第3話 エマージェンシー・ラッシュ

 恋華れんかは舌をまないよう、固く口を引き結んで走り続けた。

 恋華れんかすわるエコノミークラスの座席は機体の最後方であり、先端せんたん操縦室そうじゅうしつまで行くにはビジネスクラスとファーストクラスの区画くかくけ抜けて機体を縦断じゅうだんする必要がある。

 これだけれ動く中で走り続けるのはひと苦労だったが、恋華れんかは体をあちこちにぶつけながらも決死けっし覚悟かくご通路つうろを走り抜けていった。


「お客様! 何を……」

「おかまいなく! ちょっとトイレに行くだけですから!」


 客室乗務員のひとりがおどろきの声を上げて恋華れんかを止めようとするが、彼女はそれを振り切ってエコノミークラスの区画くかくからビジネスクラスへと突入とつにゅうした。

 すると途端とたんに先ほどまで感じていた黒い空気のよどみが強くくなり、恋華れんかはピリピリとした緊張感きんちょうかんが背中に走るのを感じた。


「お客様! 危険です!」


 び止めようとした客室乗務員に目もくれず、恋華れんかはひたすら前へ前へと走り続けた。

 ビジネスクラスやファーストクラスの乗客らはやはり突然の不安定な飛行によって混乱状態こんらんじょうたいおちいっており、いきなりけ込んで来た恋華れんかの姿を気にかける余裕よゆうはないようだった。

 やがて恋華れんかの前方に操縦室そうじゅうしつとびらが見えてきた。

 とびらは閉まったままだが、恋華れんかは迷うことなくとびらに向かって突進とっしんする。


(予言は操縦室そうじゅうしつ前であって操縦室そうじゅうしつ内じゃない!)


 だが恋華れんかが現れた途端とたん、ファーストクラスで機体の迷走めいそうについての対応に追われていた客室乗務員らの顔色が変わった。

 恋華れんか操縦室そうじゅうしつへと一直線に向かっていることがすぐに分かったからだ。


「お客様! コックピットへの立ち入りは航空法にて固くきんじられております」


 そう言う客室乗務員らの顔はきびしく、その対応はすでに不審者ふしんしゃに対するそれだった。

 彼女らのうち最も恋華れんかの近くにいた一人が力ずくでも恋華れんかを止めようとその体に手をかけた。

 恋華れんかは自分に組み付いてくる乗務員に向かって金切り声を上げた。


「知ってます! 中には入りませんからご安心を! はなして!」

「お席におもどり下さい!」


 操縦室そうじゅうしつはもう目前もくぜんだというのに、恋華れんかは客室乗務員ともみ合って前に進めない。

 他の客室乗務員らも恋華れんか阻止そしすべく近づこうとするが、いっそう激しくなる機体のれにそれもままならない。

 その時、操縦室そうじゅうしつとびらいきおいよく開いた。

 予期せぬことに、その場にいる客室乗務員の全員がおどろいた顔でこれを振り返る。

 恋華れんかは自分の体を押さえていた乗務員の気がそれたすきを見て、うでに力を込めた。


「ごめんなさい!」


 そうさけぶとその場に客室乗務員を引き倒し、立っていられないほどのれの中、床を転がりうようにして操縦席そうじゅうせき前へとたどり着いた。

 開いたとびらの中から現れた男の制服の肩章についている金色の3本線を見て、恋華れんかはそれが副操縦士そうじゅうしであることを知り、その男の顔を見た。

 男は左のこめかみと鼻から血を流していたが、その目は正気を失っていなかった。


「き、機長が突然錯乱さくらんして……助けてくれ!」


 副操縦士そうじゅうしの言葉に恋華れんか即座そくざ反応はんのうして操縦室そうじゅうしつに目を向けた。


(ということは、クラッキングされているのは機長……)


前言撤回ぜんげんてっかい! 入ります!」

 

 そう叫ぶと恋華れんかまようことなく操縦室そうじゅうしつの中へと突進とっしんした。

 どちらにせよこのままでは機体は墜落ついらくし、乗っている人間はほぼ全滅ぜんめつき目にあう。

 法規ほうき違反だろうが何だろうが行動する以外に道はない。

 中は思ったよりもせまく、恋華れんかはすぐに立ち止まる。


 操縦室そうじゅうしつの中はむせ返るほどの黒いきりが立ち込めていた。

 そんな中、機長はまっすぐに前を向いて操縦桿そうじゅうかんにぎっている。

 恋華れんかは精神をませ、正気を失っておそかって来るであろう機長の襲撃しゅうげきそなえた。

 そして先ほど乗客の男に対処したように、両手で機長の頭にれようとした恋華れんかは思わず声を上げて動きを止めた。


「えっ?」


 恋華れんかの両目が戸惑とまどいの色をびてれた。

 なぜならば機長が予想外の反応を見せたためだ。


「き、君は? どうしてここに……」


 機長は動揺どうようしていたが、確かな口調でそう言ったのだ。

 操縦桿そうじゅうかんにかじりついている機長は、突然入ってきた恋華れんか驚愕きょうがくの表情をかべた。

 なぐられたあとらしく顔を赤くらしていたが、その顔から人間らしさは失われていない。


 恋華れんか困惑こんわくした。

 本来ならば機長の顔は狂気きょうきゆがみ、その目は悪意と憎悪ぞうお宿やどしているはずだった。

 彼女はこの3年の間にそうした人間の顔をいやというほど見てきている。

 その度に嫌悪けんおしたものだが、目の前にいる機長の顔にはそうした嫌悪けんおを感じさせる色は微塵みじんもうかがえなかった。

 そして恋華れんかは気がついた。

 機長が必死に操縦桿そうじゅうかんにぎっていて、そのために機体のれはいつしか止まっていることに。


(機体を不安定な状態にしていたのは……機長じゃない?)


「う、後ろだ!」


 機長がそうさけび、反射的はんしゃてき恋華れんかは自分の背後を振り返った。

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