ラスト

高瀬拓実

ラスト

 目を開けて時計を確認すると、七時ちょうどだった。いつも通りの時間。何となく、そんな気はしていた。

 俺は毎日その時間に目覚ましをセットして起きる。それから顔を洗って歯を磨いて、朝ご飯食って、着替えて、学校に行く。

 ただ、今日は違った。俺にとって、いや、俺たち中三にとって特別な日。そのため、登校時間は普段よりも二時間ほど遅い。それに合わせて目覚ましをセットし直した。でも、起きた時間はいつも通り。

 後から鳴らないように目覚ましを解除してあくびを一つ。

 どうしようか。普段通りに八時前に登校して、一人学校の中を歩き回ってみようか。そう考えた直後、ふとあいつの顔が浮かんできた。そうだ、一人じゃない。二人だった。俺以外にそのもう一人がいるから、やめよう。あいつ、変に鋭いんだ。「急に別れが惜しくなった?」とか聞いてくるのは目に見えている。

 三月中旬は普通に寒い。そろそろ木の枝先から芽が出始める頃合いだけど、この寒さじゃもう少し後になりそうだ。新芽みたいに布団にくるまって、目を閉じる。昨日は今日のことを考えると、珍しく眠りに落ちるまで時間がかかってしまって、あんまり眠れなかった。それにも関わらず、こうして目を閉じてみても二度寝の気配は訪れそうになかった。それもこれも、やっぱり今日のことが頭から離れないからだ。

 他のやつらも、おんなじなのかな。峰岸とか大西が「もう中学校ともお別れか」って、一緒にたそがれていたことを思い出す。その時の俺は、何しみじみしてんだよって心の中で思っていたけど、今になったら二人の気持ちが分かるような気がした。

 ……卒業、するんだよな。俺。

 急に暗闇が嫌になって、体を起こした。朝の冷えた空気が肌に触れる。窓の外にはこれまでと何一つ変わらない町の景色があって、電線の上で小鳥が二、三羽身を寄せ合うようにして鳴いている。空は冴えなくて、今日くらいは青空を見せてほしかった。

 じっとそうしていると頭の中でいろんなことが浮かんでくるから、洗面所に向かった。洗顔とか歯磨きに意識を集中させる。

 それが済むと、リビングへ。母さんはエプロンをしたままテーブルの上で一息ついていた。手の中のマグカップにはレモンティー。部屋に入った時、レモンの香りがした。

「あら、おはよ? 早いわね?」と母さんは結構疑問形にして尋ねてきた。

「いつもと同じ時間だろ? 今日だけ遅くてもいいって言われてもさ、急に遅く起きれないよ」

「遼らしいわね」

 朝ご飯準備するね、と言って母さんはマグカップを置いて台所に向かった。

 朝ご飯を口に運んでいると、母さんは少し表情を曇らせて聞いてきた。

「ねえ遼。……今日、式見に行くから」

「いいって。別に中学の卒業式なんて大したことないだろ」

「そんなことないよ。大切な日よ」

「大切じゃないって。友達も、みんな親は呼ばないって言ってる」

「田辺さんとこは行くって言ってたわよ」

「田辺さんは田辺さん。うちはうち」

「それじゃあ、友達だって関係ないじゃん」

「…………」

 俺が言葉に詰まると、母さんは嬉しそうに笑う。

「とりあえず時間見つけて行くから」

「勝手にどうぞ。俺は仕事がどんどん舞い込んでくることを願っているよ」

「それはありがと。でも昨日のうちに今日の分はほとんど終わらせてあるんだ」

 いっそのこと来るな! って叫んでやろうと思った。でも、何とかそれをベーコンエッグと一緒に飲み込んだ。これ以上母さんといても楽しくないから、残りを一気にかき込んで台所まで持っていく。

「ごちそーさま」

「準備できたら呼んでね。写真撮るから」

「はあ!? いらねーよ写真なんか」

「いいからいいから」

 と笑う母さんに向かって、「こっちこそいいから!」と言い放ってリビングを後にした。

 九時半前に家を出た。外に出ると、冬の空気が出迎えた。春は遠い。

 家を出るまでの二時間は何もせずにぼうっと過ごした。携帯を開いて友人にメールを送るのも、バスケットボールを触るのも、躊躇われた。そこに意識を集中できない気がした。

 カメラのレンズを見ていたら気も紛れるかなと思って、結局写真を撮ってもらった。……けど期待した効果は得られなくて、母さんに卒業生らしくしなさいと注意された。……何だよ、卒業生らしくって。

 卒業生らしさが分からないまま、俺は家の前にある小さな公園に入った。待ち合わせにしか使わない公園。同じ団地に住む幼稚園児や小学生は適切に使っているみたいだけど、この年齢にもなると、少し外れた使い方をするくらいしかできないものだ。

 ベンチに座って、足元に目を落とす。白けた地面はきっと冷たい。軽く蹴るとザッと音がして土煙が舞った。

 その場に停滞していた砂埃が、突然吹いてきた風に流されて一瞬で消えた。……うう、ほんとに寒いな。

 空は起きた時と変わらずに曇っていて、まだ冬モードの太陽はその上で弱々しい姿を隠していた。

 そういうのいいから、出てこいよ。なんて空の白い部分を睨んでいると、俺の名前を呼ぶ声がした。

 峰岸と大西だ。細い峰岸と、名前通り西に大きい大西。背は峰岸の方が高くて、大西の方が低い。完璧に対照的な二人が、こうして俺を迎えに来るのも今日で最後か。そんな日でも、俺が発した声は今までと同じものだった。

「おー」と言ってポケットに手を突っ込んだまま立ち上がる。

「寒いな」と峰岸。

「先週は暖かかったのにね」と大西。

「俺もマフラーしてくればよかった」峰岸は俺の首に巻かれた紺色のマフラーを見て言った。

「お前、コート着てんじゃん」

「コート着てても首元は寒い」

「大西を見習え」

 大西はただ制服を着ているだけだ。この三人の中で一番軽装なのに、彼は体を震わせることも鼻水をすすることもしない。寒さに強いのだ。

「こうして突っ立ってるから余計寒いんだよ。ほら、行こうよ」

 大西に促されて、俺たちは学校に向かうことにした。

 この二人とは、小学生の頃からいつも一緒に行動している。いわゆるいつメンだ。中学生になって、峰岸とは同じバスケ部に入った。同小では俺たち二人だけだったから、自然とそのままつるんだ。大西とは、三年間ずっとクラスが一緒だった。昔から横に大きくて、そのくせ縦には伸びない。三年経っても大した変化はなくて、密かな悩みの種はすくすく育っているみたいだ。ちなみに、美術部。

 やや奇妙な組み合わせの三人組も、ついにこの春に別れることになった。峰岸は私立の高校に、大西は頭がよくて、市内でも上から三番目の公立高校に入ることになっている。そして俺は……。

 俺は、何とか公立の高校に入学できるらしい。らしい、というのはまだあんまり実感がないからだ。

 通う予定の高校は、正直、志望校ではない。志望校より一つレベルを下げた高校。家からそう遠くないし、取り立てて頭が悪いわけでもない。何より、公立であるから母さんへの負担を結構減らせる。これは、一番重要なことだ。私立なんか、最初から選択肢はなかった。

 だから本当は、もう一つレベルを下げる予定だった。でも、俺のわがままで一つだけしか下げなかった。今考えてみれば、どちらも志望校ではなかったのだから意味のない主張だったかもしれない。変な意地で周りを振り回したことを後悔している。

 後悔はしているけど、受かってよかったとは本当に思っている。母さんの涙ぐんだ笑顔を見た時のことは忘れないだろう。それがあるから、まあ、何とかやっていけそうだ。

「俺たちもついに卒業かー」と大西が言った。「何か実感湧かないなぁ」

「授業に遅刻してるみたいで、ちょっとそわそわするよな」

「もしかして今日普通に授業あったりして」

 ははは、と二人は笑う。楽しそうな二人。

「なあ、」俺はそんな二人を理解できなくて尋ねた。「卒業、したいか?」

「んー……どうだろ」と大西は空を見上げた。大西、横顔はしゅっとして見えるんだよな。特にそうやって顔を上げている時。首を伸ばしているからかな。「みんなと別れるのは確かに寂しいと思うよ。でも、高校生活もそれはそれで楽しみなんだ」

 メガネの奥の目は、静かな光をたたえていた。

「俺は……ほんとのこと言うと、卒業したくない」大西とは違って峰岸は空を見上げなかった。といっても、下を見るでもなくて、前をじっと見ていた。俺たちは河川敷の上を歩いていて、町をよく見渡せた。遠くに霞む橋の上を、マルーン色の電車がゆっくりと走っている。「やり残したことあるから」

「へえ、何?」

 と俺が聞くと、峰岸は苦々しく笑ってこう返してきた。

「バスケ。一回でも勝ちたかった」

 ああ、こいつは、本気だったんだな。今更、ほんと今更のように気づく。

 俺と峰岸が所属していたバスケ部は、市内でも最弱のチームだった。それだけじゃない。学校の運動部の中でも一番活躍をしていなかった。

 バスケ部は、全員がバスケのバの字も知らないような素人で構成された部活動だった。俺たちが一年だった時の三年と二年も、今の二年も一年も、全員素人。唯一峰岸だけは小学生の時に少しかじっていたから、俺たちより上手かった。そのくせ顧問は無駄に厳しくて、ついていけないと言って多くがやめていった。結局、元いた数の半分以上が消えていった。

 そういうことが原因で、体育館は活躍の見込めるバレー部やバド部が優先的に使っていた。バスケ部は、校庭の隅っこにある古いゴール――通称「遺産」を使用して練習する日々だった。校庭が基本的な練習場所だから、雨の日は筋トレ。いろんなことが部員にフラストレーションとして溜まっていったんだろう。やめていくのも分かる。

 では、どうして俺はバスケをやめなかったのか。大して上手くもない俺が、どうして三年間続けてこられたのか。

 俺は常々、背が高いことはいいことだと思っていた。小学生の頃から周りよりも背が高くて、峰岸よりも大きかった。バスケで常に飛び跳ねていれば、より大きくなれるだろう。そんなことをぼんやりと考えていた俺に、峰岸がバスケ部を勧めてきた。そして、入った。ただそれだけの理由だ。

 だけど、俺の予想とは裏腹に背は伸びなかった。いつしか峰岸にも抜かされてしまった。保身のために言っておくと、元々背は高い方だったから、小さいわけじゃない。せめてもの救いだ。

 いつかは伸びるかも。という希望を胸に抱き続けていると、いつの間にか三年が経っていた。俺のバスケ部への要求はそんなことだから、峰岸みたいに熱中はできなかった。練習も厳しかったし。それでも、今思う。もう少し一生懸命やっていたらな、と。これも、後悔。

「わりい」

 気づけばそんな言葉が口をついていた。

「何で遼が謝んだよ」

「いや、何となく」

「高校でもバスケ続けんだろ?」

「……んー未定だ。バイト、するかもしんねーし」

「そっか。おばさん、大変だもんな」

 ん、とだけ返事すると、「いい奴だなあー全く」と言って髪をくしゃくしゃされた。今日卒業式なんですけど……。


 学校が見えてきた。校門の前にはこの日のための看板が華やかに、でも慎ましく立てられている。それだけが、いつもとは違うところ。後は全く一緒だ。校舎が数センチ移動しているわけでも、校庭の真ん中に地上絵が描かれているわけでもない。ただ――

 ふと屋上に目をやると、あいつがいた。朝から屋上にいるなんて、やっぱりあいつにとっても今日は特別な日なんだな。

「どした、遼」

 立ち止まった俺を訝しむ二人に適当に返事をして、追いつく。

 教室に入ると、喧騒が迎えた。峰岸はすでに隣の二組に消えていって、大西と二人で席に荷物を置いた。

「遼! 大西!」

 友人に名前を呼ばれて、俺と大西は男子の塊に加わる。

「何か、女子がさ。卒業式終わったら打ち上げするとか言ってっけど、お前ら来る?」

 へえ、打ち上げか。確か母さん、じいちゃんとばあちゃん呼んでご馳走食べるって言ってたな。

「わりい、用事あるんだ」

「そっか。大西は?」

「行くよー」

「りょーかい」

 どうやらほとんど行くみたいだ。俺と同じように用事があって行かないやつもいるみたいだけど。

 打ち上げ。本音を言うと、行きたい。でもどうせ文化祭の時と同じように近所のファミレスで駄弁るだけだろう。あの時ははしゃぎ過ぎて怒られたな。今回だってその危険性がないわけじゃない。それに、連絡を取ればいつだって会える。そう考えることで、俺は未練を断ち切った。

 出し抜けに、学級委員長の女子が教卓の前に立って高い声を出した。自然とクラス中の目が彼女に集まる。

「式が終わったら、先生に色紙と花束を渡すので、くれぐれもばらさないように」

 ああ、色紙。書いたな。一言。「ありがとうございました」って。

 先生との特別な思い出があるわけでもないし、先生の何を知っているわけでもないから、それしか書けなかった。もう一言、「お世話になりました」とか「高校でも頑張ります」とか書けばよかったかもしれない。

 数分後、チャイムが鳴って先生が現れた。

 中途半端に若い(?)女性の先生。一部の男子には人気らしい。俺には良さが分からない。

 普段から落ち着いた服を着ているのに、今日は華やかな紅い着物を身に纏った先生は、違和感だらけだ。髪も後ろで一つにまとめられているし、胸にコサージュがついていて、頬も少し赤い。気合入ってるな、とやけに他人事みたいな感想しか出てこないのは、やっぱり大して関わりがなかったからだろうか。

 席についてください、と言われて俺たちは席に座った。教室を見回して全員が来ていることを確認すると、先生は言った。

「卒業、おめでとう。みんな、本当に大きくなったね。でも、三月が終わるまで中学生なんだから背伸びしないよーに」

 先生はコサージュを配って、全員がつけ終わると、「それじゃ、体育館に行こっか」と言って俺たちを廊下に並ばせた。

 場所は変わっても辺りはそわそわと落ち着きがない。それは先生も同じみたいで、注意を促してはいるけど、その声は普段より高かった。

 体育館前に着くと、すでに一組、二組が待機していた。俺たち三組は二組の後ろに並んだ。外はやっぱり寒い。冷たい風が吹くと、みんな似たような反応をする。すぐそばの池も、枝先までむき出しになった何かの木も。みんな、春を待っている。

 突然、先の方で拍手が聞こえてきた。吹部の演奏も聞こえてくる。体育館の扉が開かれて、一組が入っていったんだ。続いて二組の列が動き出し、そして、いよいよ三組もその後に続いた。予行演習の通りに俺たちは卒業生らしく入場した。

 保護者、在校生の間を真っ直ぐに進んで行って、指定の席に座る。全員が座り終え、静まったところに教頭先生の声が響く。

「これより――」

 開会の挨拶。卒業式が始まった。ひんやりした館内で、じっと舞台の方を見る。

 最初こそ話を聞こうとするけど、やがては集中力が途切れて別のことを考え出す。開会宣言が終わると、次は校長先生の式辞だ。式での決まり文句みたいなものを言い始めたことは何となく覚えている。でもそれから先は、ほとんど覚えていない。……あいつのせいだ。

 ……誰からも視えないからってやりたい放題だな。舞台の縁に堂々と座りやがって……。

 そいつは向かって右側の方に視線を巡らせた。俺を探していることは明白だ。予行演習で俺が座る位置を確認済みだし、何より、俺にしかそいつは視えないのだから。そいつから視線を外そうとしたところで、運悪く目が合ってしまった。屈託のない笑み。ピースとかすんなよ。って睨んでも、向こうの調子は上がるばかりだ。もう、放っておこう。今度こそ完全に視界に入らないようにして、式に集中する。

 校長先生の式辞が終わると、いよいよ卒業証書の授与が始まった。こればかりは緊張する。

 一組から順々に、一人ひとり授与される。俺は自分の番までの時間を、受け取り方の確認に割いた。現在進行形で行われている授与を確認しながら、頭の中でも確認しながら、だけど実際には手や足は動かさない。あくまでも、イメトレ。

 そしてついに、三組になった。イメトレは十分も続かなくて、それまでぼうっと授与式を眺めていた。

 やっとか。緊張よりも、もはやそんな考えが浮かんでくる。

 自分の名前が呼ばれた。「はい!」と大きく返事をして立ち上がる。

 授与はそれぞれ担任の先生が行う。これまでで一番派手な先生。間近で見ると、化粧で顔がめちゃくちゃ照っている。

 そしてその横。俺にしか見えないそいつは、またこぼれんばかりの笑みを俺に向けていた。

 無視無視。

「卒業おめでとう」という一組一番の生徒以外に送られるシンプルな言葉を、俺もしっかりと受け取る。そして、先生と同じ言葉、同じ動作をするそいつ。

「ありがとうございます」とこっちもシンプルに返事をして、イメトレ通りの手順で受け取り、席に戻る。ったく、迷惑なやつだ。ちょっかい出すなって言ったのに。

 席に向かう間、俺は何となく在校生と保護者のところに目を向けた。後輩の姿を探したり、気づけば母さんの姿を探していた。

 だけど、時間は全然なくて、見つける前に席についてしまった。

 授与が終わると、祝辞や祝電が披露された。大きな仕事が済んだ身としては、全然頭に入ってこなくて、もう終わらないかな、なんて考えが頭をよぎってしまう。

 でもその前に、もう一仕事しなくてはならない。

 歌だ。

 在校生の送辞、卒業生の答辞があって、最後の歌に入る。送辞を務める後輩も、答辞を務める女子も、あんまり関わりのないやつだった。だからだろうか、そのやり取りは二人だけで完結しているように感じられた。

 答辞が終わって、斉唱する。司会の指示に従って、俺たち卒業生は舞台前に作られたひな壇に並ぶ。ああ、ここからだとよく見えるな。

 と、指揮者の前に膝を抱え込むようにして座るあいつと目が合った。笑顔がトレードマークとはいっても、今日はにこにこし過ぎだろ。そして改めて思う。本当に誰も視えないのか!? と。

 そいつに意識を向けていると、視界の端で指揮者の動く気配がした。はっとなって、頭を切り替える。足を開いて手を後ろに。ピアノの演奏が始まって、それから小さく息を吸い込んで、歌う。

 しばらくは指揮者を見ていた。だけどその下にいるあいつが視界に入ってきて、仕方なく館内の後ろの方に目を向けた。

 俺の目は自然とバスケ部の後輩を探していた。ああ、いるいる。人数少ないし、あっという間に見つかった。その中の一人、女バスの前田と目が合った。向こうもじっとこっちを見ていて目を離さない。何か顔についているのかと思って、さりげなく顔を拭ってはみたものの、何もついていなかった。……あんま見んなよな。

 人数の少なかった男バスは、さらに人数の少ない女バスとも合同で練習していた。内訳でいうと男六、女四。俺たちの代は全員男子しかいなくて、中二の時に女子が入ってきて、歓喜したっけ。みんな面倒見がよくて、後輩も人懐っこいやつばかりだったから、上下関係の壁とか、全然なかった。それだけでなく、誰が好きだ、とかいう色恋みたいなのもなくて、年の違う友達みたいな関係だった。試合があればお互いのチームを応援したし、夏の合宿では顧問が寝静まったらこっそり旅館から抜け出して近くの砂浜で花火をした。冬には午前連が終わったら雪合戦とかしたな。前田に特大の雪玉を顔面に食らって、何でもするからと言われて、マフラー編んでよなんて言ったら、本当に編んでくれた。冗談だったのに、って言ったら今更遅いですって返された。まあ、そうだよな。

 あいつらとの思い出を懐かしんでいると、曲が終わっていた。急に寒さを覚えて後ろに組んだ手をすり合わせる。

 三組の先頭が動き出した時、あ、と思って保護者席の方を見る。母さん……母さん……。いた。ほんとに来たのかよ……。来なくていいって言ったのに。俺と目が合うと、手を上げて指先だけを動かしてきた。誰かに見られているわけでもないのに、照れくさくって、俺は顔をそむける……。って、いた。いたよ、見てるやつ。

 こいつ、歩いても音がしなければ気配もしないから、声もかけずに俺の横を歩いていたらびっくりするに決まってんだろ。「わっ」って声上げそうになったじゃん。

「よかったよ。いい歌だったね」

 という彼女の声は完全無視。彼女も、俺が無視することを分かってて言ってるんだ。

「お母さん来てくれてよかったね。期待してたんでしょ?」

「してない」

 うっ……しまった。つい口が滑った。周りの胡乱な眼差しが矢のように刺さる。

「あっはははは。やらかしたー!」

 無視!

 席につくなり、ふっとため息がこぼれた。もう大丈夫だとは思うけど……。油断はできないな。

 気を張っていると、式はつつがなく終了した。閉会の挨拶があって、一組から順番に退場した。体育館から出て緩み始めた神経は、一般棟に入ると完全に戻った。「終わったー」「寒かったねー」という声がそこかしこで上がる。

 教室に着くと最後のホームルームが始まった。先生の話があって、アルバムと筒を一人ひとり配られた。その後、学級委員長がタイミングを見計らって色紙と花束を先生に渡した。まあ、予想通り先生は泣いた。化粧が崩れるのを気にしてだろう、ハンカチを目元に押し付けていた。

 ホームルームが終了すると、写真撮影と寄せ書きタイムの始まりだ。まずはうるさい音を立てながら机を全部後ろに下げて、クラス写真を撮った。その後は個人で動く。

 特に仲の良かった女子はいなかったから、基本は男子に寄せ書きを書いてもらう。それでも数人の女子から寄せ書きを頼まれれば、お返しにとこっちもメッセージを記入してもらう。

 男子同士で固まっていると、一人が「俺、片山に告白してくる」と突然宣言し出した。俺たちが大きな反応を見せると、顔を赤くして「しー」と言う。学年でも一位、二位を争う美少女なんて言われているのに、すごいな。勇気あるな。

 そこで初めて気づいたけど、そういうのって、割とあるらしい。他にも女子に呼ばれて消えてったやつもいることを教えてもらった。

 もう会えないから、最後に想いを伝える、か。何か、全然離れてるな。同じ環境で過ごしてきたのに、こうも道が分岐するなんて、不思議だ。

 俺はそういうの、全然ない。好きかも、って思ったことは何度かあったかもしれない。でも、それだけ。告白するまで誰かを想ったことなんてない。現に今、好きになったやつのことを思い出しても、何とも思っていないし。

「おーい! 遼」教室の外から峰岸に名前を呼ばれた。それを機に、クラスの連中とは別れることにした。「また遊ぼうな」「高校でも頑張れよ」みたいなことを言い合って、教室を後にする。

「そんじゃ、行こっか」

「ああ」

 バスケ部は、いつもの遺産ゴール前で集まることになっていた。俺と峰岸は途中、九条と川口を誘って集合場所に向かった。

 すでに顧問と後輩たちは待機していた。

「よし、来たなお前ら」

 顧問の先生はいつもと変わらずぶっきらぼうに話し始めた。高校に入っても頑張るんだぞ、という言葉で締めくくると、峰岸が一歩前に。

「先生! 今までお世話になりました!」そう言って、花束を渡す。

 先生は少しも感情を出さずに感謝の言葉を受け取り、峰岸は元の位置へ。

「先輩!」

 そして代表として、安達が前に進み出る。

「三年間お疲れ様でした! 入部した当初、バスケのことを何も知らない俺たちに、一から優しく教えてくれて嬉しかったです。練習が厳しくて、辛いなって思った時も、先輩方はいつも優しく声をかけてくれました。部活以外でも仲良くしてくださって、とても楽しかったです。試合では一度も勝つことができなくて、残念でした。ですが、俺たちは諦めません。もっともっと練習して、次こそは勝ってみせます! 峰岸先輩、向井先輩、九条先輩、川口先輩、今まで本当に、ありがとうございました!」

 安達に続いて、全員が頭を下げる。卒業式の送辞とは違って、こっちは自分に向けられているという実感があって、すごく照れくさかった。それに、寄せ書きも四人それぞれもらって、尚更恥ずかしい。

 ここでも記念写真を撮った。全体のものと、個人のもの。一通り撮り終わると、一之瀬の「アルバムに絵描いていいですか?」という声を皮切りに、また寄せ書きタイムが始まった。絵はもちろん描かれたし、普通のメッセージももらった。

 不意に背中をつつかれて振り返ると、そこには前田がいた。何か言いたそうにしている。でも何も言ってこないから、「どした? ああ、よかったらさ、前田も寄せ書き書いてよ」とこっちが先にお願いした。

 すると前田は、「いいですよ」とはにかんだ。彼女、笑うとえくぼができるんだよな。短めの髪を風に揺らしながら、丸文字を増やしていく。

「ありがとな」

「いえ……」

 前田の表情は、晴れない。どうしたんだろう。寄せ書きを書きたかったんじゃないのか?

「あの、先輩……」彼女はうつむいて、小さい声で話し始めた。「後で、屋上に来てください」

「え、屋上? 何で?」

「何でもです」

 そう言い残して、前田はグラウンドを駆けて行った。

「あーちゃん、どしたの?」という峰岸の問いに、俺は「さあ」としか答えられなかった。

 寄せ書きタイムも終了すると、俺たちはその場を離れることにした。他の三人は帰ったり、まだ残ったりするそうだ。俺は、残る側。

「じゃあ、みんな元気でな」

 手を振り合って別れると、その足で屋上に向かう。

 謎だな、前田。いつも大人しくて、何考えてるかよく分からなかったけど、よく笑うんだよな。だからえくぼが印象的なんだ。

 屋上は地上よりも寒かった。青空だったらいくらかましだったのに、やっぱり空一面灰色。ため息がこぼれる。

「前田?」

 呼びかけると、前田は鈍い動作で振り返った。両手でスカートの裾をぎゅっと掴んで、寒そうだ。

「ここ、寒く――」

「遼、先輩……」

 俺の言葉を遮るようにして、前田は言った。そう言えば、こいつだけだったよな。俺のこと名前で呼ぶの。秋ぐらいに遊んでいる時、罰ゲームを受けることになって、名前で呼ぶことを許可したことがきっかけだ。

 どうした、と聞くのはさすがに野暮だと思って、じっと次の言葉を待っていた。

 風鳴りが断続的に耳に届く。

 そして、少し長めの風が吹いて、やんだ頃。前田は口を開いた。

「第二ボタン……ください」

「え」

 ダイニボタン。それを理解するのに、少し時間がかかってしまった。

 ああ、制服の。

「いいよ」

 でも、どうやって取るんだ? かじかんだ手でいじくっていると、あっけなく取れた。前田に近づいて、渡す。

「はい」

「ありがとう……ございます。お返しに――」

 これあげます、と言って前田は白い花をくれた。

「ありがとう。きれいだな。何ていう花?」

「この学校には、トイレの花子さんがいるって噂、知ってますか?」

「え?」

 前田は俺の疑問には答えず、そんなことを言い始めた。

「物知りなんですって。その花のことは、花子さんに聞いてください。それよりも……先輩」

 ずっとうつむいていた前田だったけど、突然顔を上げてこっちを見てきた。バスケ部なのに背が低くて悩んでいた前田。心なしか、背が伸びた気がする。

 なんてことを考えていたからだろうか。前田の言葉が上手く理解できなかった。

「……好きです。先輩のこと」

 私、遼先輩が好きです。と、前田は言った。

 スキ。へえ、すき。

 好き。

 あ、ああ!? え? 前田が、俺のことを好き?

 理解した途端、顔が熱くなって、心臓が速くなった。

「ちょ、ちょっと待てよ」

「待ちません! 好きは待ちません!」

「いやそうじゃなくって」

「私じゃ、だめですか……?」

「いや、そうじゃなくって……」

 前田に、ついていけない。とりあえず、落ち着こう。前田は俺のことが好き。でも、何で。今までそんな素振り見せてこなかったのに。いや、俺が鈍かっただけなのか? 前田のアピールに気づかなかっただけなのか?

「なあ、前田。好きでいてくれたことは嬉しいよ。でも、何で……」

「それは、先輩が私のことを一番気にかけてくれたからです。私地味だから、よく周りに埋もれがちなんです。でも先輩は私によく声をかけてくれて、いつも優しくしてくれて、背が伸びないことで悩んでいた時も、一緒になって悩んでくれて。だから私、遼先輩のことが……」

「そっか……」

 俺は、何も前田のことを特別扱いしていたわけじゃないんだけどな。一人の後輩として、友達として接していただけなのに。まさか、それが好意につながっていたなんて。

 告白とか、俺みたいな平凡なやつには無縁のものだと思っていた。今でも信じられない。前田が俺のこと好きだって? 何かの間違いじゃないかと思う。

 でも、前田は嘘をつくようなやつじゃないってことはよく分かっている。そう、よく分かっている。ってなると、俺は前田のことをよく見ていたってことになるのかな。

 でも……。

「前田」俺はなるべくいつも呼びかけるような感じで彼女の名前を呼んだ。

「はい……」と言った前田の目は俺を見ていない。

 そんな彼女に、本当のことを告げるのは、胸が痛んだ。でも、相手を思ってのことだ。前田に嘘はつけない。

「ごめん」

 前田の目がわずかに大きくなった。

「前田の気持ちは、ほんとに嬉しい。でも、俺にとって前田は、仲の良い後輩で友達で……だからその……ごめん」

「……そう、ですか。へへっ」

 と前田は笑う。えくぼが、切ない。

「ごめん、前田……」

「もう、謝らないでくださいよ、先輩。私の押しが弱かっただけです。へへ、私ぶきっちょだから、もっと上手に伝えられればよかったなぁ」

「…………」

「高校行っても、頑張ってくださいね。それじゃ!」

 前田は急ぐように俺の横を駆けて行った。風の流れが生じて、前田の匂いと冬の匂いが混じる。後ろを振り返れなくて、扉の閉まる音がしたことで彼女がいなくなったことを悟る。

 ……あの返事、よくなかったかな。冷静さと罪悪感が同時に襲ってきた頭で、そう考える。何か、また後悔している。

 でも、あれ以外に思いつかなかったし。前田を悲しませないために、嘘をついて「うん」と言えばよかったのか? いや、それは相手のためにならないもんな……。

 どうすれば、よかったんだ……。

 その場にどっと座り込む。両手で上体を支えて空を見上げる。今にも雪が降りそうな、濁った色をしていた。

 そうやって視界を一面空に向けていると、突然、声が聞こえてきた。

「みーちゃったーみーちゃったー」

 声のする方を見る。校庭側のフェンス。の、その向こう側。すーっと校舎の影から姿を現したそいつは、嫌な笑みを向けている。幽霊らしい登場……というか、幽霊なんだからぴったりか。

 ただ、今の俺にはそれを突っ込む気力はない。そもそも、こいつのそういうところは幾度となく見てきた。もう、慣れっこだ。向こうだって、いちいち俺の反応は期待していないだろう。

 ふいっと顔をそらして一言。

「ほっとけ」

 すると彼女は、音もなく隣に腰を落ち着けた。幽霊は壁をすり抜けたりできるみたいで、フェンスなんてなおのこと。でも、こいつはそんなことしない。体の中を異物が通り抜ける瞬間が嫌なんだと。実体がないのに、まるで生きているやつみたいなこと言う。だから、きっとこいつはフェンスの上を浮遊してここまで来たはずだ。見なくても、分かる。

「私がいつ君のことを放っておいた?」

「……ないな」

「そう、ないのよ。それに今日で最後なんだし、余計放っておかない」

「最後だから放っておけよ」

「意味分かんない」

「…………」

 俺が何も言わないでいると、そいつはつぶやくように言った。

「前田朱里ちゃん、だっけ」

「…………」

「君も鈍いわねー。あの子、一年の夏くらいから君のこと想ってたよ」

「まじ?」

「まじ」

「幽霊って、そういうことも見通せるのか。やっぱハナってすごいな」

「トイレの花子さんはいつでも学校を見守っているからね。あ、私はトイレ関係ないか」

 と、ハナは笑う。

 俺がハナの存在に気づいたのは、入学式の時だった。今日の卒業式みたく、校長先生が話している最中に、舞台の縁に座って足をぶらぶらさせていた。あの子何やってんだよ、問題児かよって、周りを見回してみた。そしたら誰も気にしていなくて、不思議に思っていると目が合った。こいつも前田と同じでよく笑うんだ。えくぼは、ないけど。

 入学式が終わって一人になった時、声をかけられた。「君、私のこと視えるんだね」なんて言われて、俺は素っ頓狂な声を上げた。

「私、俗にいうトイレの花子さん。ハナって呼んで。あ、トイレにはいないから注意してね」

 その台詞が、一番印象的だった。

 これまで幽霊を視たことは一度もなかったし、霊感もないと思っていた。それなのに、何の前触れもなく、俺はハナと知り合った。幽霊が視えるやつって、珍しいのかもしれない。よくテレビ番組で霊感のある芸能人が登場しているのを目にしていたから、そんな風には感じなかった。でも実際、学校中でハナの姿が視えるのは俺だけで、七不思議で花子さんがいるとか、赤い服の女の子をトイレで見かけたとか、そういう話を聞いたことはあったけど、本当に視たやつはいない。だってハナ、赤い服じゃなくて普通の制服着ているし、トイレにはいないから。

「呪ってやる」とか「殺してやる」とか悪霊みたいなことは一度も言ってこなくて、テストでも答え教えてくれたりしたから、すぐに打ち解けた。自分に危害がなければ、幽霊とだって親しくなれる。俺の、少し変な長所だ。

 二年前の春に出会ってから、こうして卒業するまで毎日顔を合わせていた。幽霊のハナはちっとも成長しなくて、いつの間にか同学年の女子たちは彼女の背に追いついたり、追い越したりしていた。

「遼、後悔してるでしょ」

 突然ハナがそんなことを口にし出して、俺の思考はぷっつり途切れる。

「してるな」

 こいつに嘘はつけない。ついてもバレる。幽霊だから。

「何をそんなに後悔してるの? 高校のこと? それとも告白のこと?」

「……何ていうか、全部。そういうこともひっくるめて、全部後悔してる」

「全部、かぁ……」

「俺、何でも中途半端だったんだよ。バスケだってそこまで熱中していたわけでもないし、勉強だってできるわけでもないし。かと言って、他に好きなことがあるわけでもない。でも、今になってようやく気づいたんだ。バスケも勉強も、ちゃんと正面から向き合っていたらよかったって。前田のことも、真剣に見ていたらよかった。全く、気づくの遅すぎだっての……」

 と、小さく苦笑してみせる。

「後悔したって、仕方ないよ」

 正直、心外だった。ハナはいつも優しい言葉を与えてくれるから、そういう、わずかに慰めから離れた言葉は、確かな重みを持って胸の懐に入り込んでくる。

「……んなこと分かってる」

 投げやり気味に答えると、ハナは笑ったみたいだった。地面を睨む俺に向かってハナは言った。

「君さ、何か勘違いしてない?」

「勘違い?」

「そ。ここを卒業したら、それでもうおしまい。みたいに考えてんじゃないの」

 どうだろ。そうかな。言われてみると、そうかもしれない。

 俺が無言を貫いていると、ハナは小さく笑った。

「確かに君はこれから高校生になる。ここにはもう来ない。でもだからって、置いていく必要なんかないんだよ。楽しかったことも、辛かったことも、今君が言った後悔だって。全部持っていけばいい。新しい場所までちゃんと持っていって、それでちゃんと向き合えばいいじゃない」

 ハナは俺の正面に立って、俺のことを見下ろしていた。その目にはいつもの優しさといたずらっぽさが宿っていた。

「…………あのさ、」

「ん?」

「ハナって、どうして俺にしか視えないんだろうな。お前、いいやつなのに、みんなに視えないとか残念だ。俺よりももっと悩み抱えてるやついるのにさ、そいつには視えなくて俺にしか視えないなんて、何か理不尽だ」

「ふふ、ありがと。やっぱ優しいね、遼は。朱里ちゃんも見る目あるわ」

「買いかぶんなよ。ほんとのことだろ。お前と話せば誰だってそう思う」

「そーんなことないよ。昔、私のこと視えた女の子は学校にお化けがいるって転校しちゃったし」

「それはきっと、タイミングが悪かっただけだよ」

「どうかな。まあ、そういうことにしておこう」

「そういうことなんだって」

「遼ってさ、バカみたいにいいやつだよね。私も君のそういうとこ、好きだったよ」

「……幽霊からも告白か。何か、むずむずするな」

「遼はどう? 私のこと、好きだった?」

「まあ、普通にかわいいし、優しいし。好きか嫌いかって言われれば、好きかもな」

「じゃあ、朱里ちゃんは?」

「…………」

 前田。俺は前田のこと、仲の良い後輩だと思っている。そして、友達だとも。彼女にも、そう言った。けど。

 どういうわけか、もう一度その言葉を言えなかった。なぜだろう……こいつの前だと嘘がバレるから? ……嘘? それじゃあ仲の良い後輩っていうのも、友達っていうのも、嘘だったのか?

 いや、違う。嘘ではない。本当に仲良かったから、間違いではない。ただ、それが全てではない。

 じゃあ、俺にとっての前田は、一体……。

「遼。さっきも言ったでしょ。ここを卒業しても、道は続いてる。終わりなんかじゃない。だからさ、もう一度――」

「俺、ちゃんと向き合ってみる」

 前田のこと、ちゃんと考えてみる。

 真っ直ぐに見たハナの顔は、相変わらず笑っていて、本当に幽霊なのかと思ってしまうくらい鮮明だった。

「じゃ、行ってこい。君のことは、ここで見守っているよ」

「ああ、たまには遊びにくっから。それじゃ」

「待って」

 振り返りかけた俺に、ハナの声が呼び止めた。

「その花。カスミソウっていうのよ。花言葉は、『感謝』」

「感謝……。ありがと、ハナ!」

 俺は急いで屋上を飛び出した。忙しなく靴を履き替えて、あいつを追いかける。

 前田らしいなと思った。好きな相手に、あえて『感謝』の花言葉を送るところ。ちゃんと見ていなかった俺がいうのもおこがましいかもしれないけど、でも、これからは――


 前田を見つけたのは、河川敷の上だった。うつむいて、小刻みに震える肩を見ると胸が痛くなった。言わなくちゃ。覚悟を決める。深く息を吸い込んで、彼女の名前を呼んだ。

「前田!」

 小さな肩がビクッと震えて、両腕が素早く目元を移動した。近づいている最中にこちらを振り向いた顔は物憂げで、目は赤くなっていた。

「あの……ハンカチいる?」

 差し出すと、前田は「ありがとうございます」と言って控えめに目元に当てる。

 落ち着いてきたことを確認すると、俺は口を開いた。

「あのさ、前田。俺、さっきお前のこと、仲の良い後輩だって言ったけど。あれ、嘘。いや、嘘じゃないんだけど、でも本心でもないんだ。何ていうか、ああいうの初めてで、びっくりしたけどそれ以上に嬉しくて。でも俺、いろいろ中途半端だったから、そんな気持ちで前田のこと振り回しちゃいけないと思ったんだ。だからあれは、前田を傷つけないために言ったことなんだ。でも、結局傷つけちゃったよな。ごめん……」

 頭を下げると、前田は無言で首を振るだけだった。

「俺、前田のことちゃんと見るからさ。一人の後輩としてだけじゃなくて、一人の、女の子として。だから、時間くれないか? 卒業したけど、これからも遊んだりしてくれるか?」

 すでに前田はハンカチを目から離していて、俺がそう言うと赤い目にみるみる涙を溜めていった。

「ああ……あの、ごめん。自分勝手だよな。ほんと、ごめん」

 彼女でもないから頭を撫でるのも悪いと思ってあたふたしていると、前田は泣きながら笑い出した。

「どうした……?」

「っへへ……。先輩って、鈍すぎですよね」

「あ、ああ。今日、気づいた」

「……もちろんですよ。私、いつでも待っていますから」

「……ありがとう。前田」

 えへへ、と前田は笑った。えくぼができる。

 そうして俺たちは二人並んで歩き出す。

「あ、」突然前田が声を上げた。彼女は足元の一か所を見ていた。「土筆」

 アスファルトの裂け目から、確かに土筆が顔を出していた。ぬるい風が吹いて、土筆を小さく揺らす。どこかで小鳥たちの伸びやかなさえずりが聞こえてくる。依然として空は雲で覆われていたけど、ずっと向こうには晴れ間が広がりつつあった。

 その青を見つめて、俺は思う。

「もうすぐ、春ですね」

 空から前田に視線を移すと、彼女は嬉しそうに微笑んだ。つられて俺も口元を緩める。

 前田の言う通りだ。


 春は、近い。

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ラスト 高瀬拓実 @Takase_Takumi

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