもそうかもしれない。でも途中で色々あって、クウガにはなれないなと思った。悟ったのかな、わからん。でも憧れの対象というなら他にもあって、一時期すごく仲のいい友達がいたんだ。おれが知らないことでも何でも知ってたし、こういうのもなんだけど、すごく綺麗でさ。特に目がそうなんだ。色素が少し薄いんだろうな、瞳の色が琥珀色で、日に当たると黄金色に見えるんだよ。一度助けてもらって、それから一年か二年か一緒にいたけど、すごい奴だった。

 でもさ、やっぱりできないんだよな、おれは。多分、英雄というか、そういう運命の下に生まれる人っていうのがいて、おれはそうじゃなかったんだ。もしかすると両親と一緒に死ぬはずだったのが、何かの間違いで今まで生き続けているのかもしれない。時々、そう思う」

 結局和久田は彼女を追及しきれぬままに201号室を後にすることになった。彼女を憎みきれないほどに親愛の情を抱いている自己を改めて自覚して、和久田は隔靴掻痒の思いだった。

 結局自分には何もできないんだ。いや、何もできないならいっそ好都合かもしれない、武藤を殺すこともきっと失敗するのだろう。そうだ、それでいいんだ。フェルミも武藤も安全だ、双方好きにすることができるし、フェルミに和久田の命を奪う気がないのなら、武藤がフェルミに敵対する必要もないのだから。

 布団にもぐってもフェルミの手の感覚は消えなかった。独特の柔らかさがいつか強く和久田の手を握った武藤の白い手を想起させて、そこから彼女の白くしなやかな腕、白い丘様に膨らんだ胸、腹、腿のイミッジが湧いてくるまでそう時間はかからなかった。その彫像のような体を嬉々として犯し、縊り殺す怪物の姿も。怪物はあの鎖につながれた男の姿をしていて、淀んだ黒い水に濡れたくせのない髪を持ち、和久田はその姿を見るのがひどく不快だった。


 翌朝八時に登校すると、西門に出くわした。

「よお、徹」

「おう」

 階段から教室の間の廊下で、和久田は正面に立つ彼のおよそ五メートルほど手前で止まった。表では野球部員が朝練のためにグラウンドいっぱいに広がっており、グラブでボールを取るたび響くパチンパチンと革の鳴る音が聞こえた。廊下にはほかに人はいない。朝の八時に登校するような人間は朝練のある運動部員か、そうでなければめいめい教室で予習か読書かに勤しんでいるし、それほど真面目でない人間はそもそも学校に来ていない。

「ははは、だいぶ元気そうでよかった。昨日は本当にひどかったから」

 事実そうなのだろう。自分で振り返っても、昨日未明からの一日は感情の振れ幅があまりに大きくて、滑稽にさえ思える。その様子を率直に「ひどかった」と評してくれる友人に感謝すると共に、ややお節介の気があるのではないかという風にも感じた。彼は前から、中学の頃からこんな風だっただろうか?

「結局さ、武藤ちゃんとはあの後どうだった? いや、さっき教室で顔合わせたんだけど、微妙に気まずい感じになっちゃってさ」

「まあ問題ないよ。フェルミのことでちょっと色々もめたけど」

 ははは、と西門はまた軽く笑った。あの一種独特の悪徳をにじませる笑いだった。

「フェルミちゃんか。二股とかかけない方がいいぞ徹」

「そうだな」

 和久田は西門がいつまで喫茶「青い花」の前にいたのか知らない。最悪ダヴィドを見ていなければいいのだが、しかしこの男のことだ、きっと勘付いているのだろう。和久田と武藤の間の関係が、少なくともろくなものではないということ程度は。あるいは多分フェルミも含めた三人の……いや、それは少々過信含みかもしれない。

 西門を見る和久田の目は、きっとまだ淀んでいる。

 和久田は西門光生がうらやましかった。背は高い、目付きも和久田より温和で笑顔だってずっと爽やかなものに相違ないし、和久田よりもよりよい方法で物事を見て、判断することができる。和久田は五代雄介がうらやましかった。世界を股にかける冒険家、絵にかいたような聖人君子。たとえそれがまったく見ず知らずの誰かであったとしても誰かの笑顔のために命を懸けられる人間。和久田は天道がうらやましかった。快刀乱麻を断つ勢いで窮地の和久田を救い、和久田の手に余るような優れた知恵を授けた恩人で、何よりも無二の親友であり、黄金色の目が今でも脳裏に焼き付いている。

 暗澹たる思いで唇をゆがめるようにして和久田は薄く笑った。惨めだ、惨めきわまりない。結局どうしようとも和久田にはうまくやることができない。永劫回帰ではないが、似たようなことを性懲りもなく何度も繰り返している。フェルミの計画も、あるいは和久田を核に据えようとした時点で失敗を運命付けられているかもしれなかった。

「徹」

 それから西門は歩き始めて、和久田とすれ違う形で階段の方へ向かっていった。

「どこ行くんだ」

「トイレだよ」

 振り返った笑顔は明るく、きっと自分にはあんな笑顔は作れまいと和久田は思った。

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