二
次の日の朝も武藤は席に着いたまま本を開いていた。読書に集中しているわけでは、きっとないだろう。単に人を近寄らせないために本を読んでいるというポーズを決め込んでいるのだ。
和久田は武藤に対して自らの知識を打ち明けるべきか決めあぐねていた。もし単純に《パルタイ》と呼ばれるものどもについて知りたいならばクラスメイトに聞けばいい。しかし武藤はここまでそうしていない。あえて教室の隅で本を広げて静かに情報を集めている。面倒な工程を踏まんとしている以上何か裏が……そうしなければならない特別な理由があるはずだ。
和久田は些細なことさえ気にしないではいられなかった。あつものに懲りてなますを吹くような行為だとしても、彼は他人の心、実体を伴わない、物質世界ではなく、人の心にまつわる事に対して敏感にならずにはいられない性格なのだ。
自白すると彼は中学生の頃に一度大きな、極めて大きな失敗を経験していた。真紅の英雄に憧れながらも自らが無力では何もできないと知った和久田は、体を鍛えると共に暴力によらない解決法も身に着けようと努力した。中学に入り、そこはそれなりに荒れた学校であったので、和久田の技術はそれなりの成果を発揮した。そのせいで思い上がってしまったのだ。ことが起こったのは二年の冬のことである。カツアゲの被害にあっている同級生……嶋というのだが……彼を傲慢にも「助けよう」と割り込んで、殴り合いになった。その時和久田は向かって来た拳を避けて、運の悪いことにそれが嶋に当たった。嶋は前歯を折ってしまい、その怪我が元になってそれまで彼が受けてきた様々な搾取・暴力が明るみになった。そして結局嶋は転校し、結果的に嶋を殴った生徒は退学を余儀なくされた。彼、知念は和久田とも顔見知りで常に悪人というわけでもなかったのだが、その時は酒を飲んでいたこともあって処罰が重くなった。いや、本当のことを言うと、嶋の家が圧力をかけたのだ。和久田は詳しいことは知らないが、地主だか、とにかくそれなりの権力を持っていたらしい。
だが何よりも和久田にとってショックだったのは、相当に金を毟り取られたり暴力を振るわれたりしていたのに、それでも嶋が知念を憎からず思っていたということだった。彼ら二人は加害者と被害者でありながら、お互いを良き友人だと思っていたのだ。
その事件から和久田が学んだのは、ある事象がありそれを外から観測した時、その様子がいかに悪たるものであろうとも、当事者たちがどう思い、どう感じているか、それは絶対に分からないということだ。カント的に言うならば、人間は現象を知覚できても物自体を観測することは絶対に出来ないのだから。
それゆえに、武藤に対しても慎重にならなければならない。入学直後に作られたクラスのLINEグループに半ば強制的に加入させられた武藤だったが退会するでもなく何かコメントするでもなく、現実においてもネット空間においても無言を貫く彼女に接触するには工夫が必要だと感じられた。
ところで、彼がなぜ武藤が《パルタイ》について知りたがっていると思っているのかというと、それには一つのある出来事が関係していた。和久田はフェルミに持たされているあの発信機、ゼンダーを、幸か不幸か、偶然にも武藤の目の前に転がしてしまったのである。
あれは先週の木曜のことのように思う。鞄の中で紐が緩んでいたのを直そうと、和久田は口が開いた巾着袋(重ね重ね不思議に思うのだが、この巾着袋にだけは一切名前が付けられていなかった)を取り出した。それとまったく同時に真横からペンを取り落とす音が聞こえ、驚いた和久田は手を滑らせ、教室の床に袋を落とし、そして中のゼンダーが転がり出てしまった。
ペンを落としたのは武藤だった。しかし時刻は朝、ホームルーム前のことであるから、ペンの一本や二本、あるいはゼンダーのようなさほど大きくないものを落とした程度の音はクラス中に聞こえるようなものではない。特にクラスの他の誰かが和久田の方に目をやるでもない中、武藤だけは、ペンを拾うのも忘れて、床に転がったゼンダーを凝視していた。細い目は大きく見開かれて、真一文字に結ばれていた口は緩く小さく開いて、その顔を見た和久田はいの一番に驚きを感じた。和久田が武藤を見て美しさ以外を真っ先に感じるという事実が、何よりも雄弁にことの重大さを物語っていた。
武藤はばっと視線を上げてゼンダーを拾おうとする和久田を見て、二度三度と二つの間を視線を往復させた。固まっていた和久田は右手で作った手刀を立てて「ごめんごめん」のサインを送りつつゼンダーを拾い、そそくさとそれを巾着袋にしまった。
もしかしたらあの時、武藤は《パルタイ》と同じ気配をゼンダーから感じ取り、驚いて、それでペンを取り落としてしまったのではないだろうか? クラスメイトの一人が捜している《パルタイ》とまったく同じ種類の気配を発するアイテムを持っていたことに驚いて、それであんなにも我を忘れてゼンダーを凝視していたのではないだろうか?
このことはフェルミにも話していない。《パルタイ》の気配が外にもれていたのは事実のため彼女にもばれているかもしれないが、ともかく、そういう理由から、和久田は武藤の秘密も《パルタイ》に関係した何かに相違ないと考えていた。
今朝も同級の男子たちは廊下側の隅に集まっており、和久田もその中にいた。遠目にブレザー姿の武藤を見る。えんじ色のネクタイを上へたどり、カラーと、カラーが覆う首筋の白い色の違いを目に収め、凹凸を見せる円柱の形をした首筋を視線で這いまわるように眺めた。
うつくしいと思った。いや、そんな言葉では足りなかった。美の女神アフロディテはこのような姿をしていることだろう。和久田の頭の中には一つのイメージがあった。武藤が物言わずまっすぐ立っており、一段低いところに和久田がひざまずいているというものだった。そしてまったく同時に、何の因果関係もなく、「ああ、あの透けた白い肌で覆われた首を絞めて殺すことができたならどれほど愉快だろう」と思うのだった。女神のイメージと同じように彼の頭の中には裸に剥かれ犯された武藤の死体がよこたわるイメージがあった。彼は会話に応じつつ彼女の首筋を横目で注視し左手を強く握りしめ、指を開き、また拳を作った。
その日の午後一番の授業は体育で、種目は陸上、男女分かれて持久走の計測をするという内容だった。男子が一・五キロ女子は一キロ、二百メートルトラックをそれぞれ七周半と五周走る。
和久田は顎をあげて今にも倒れそうな井坂を二三回ほど追い抜いて五分三十五秒でゴール。以前から持久走は得意というほどではなかったが、さすがに体力が落ちている。一方西門は四分十三秒と和久田より一分以上速い。バスケットマンなだけあって相当の健脚である。聞けば陸上部員の平均より速いらしい。
続く女子の番では、男子は筋トレのノルマを与えられる以外は暇であった。一通り終わってしまえばめいめい校庭の隅の方でストレッチをしたりトラックを回る女子連を眺めたりしていたのだが、やはりといおうか、フェルミに視線が集まる。
胸の大きい女子というだけならそれなりの数がいるものである。しかし出るところが出てなおかつプロポーションまでとてもいい、グラマラスという言葉が似合うような人物にはそうそうお目にかかれないのではなかろうか。フェルミはまさにそういう肉体の持ち主であったし、恐らくはわざとゆっくり走っているものだから、それはもう男子の視線を釘付けにしてしまっている。どんなに少なく見積もっても三分の一は持って行っているのだからそう語弊があるとも言えないだろう。
たまに和久田を見てウィンクなど送ってくる。井坂を含めた三人が「こっちにウィンクしてきた」「いや俺だ」と馬鹿騒ぎしているのを見て、西門と顔を見合わせ二人してくすりと笑った。
あれ、お前に向けてるんだろ?
多分。
目で会話してまたトラックを見る。体操服に短パン姿で走る武藤は、とくべつ鍛え上げられたわけでなくそれでいて細く引き締まった脚と腕とをむき出しにしている。
目的を悟られぬよう、全体を俯瞰しその一部として彼女を眺めねばならなかった。普段は見ることの出来ない腕や脚の筋肉の動きを余すところなく目に収めるチャンスをふいにされる今のような状況は、和久田にとっては悲しいこととさえ言えた。それでも彼は自分がしていることを周囲に悟られてはならないのだ。これまでだって堂々と武藤を見つめているようでその実非常な警戒を忘れなかった。
特に西門には注意しなければならない。この人物は和久田など遠く及ばないような才能を持っていて、人望に篤く、身体能力はずば抜けて高く、ものごとを深く洞察する力も有していた。和久田が武藤に対してどのような感情を有しているのか最初に暴くとしたらきっと彼だろう。そのくらいに和久田は西門を高く評価していたし、それゆえにこそ和久田は彼を非常に警戒していたのだ。
だから和久田はぼうっとするような目付きでトラックを眺めつつ会話に応じることも忘れなかった。筋トレに誘われると内心涙を流しながら興じた。その後は男女の別なく五人一組に分けられてリレーのバトンパスの練習をすることになり、授業が終わるまで武藤を眺めることは出来なかった。彼女とは別の組になってしまったのである。
内心ではいかに物騒なことを考えていたとしても、和久田も武藤もただの高校生であった。これといった行動を起こすわけでもなく一日の授業が終わると、部活動のない和久田はその足で家路についた。武藤も同様であるようだった。
自転車を漕いで家に帰るまでの間高校での部活動について考えた。交友関係を広げるという点では何かしらの部に入っていた方がいいことは確かだったが、これからどうするか、すなわち高校に入って自分が身の振り方をどうするかということについて未だに決めかねていた和久田は、自分が部活動に入るとして果たしてまともに出席していられるかということからして不安だった。
中学生だった時は、言ってしまえば、ぐれていた。二年の冬まで和久田は不良共となれ合ったり反目したりして放課後の時間を過ごしていた。事件以降は真面目に受験勉強をしていたので、ろくすっぽ部活動に参加していた覚えがないのである。
「おやおや、何かお悩みですか?」
信号待ちで止まっていた時、真横から不意に声をかけられた。かなり距離が近い。耳元といってもいい。やたら慇懃な口調は間違いない、フェルミだ。エフェクトの掛かったような声でないことから、《パルタイ》フェルミではなく人間のフェルミ瑠美の方であるようだった。和久田はぎょっとして声のした方を見た。淡い生成色のワンピースを着てウエストを青いエナメルのベルトで絞っている。
「何かって、何が」
「昨日言ってた、『叶えちゃいけない部類の願い事』のことじゃあないみたいですね……おや! 図星ですか!」
しまった、表情に出てしまった。フェルミは楽しそうに笑っている。
「別に《パルタイ》のフェルミとしては何でもいいんですよ、願いの内容なんて。こっちは貰えるものがもらえれば何でもいいんですから。でもこの私フェルミからすると、何でもいいというわけでもないんですよねえ……あなたが叶える願いは、あなたが抱えているその『叶えちゃいけない願い事』であったほうがいい」
青信号になって自転車を漕ぎ出そうとすると、フェルミはフレームをがっちりと握り込んだ。歩けということらしい。
「そういえば私達の目的、話してなかったですね」
無言で歩いていたさなか唐突にフェルミが喋りだした。
「私達の、最終目的といいますか、ワクタさん《超人》って知ってます?」
「スーパーマンか? アメコミは読んでもないな」
「いえいえ、アメコミじゃありませんし、スーパーマンでもないです。Übermenschですよ」
その単語はイーバメンシュだかウーバミンシュだかいうふうに聞き取れた。英語ではないのだろうか。
「ドイツ語ですね。ニーチェのいうところの《超人》というやつです。知りませんか? 獣類と人間の先にあって、人間は獣類と超人の橋渡しらしいですよ。だった気がします」
それだけ言ってフェルミは黙ってしまった。拍子抜けして言いたいことはそれで終わりなのかと聞くと、ええ、と返してくる。しかしその言葉で思い出したのか、彼女はメールアドレスとLINEアカウントの交換をもちかけてきて、勢いのままにそれらをひと通り、ついでと電話番号の交換まで済ませてしまった。するとフェルミは満足したようで、じゃあこれでと言ったきり手を振りながら来た道を戻って行ってしまった。
家に帰ると大学生の義兄がいた。今学期のこの曜日は授業が二限しかないという彼は、警官である父親に似て眉が太く、和久田にはあまり似ていない。映画と特撮ドラマをこよなく愛する性分で、和久田にあの真紅の英雄の存在を教えたのもこの義兄だった。
フェルミには兄といったがあれは正確には義兄である。なぜかといえば、彼は和久田の伯母の息子すなわち従兄弟にあたる人物であり、和久田は五歳の時に死んだ父の姉にひきとられたという事情があるからであった。
自動車事故だった。母も同時に死んで、色々な事情が絡みあった結果、和久田は伯母の家で暮らすことになったというわけだ。
苗字はそのとき伯母の夫の姓である和久田に変わったのだが、ときおり自分はそれまでの苗字である瀬川姓を名乗っていたのかもしれないと考えると、不思議な気分になった。すくなくとも瀬川姓では武藤の隣の席になることはなかっただろうし偶然に感謝しなくてはいけないな、などときわめて軽々しく考えることもあった。そんなものだ。時折両親を早くに亡くしたことを話したりすると、相手はなんだか申し訳なさそうな表情をするが、当の和久田本人は別に何とも思っていないのである。十年経ってほとんど顔も覚えていないし、顔写真を見たところでなんだか赤の他人を見ているような気分になるのだ。
「へえ、これがおれの両親なのか」
頭では彼らが自分にとって重要な人物であることは理解しているし、なんだか懐かしさを感じるようなところもないではない。しかしその懐かしさは一体どれだけ実際のものなのだろう、すなわち彼が感じる懐かしいという感情のうちどれだけが、「彼ら二人が自分の実の両親である」という認識から生じるものではなく、純粋な彼の真の家族に対するノスタルジーから生じるものなのだろうかと自らに問うてみると、甚だ怪しいものがあるのだった。
なにより和久田にとって死、両親の死はある意味で所与だった。両親を失って伯母夫婦の家にひきとられ、警察官の伯父とイラストレーターの伯母を保護者として過ごし、義兄と一緒に特撮ドラマを見て育ってきたというこれまでの生活もまた確実に和久田の一部だったし、和久田徹という名前もそうだが、今いる彼を構成するかなりの要素は瀬川家ではなく和久田家にあったのだから。
和久田は空の弁当箱を流しにあけて箸と共に洗い、二階の自室に入った。今の和久田は比較的真面目な学生であったので授業の復習と予習は欠かさないたちだった。授業が三時に終わって、三時半過ぎに帰って来た和久田は、ひと通りを終え、先月に買って未だに読破していない芥川龍之介の短編集を読んだ。夕食は作り置きのものがあったのでそれを食べた。部屋に戻ると和久田はベッドに横になった。
眠りはしない。フェルミがいない部屋で、彼はずっと武藤と自分のことを考えていた。
武藤と出会ったのはこの四月の頭、すなわち高校に入学した時である。入学式の当日、周囲の新入生と挨拶を交わす様子もなくたった一人でいる武藤を目にしたその時が、和久田が常軌を逸した崇敬と狂気の念にとりつかれた瞬間だった。あのときフェルミはその場にいただろうか? 住んでいるのが隣なのだから目的地が同じなら家を出てすぐに合流するはずだろうが、その後どうしただろう。それを忘れてしまうほど武藤陽子の美貌は衝撃的だった。
そしてその日以来、彼は武藤に対して静かな狂信を続け、彼女の苦痛に喘ぐ姿を夢想することに悦楽を感じるようになっていた。
何か得体の知れないものが和久田の心にとりついているようだった。きっとそうだ、彼はそう思っていた。確信していたといってもいい。武藤楊子にはじめて会ったその日から、おれの心の中に人間によく似た怪物が住みついている。植えつけられたといってもいいであろう……誰が? 誰でもない、だが強いて言うならば武藤だ。武藤本人は何もしちゃいないが、彼女という存在それ自体が、すなわちおれが武藤に出会ったということそのものが、おれの中にこの異常なものを住まわせることになった直接の原因だということは疑いようがない。こんなものが一人の人間の中にいるということがそもそもおかしいのだ。フェルミが狙っているところのものもきっとこいつ、おれの中に巣食う怪物なのだろう。
和久田は手前勝手にも、自分の心の急激な変化を何か隠しているらしいクラスメイトに半ば責任を押し付け、さらには未だよくわからないあの怪人の目的をも説明できるような結論をでっちあげようとしていた。しかし、いくら和久田が持ち合わせている情報が少ないとはいえ、武藤と《パルタイ》との関係はどのようなものなのか、フェルミがこの怪物に用があるとして一体どのような形で利用しようというのか、和久田の考えではそれらがいまいちよくわからないままになっている。あの時の武藤の目付きから考えられる事柄は、単に願いを叶えてほしいというだけのことではなかった。そうだとして、では、何なのか――いまいちどころではなかった。まるで見当が付かない。しかし彼としてもそこは追々明らかになればいいと思っていたので、ひとまず和久田は考えるのをやめることとした。
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