第17話:竜の帰還


 時間は少しばかり遡る。


 赤い月明かりを受け、あたかも澄んだ血の池のように仄かにきらめく泉のほとり。

 篝火を焚き、その熱気に二人は座して当たっていた。


 グロットは、それまで着ていたのであろう鎧を荷物に纏め、髪を梳かしつつ、乾かしていた。ついでに洗った下着も木の枝に引っ掛けて干している。

 薄い肌着の姿もやはり色っぽく、グロットの締まった身体つき、健康的な色っぽさを衒っているのだが、それもネラプの目には映じられない。誠に遺憾である。


「…………」

「…………」

「…………」

「……あ、ええと……食べ物に困ってたら、その、今手持ちあるんで。食べます……?」

「いや、間に合ってる」

「そうですか……美味しいのに」

「…………」

「…………」

「……やっぱり一口だけ、貰っていいか?」

「! はい!」


 彼女は二十という歳の割に、大人びた女だった。

 正直で、率直。それがネラプが抱いた最初の印象。


 そして長剣を引っ提げてよく一人旅をしているためなのか、その旅慣れた雰囲気、どこか世間慣れしている様子などはネラプとは対照的だ。


「ええと、グロットさんは、その……」

「なんだ?」

「あの、この森のことは知ってるんですか?」

「この森……『白の森』のことか?」


『白の森』という呼称は、ウッドから聞いていたため

 訊いておいてなんだが、最近になってその呼称を知ったネラプにとって、グロットに対しては愚問のように思えた。


「ええまあ。こんな森に入るなんて、自殺志願者以外見たことないですから」

「ふふっ」


 すると、グロットは初めて小さく笑い声を上げ、


「もう既にお前がいるだろう」

「あ、そっか。……そうでした」


 ネラプは、若干の気恥ずかしさに縮こまった。これこそまさに愚問というものだ。


「まあハッキリ言って、私はお前を信用していない。突然こんな危険な森で暮らしていると言われても、はいそうですかとは見過ごせない。……今はモンスターかただのおかしな人間か、見定めているところだ」

「え……!?」


 そんなネラプにグロットは、実に率直に、気後れする必要をまるで感じていない風にこう言った。


 ネラプは、思わずギクリとしてしまう。

 人間にはない、この眼のことが知れたらどうなる?

 もし争いになったとして、いくら相手が女だからといって勝てる気はしない。グロットの腕前がどれほどか以前に、こっちは女のそれよりも子供であり、貧弱なのだから。


「そう驚くな。少なくとも今は、何の脅威も感じてない。だからそんな怯えなくていい」

「あはは……」


 確かにグロットには、ネラプに対して特別警戒しているようには見えなかった。

 それは一つに、ネラプが目を閉ざしていることが理由だろう。

 そしてもう一つ、グロットは騎士としての腕前に相当の自信を持っているように受け取れる。女の身一つでの旅話は、その表れのように思えた。


「私は、聖教会の聖騎士なんだ。布教の旅は何度もしてきたが、この森には目当て……ある任務でやって来た」

「聖教会……聖騎士」


 聞き覚えがある。

 そう、以前ウッドからちらりと聞いたことだ。

 カトリールと、聖教会。国教であるガイン教の内に、この二つの宗派がこの世にはあるのだと。


「聖騎士って、どんなことをしてるんですか?」


 聖騎士について、詳しく知らないネラプはそれについて訊いてみた。

 そこは本職、布教を目的としてきただけあってグロットは淀みなく教えてくれた。


「聖騎士は、聖職者とは別の形で教えに仕える者。基本の目的はやはり布教だが、時には武力をもってして信徒達など皆を守るためにもある。聖職者同様、誇りある仕事だよ」

「へぇー……」


 今まで外に広がる世界を意識しなかったと言えば、嘘になる。

 かつてバナージの一件があった時も、森の外の光景を初めて見て、その景色の広さに感じ入ってしまっていた。

 ウッドやミイナから、よく離れたところにある町の話、都やその建物の話をしてくれるのが好きだった。グロットの旅の話などは、好奇心に飢えるネラプにとっては良い餌だ。


「まあ旅に次ぐ旅のせいで、こうしてややだらしない生活こそしているけど」

「そうなんですか?」

「ああ。……恥ずかしい話だが、さっきみたいに身体を洗ったのは七日ぶりだ。後輩にももっと女らしくしろとよく怒られる」

「うわー、旅って大変だなぁ……それじゃあグロットさん、さっきまで俺よりも汚かったんですね」

「むう。女に向かって、随分なこと言ってくれるじゃないか」


 そう文句を言いつつ、グロットも言葉尻におどけた調子を見せて笑う。

 こうして話してみると、彼女に対し、柔らかい印象が強まった。


「……そうだ、確か聖教会って、カトリールと対立してる宗派、なんですっけ」

「……チッ」


 しかしただ一つだけ、カトリールという言葉を発すると、グロットはあからさまに不機嫌を籠めて舌打ちし、顔色を変えた。


「……私はな────カトリールが死ぬ程嫌いなんだ! この世の何よりも、奴らゴミ共を毛嫌いしている! 正直この魔物退治より、カトリールの異教者共を私の剣の錆にしてやりたいくらいだ……!!」

「…………」


 肌で感じる程に凄まじい殺気を迸らせ、グロットは悪態を吐き捨てる。

 ネラプは、その剣呑な様子に思わず気圧されてしまった。口を入れることが出来ない。


 すぐにグロットも我に返ったのか、慌てたように、


「……あ。す、済まない! ちょっと熱くなった」

「いえ……」

「いつもは今のような教えを請われても激昂したりしないんだ。気が抜けていて、つい……!」


 つまりは、普段は体裁は取り繕うものの、その胸中には強い憎悪と摩擦が燻っているということ。

 一信徒であるグロットでもここまでなのだ。カトリールと聖教会────この二つの勢力の対立は、どうやら相当に根深いものらしい。今のネラプに、口出し出来ることではなかった。


「そ、そうだ。大したものじゃないんだが、ほら、手を出して」


 そして、グロットはふと思い付いたことがあり、ネラプに『ある物』を手に握らせた。


「これは……?」

「怪我用の包帯だ」


 グロットは続けてこう説明する。


「その目の包帯、襤褸ぼろを裂いて作ってるだろう、少し古いぞ。怪我ではないとは言え、清潔にしておいてバチは当たらない」

「え、でも……」

「お詫びついでだ、受け取ってくれ」

「じゃあ……ありがとう、ございます……」

「そうだ! 替えるのを手伝ってやろうか? 私がやった方が巻きやすいと思うが、どうだ?」

「……ええと」


 ネラプは別に気にしてなかったが、グロットは固辞しても聞かずにグイグイと押し付けてくる。


 変に律儀な人だ、そうネラプは思った。


「……じゃあ目は閉じてるので、ちゃちゃっとお願いします」

「任された!」


 ……大丈夫だ、今回に関しては。

 この瞼を絶対に開かない。それだけでいい。


 もう、この眼は人を殺さないのだから。


「お前……包帯の結び方もなってないぞ。誰かに教わらなかったのか?」

「ええと、自己流で……いたたた! も、もっと優しく……!」

「固く締めないと解けるだろう。安心しろ、眼は押し潰してないから」

「いやそれは確かにその通りで凄いですけど、流石にキツすぎ……」

「男の子なら我慢しろ。後でちゃんと結び方も教えてやるからな」


 半ば勢いに呑まれたが、ネラプはグロットのなすがままを受け入れた。

 後ろに回ったグロットによって包帯が解かれ、新たに柔らかな布地が瞼の上に巻かれ、張り付いていく。



「その……グロットさんは────」


 そんな彼女に、ネラプが話しかけようとした────その時だ。



「っ……?」



 ネラプの肌が、鋭敏に『それ』を捉えた


 風が、騒ぎ出した。

 それは俄かに、不自然な程荒々しい。木立は揺れ、散っていく木の葉が旋風を描く。


 そして、彼らのいるところに、サッと夜よりも暗い影が差した。


「あれはっ……!?」


 グロットもこれが異変であることに気付き、声を上げる。


 その視線は、上空に向けられていた。



『グオオオオオッッッッッ!!』



 世界を揺るがさんばかりの、雷鳴のような咆哮が轟いた。


 紅の朧月に照らされた帳を背負う、赤熟の色をなしたその紅鱗。

 空を包むように広がる大きな翼が、ぼんやりと青白い光が纏っている。それは毎度羽ばたくだけで、この一帯に気流を生み出した。


 その巨影は、黒洞々たる夜陰よりも遥かに暗く広がるばかりであった。


 速く、巨大で、強い。

 全ての生き物が、本能として畏怖するその存在。


 そう、あれは。

 あれこそは。



「竜────!」



 のちにこの夜を知る者は、この日のことをこう語る。


 ────『竜の帰還』と。


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