第一章
第15話:時は過ぎ
────これは決して、逃げているのではない。
────これは、そう、人間の言うところの戦略的撤退というものだ。
────だから、情けなくなんかない。
────情けなくなんかない、情けなくなんかないのだ。
────父を見捨てるような形で、無様に逃げ延びなければならないなんて。
────戦いの邪魔にしか、なれないなんて。
────……父は、一体どうなったのだろう?
────父は強い。どんな生物の中でも、魔物の中でも最強を誇る、種族の誇りを担う存在。もう会えない、なんてことはあるまい。
────いくらあの『人間もどき』が、得体の知れない化け物だとしても。
────負けるはずがない。そう信じているから、〝飛ぶ〟。
────そして、父が迎えに来るのをあそこで待つのだ。
────かつて父が過ごしたという古巣だ。あそこに帰れば。
────そうすれば、きっと……。
◼︎◼︎◼︎
誰にとっても月日というものが経つのは早く、あったことは置き去りになっていく。
悲しみを過去に、生きる者は生き続けなければならない。
「こんにちはー。ウッドさん、いますか?」
ネラプも、その一人だ。
バナージの死から、数ヶ月が経とうとしていた。
辛い過去を、涙無しに振り返られるまでに落ち着くようになっていった。
それは無情であるからではなく、居なくなった者と向き合い、何よりその人のためにそうあるべきだと思考の落とし所を見付けたからだなのだ。
そして、ネラプ自身、その身に起きた経験から、その身の振り方について幾つか変化したことがある。
「ああ、いらっしゃいネラプ君。ウチの人は今工房にいるわ、お仕事中」
ネラプは、しばしば森を出て、ウッド家を訪れるようになった。今やすっかり、家族ぐるみの付き合いだ。
今ネラプに応対しているのは、ウッドの妻、ミイナ。
若々しいながら既に二児の母であり、職人気質で無骨なウッドとは対照的に、どこか品のある貞淑な女性である。
「ごめんなさいね、わざわざ家まで来てもらって」
「いえ、ウッドさんがこの時期忙しいのは分かりますから。あ、これ今日の獲物です」
そう言って、網に片手程の皮袋を被せた荷物を見せた。その中にはネラプが眼で仕留めた『成果』が幾つか詰まっている。
ネラプが調達し持ち寄った原材料を、ウッドやミイナが加工するのが、彼らの『お決まり』であった。
加工には燻製にしたり、焼いて調理したりとネラプが出来ないことを様々に助けてくれる。その仕事量や質に応じて取り分を決めて、協力しているのだ。
「毎度ありがとう。それにしても、こんにちはって……ふふ、変なの。もう夜更けよ?」
そしてネラプの性質によって、その取引は毎度こんな夜遅くのことになるのも、お約束だった。
────ネラプは、獲物を仕留める時や洞窟内にいる時以外は目は包帯で封じるようになった。
そして眼のことは生まれつき盲目ということにして、誰にも話していない。
バナージのことがなければ、とっくに話していただろう。
しかしこの眼が危険だと深く実感し、ウッド達のためにも、その能力は秘密にしようと決めたのだ。その意思は固く、眼を使う時以外は頑なに眼を開こうとしない。
しかしそのため、森の木立を縫って外に出るのはなかなかに大変である。いくらマニに手伝ってもらったとしても、不便は不便、時間は掛かる。
「いやあ、昼夜逆転してるせいで、つい……」
「さ、どうぞ上がって。お飲み物を淹れるわね」
そう言ってミイナは、目の見えないネラプを気遣って、その手をそっと引いてくれる。
女性らしい、細っそりとしてスベスベな手の感触。この手で時に肉体労働を強いられる酪農を手掛けていると思うと、逆に逞しいものだ。
「ああいえ、お構いなく……」
「ネラプ兄ちゃん!」
「おっ」
家の中に招かれたと同時、元気な声と同時に、何か小さな物がネラプにドンとぶつかる。
ネラプにはそれが何なのか、誰なのかすぐに分かった。
「夜も遅いのに元気だなあ、レンは」
「もう寝なさいって言ったのに、この子達は……こら、お兄ちゃんもいつも来られるわけじゃないんだからね」
ミイナが、諭すような声音で怒る。しかし彼は、へへんと笑ってどこ吹く風だ。
レンは、ウッド・ミイナ夫妻の長男である。歳は十一歳。元気だけはいつも有り余っており、この家の立派な働き手である。
「なあ兄ちゃん、どうして兄ちゃんはいつもこんな遅くに来るんだ? 俺、兄ちゃんと遊びたい」
「あはは、ごめんな。お兄ちゃん、人より肌が弱いんだ」
「はだがよわい? って何だ?」
「俺の身体が、太陽の光に負けちゃうんだよ」
「ほーん、兄ちゃんは『ざこ』だな! 目も見えないし!」
「こらレン! なんてこと言うの!」
母ミイナが、その子供特有の遠慮知らずな言葉に、叱咤を飛ばす。
ネラプは苦笑し、
「……まあ、次は遊べるようにもっと早く来るようにするよ。だからお母さんを困らせちゃ駄目だぞ」
果たして聞いているのかいないのか、ていとう、でゅくし、という掛け声と共にネラプの身体をあちこち叩き始めた。
彼の言うところでは、子供内で流行っているという騎士ごっこらしい。
もっともネラプより幼い子供のやることなので、そんなに痛くはない。そろそろと、やられたーと降参の声を上げる準備をしていたのだが、
「……やっ!」
「ああっ!」
その時視界の外で何やら起こった。
騎士(仮)レンは哀れ、やられたとばかりに情けない声を上げた。
「な、何すんだよモニー!」
そんな兄の抗議の声を、『彼女』は無視する。
「えっと……モニーか?」
「……ん」
ネラプが尋ねると、レンよりさらに小さな少女がネラプの足の裾を引っ張り、言葉少なに返事をした。
モニーは、レンの妹だ。歳は五歳。
誰に似たのか無口で、あまり喋らない。そして家の中にいるのを好む。性格的には、似てない兄妹だ。しかし今のように、押しが強い一面もある。
そしてモニーが、身長差のあるネラプの足に触れるのは、決まって何か言いたいことがある時なのだ。
ぎゃんぎゃん騒ぐ兄とそれを抑え、怒る母を背景に、いつものようにネラプがモニーに合わせて屈む。
「どーした?」
「……これ、あげる」
「え?」
押し黙ったまま、手に何かを握らされた。
かと思うと、ネラプのそばからとてとてと離れてしまう。
薄い、紙のようだ。
しかし洋紙よりずっと触り心地は悪く(町から離れた田舎にとって、紙は貴重なのだ)、古着などをすり潰した木綿を素材にした物らしい。
「うん? これ……?」
ネラプにはそれが何なのか分からない。
何か書いてあるのだろうが、筆談などは今のネラプには出来ないのだが。
「絵よ。貴方を描いたんですって」
「ああ……」
ミイナに教えられて、ネラプが会心したと小さく笑う。
「ごめんなさい、見せられても困るわよね……」
「いえ……上手です」
「え、でも」
「大丈夫、分かりますよ」
この家族と付き合うには、嘘を押し通すしかない。
そう分かっていながらどこかしこりを抱えずにいられない彼は、やはり嘘が下手くそなのである。
「ありがとうモニー。大事にするよ」
「……うん」
これがネラプの、最近の日常の一幕。
そして。
新たなネラプの物語が、ここから始まる────
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