第4話 咲埜(3)

犬だ。

赤く濁った瞳の。

黒い大犬。


「…っ」


不意に思い出して私は身を震わせた。


(あの犬。見えてたの、私だけ?)


あの時はよくわかってなかった。

父が逝ってしまったことも。

犬が異常な禍々しさを感じるものであったことも。

思い出した映像の犬は、どう考えてもただの大型犬とはいえなかった。


熊のような犬だった。

牙をむくドーベルマンを思わせる獰猛な印象の犬は、ほぼ即死だったらしい父の車の陰から現れ、しっかりと私の姿を「確認」してから、物陰に消えていった。


(確認?)


確かに、目があって。


馬鹿な。


(犬がそんな認識をするはず…)


「咲埜。助かったわ」


がしょん、と自転車を停車させたアパートの二階から降ってきた声で、私は思考を停止させた。


「ありがとう」


見上げると、母の困った顔に笑顔が滲む様が、視界で確認できた。


「そそっかしいんだから」


私は赤黒く錆び付いたアパートの金属製の階段をあがっていき、自分から祖母の家の合鍵を鍵穴に押し込んだ。


「ごめんね。道中何もなかった?」


徒歩でアパートにやってきた母は、困ったような顔で首を傾ける。


「うん。平気だってば。お母さんの方が疲れてるじゃない。大丈夫?」


祖母が心配だという母。

そんな母の周りこそ最近病気や怪我をする人が増えて、母が大変だということは娘である私がよく知っている。


(大丈夫じゃないくせに、人の心配ばっかり)


自分じゃそこまで人の心配ができない。

私は本日何度目かの溜息をついた。


「病院で使うものだけパパッと持って来ちゃうね。お祖母さん、急に入院するもんだから何も病院に持って行ってないのよ」


母は娘が心配してることも知らず、祖母の話をしている。


「なんで、入院したの?」


「うーん、何だか心臓が悪いみたいで…」


母の顔が曇った。


「そうなんだ…」


何となく、それ以上は聞けなかった。


「とりあえず、入ろう。私も手伝うから」


「あら、いいの?」


母はやっと顔を綻ばせ、「助かるわ」と、祖母のアパートに上がり込んだ。

私も後から続こうとして、ふと、私は背後を振り仰いだ。


なぜかわからない。

だけど。


(なんだろ。変なの)


何となく、誰かの視線を感じたような気がしたのだ。


(気のせい気のせい)


私は、かぶりを振ってアパートのドアを閉めた。

うまく言えないけど後味が悪かった。

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