甘×恋クレイジーズ

第4話 １級感染者

　「う、後ろだ！」

　機長がそう叫（さけ）び、反射的（はんしゃてき）に恋華（れんか）は自分の背後を振り返った。

　そこに立っていたのは先ほど操縦室（そうじゅうしつ）の扉（とびら）を開けて出てきた副操縦士（そうじゅうし）だった。

　ただしその顔からは先ほどまでの理性は失われ、まさしく悪魔じみた狂気（きょうき）を孕（はら）んでいる。

「くっ！」

　恋華（れんか）は慌（あわ）てて左手を副操縦士（そうじゅうし）の前に突き出すが、副操縦士（そうじゅうし）はその手を払（はら）いのけると一気呵成（いっきかせい）に恋華（れんか）に飛びかかる。

　そして伸びてきた副操縦士（そうじゅうし）の２つの手が恋華（れんか）の白くて細い首を締（し）め上げた。

　がっしりとした大きな手が恋華（れんか）の首元にがっちりと食い込んでいる。

「くはっ……うぎぅ……」

　気管（きかん）を締（し）め上げられ、息も絶（た）え絶（だ）えに声を漏（も）らす恋華（れんか）の耳元におぞましい声が響（ひび）く。

「忌々（いまいま）シイ神気（しんき）ヲ撒（ま）キ散（ち）ラス神（かみ）ノ使（つか）イヨ。死（し）ネ……」

（い、１級感染者。しまった……予言はあくまでも【操縦室（そうじゅうしつ）前】だった……のに）

　恋華（れんか）は土壇場（どたんば）で自分が判断（はんだん）を誤（あやま）ってしまったことに今さらながら気がついた。

　先ほどの正気（しょうき）に見せかけた副操縦士（そうじゅうし）のその表情こそ罠（わな）だったのだ。

　だが後悔してもすでに遅（おそ）く、首を絞（し）められて酸欠（さんけつ）状態の恋華（れんか）は抵抗（ていこう）する力を失った。

　懸命（けんめい）に副操縦士（そうじゅうし）の手をつかんでいた彼女の両手が力なくガクリと下ろされる。

（こ、こんなところで……）

　恋華（れんか）の目の前が暗くなりかけた。

　だが、彼女の意識が遠のきかけたその瞬間（しゅんかん）、操縦席（そうじゅうせき）から立ち上がった機長がとっさに副操縦士（そうじゅうし）に体当たりを浴（あ）びせた。

　そのはずみで副操縦士（そうじゅうし）は機長とともに倒れ込み、恋華（れんか）はその両手から解放（かいほう）されて床（ゆか）に倒れ落ちる。

　二人の男は床（ゆか）の上で激しく格闘（かくとう）していた。

　彼らの手足が計器（けいき）に当たってけたたましい音を立てる。

　だが、副操縦士（そうじゅうし）のほうが体格も大きく力も強い。

　機長は幾度（いくど）も顔や腹を殴（なぐ）られて徐々（じょじょ）に劣勢（れっせい）になっていく。

　その音と争（あらそ）う声にハッと我に返った恋華（れんか）は激しくむせ返った。

「ゲホッ！　ゲホゲホッ！　はぁっ……ふぁ」

　急激に肺（はい）の中に空気が満ちていき、欠乏（けつぼう）していた酸素（さんそ）が血液（けつえき）の中を一気に駆（か）け巡（めぐ）る。

　頭がクラクラして、ぼやけた視界（しかい）の中、次第（しだい）に焦点（しょうてん）が合っていく。

　気がつくと恋華（れんか）は操縦室（そうじゅうしつ）の床（ゆか）に倒れていた。

　呼吸（こきゅう）はまだ荒く、締（し）められた首はひどく痛むが、恋華（れんか）は目の前で副操縦士（そうじゅうし）が機長を打ちのめすのを見て歯を食いしばった。

　副操縦士（そうじゅうし）は恋華（れんか）が立ち上がったことに気がつき、機長を振り払（はら）うと恋華（れんか）に飛びかかってくる。

「ウガァ！」

「きゃっ！」

　副操縦士（そうじゅうし）は恋華（れんか）の肩をつかみ、操縦席（そうじゅうせき）の椅子（いす）に力任（ちからまか）せに押し付けた。

「ソノ首（くび）ヒネリ潰（つぶ）シテクレル」

　そう言うと片方の手を再び恋華（れんか）の首にかけようとした。

　その時、殴（なぐ）られて顔面を血に染めた機長が反対側の操縦席（そうじゅうせき）で自動操縦（そうじゅう）システムを解除して操縦桿（そうじゅうかん）を力いっぱい押し込んだ。

　途端（とたん）に機体が急下降（きゅうこうか）し、恋華（れんか）を押さえ込んでいた副操縦士（そうじゅうし）が体勢を崩（くず）して計器板（けいきばん）に顔を打ちつける。

（今だ！）

　恋華（れんか）はこの隙（すき）を見逃（みのが）さなかった。

　彼女は副操縦士（そうじゅうし）の後頭部（こうとうぶ）に左手を押し付ける。

　調査官（ちょうさかん）の名を冠（かん）する左手の指輪（ゆびわ）【スクルタートル】が赤い光を放（はな）ち、電気信号（でんきしんごう）が恋華（れんか）の体を駆（か）け巡（めぐ）って彼女の脳（のう）に到達（とうたつ）する。

　ほんの一瞬の間に彼女の脳（のう）が情報を処理し、目の前にいる男の中に巣食（すく）っていた悪しきプログラムの解析（かいせき）が進んでいく。

　わずか１秒に満（み）たない間に、恋華（れんか）の脳はその解析（かいせき）処理を行った。

　その間、副操縦士（そうじゅうし）は恋華（れんか）の左手をつかんでこれをひねり上げようとする。

　だが、恋華（れんか）の反応（はんのう）のほうがほんのわずかに早かった。

「解析（かいせき）完了よ」

　そう言うと恋華（れんか）は素早く男の頭に今度は右手で触（ふ）れた。

　医師の名を冠（かん）する右手の指輪（ゆびわ）【メディクス】が青い光を放（はな）つと、彼女の脳内（のうない）で解析（かいせき）された信号（しんごう）が修正プログラムとなり、彼女の右手を通して再び副操縦士（そうじゅうし）の脳内へと戻っていく。

　ほんのわずかな沈黙（ちんもく）の後、副操縦士（そうじゅうし）は目をカッと見開いたまま、けたたましい悲鳴（ひめい）を上げた。

「ウガァァァァァッ！」

　それも刹那（せつな）のことであり、すぐに副操縦士（そうじゅうし）は一切（いっさい）の体の力を失って床（ゆか）に崩（くず）れ落ちた。

　恋華（れんか）は相手の最後を見届（みとど）けると静かにつぶやいた。

「どこの誰だか知らないけど、あなたが悪魔なんかじゃないことは分かってるわ。ブレイン・クラッカー。あなたは必ず私が修正してあげる」

　ようやくこの空の上の騒動（そうどう）は決着（けっちゃく）を見た。

　恋華（れんか）に襲（おそ）い掛（か）かっていた副操縦士（そうじゅうし）は床（ゆか）に突（つ）っ伏（ぷ）したまま動かなくなったが、息はある。

　機長は何が起きたのか分からず呆然（ぼうぜん）とした表情を浮（う）かべていたが、仕事への使命感からすぐに操縦席（そうじゅうせき）に座（すわ）り直すと操縦桿（そうじゅうかん）を握（にぎ）り締（し）めた。

　すっかりと黒い霧（きり）が晴れた操縦室（そうじゅうしつ）で、機長による管制塔（かんせいとう）へのエマージェンシーコールが発せられる中、恋華（れんか）はようやくその目に安堵（あんど）の色を滲（にじ）ませた。

　だが、彼女の所属（しょぞく）する組織（そしき）【カントルム】の指示により恋華（れんか）が日本で行うべき仕事はまだ始まったばかりであった。

　恋華（れんか）を乗せた飛行機は彼女の生まれ故郷（こきょう）である日本の地へと降（お）り立とうとしていた。