第14話:影


 奢侈な造りの、視界が華やかなその部屋。赤々と光を保つ蝋燭によって陰の入る隙間もなく、家具はそれぞれに艶を見せ、広々とした空間を演出した。

 そしてその中で特に目を引くのが、壁に木枠ごと埋め込まれ、描かれた一枚の巨大な絵画である。


 絵の中で裸婦に近い格好のまま薄布をたなびかせた、髪の長いその美女の肖像は、この世に知れた地母神ガイン。その宗教画イコンであった。

 十数人の著名な絵描きやその弟子を引き集め、五年の月日を費やして完成させた多くの信仰を募る偶像である。


「────よって、先日破門したバナージ=カウルのマナは三日前の午前未明のうちに消滅。間違いなく死亡しましたことを報告します」


 男の声が朗々と響く。

 そう、彼こそバナージの追放刑として森の中まで同行した司祭その人である。

 バナージは、彼の下級僧にあたった。

 彼の位が司祭であるのにに対し、バナージは一介の修道士。直接的な関わりは薄いが、身内を処刑するに至ってバナージの名誉を名目に、特別な例として彼が選出されたのだ。


 しかしそれは、『ある目的』のための建前であった。


「全てはガイン様のお導きのままに……ですが、その件について少しばかり司教様にお耳に入れたいことが……」

「温いな」

「……はい?」


 司祭の向かい、これまた意匠を凝らしたテーブルクロスが敷かれた長机の奥に、もう一人。

 司祭よりも一回り老けた、初老の男であった。その男はワイングラスを傾かせ、その揺らめきに目を向けつつ、それまで司祭の話を聞いていた。


「このワインだよ。見たまえ、グラスが汗を掻いている。これは嫌いだ」


 その脈絡に無さに一瞬当惑してから、


「は、申し訳ございません。直ちに別の冷やした物と取り替えを……」

「よい」


 答えると、おもむろにワイングラスをよく見えるように掲げた。

 そして────


「っ、おお……!」


 司祭は、感嘆の声を上げた。


 男が手で持っている足の部分からは急激な冷気が迸り、音を立ててグラスごと凍っていく。

 生まれた氷は見る見るうちにグラスと注がれたワインも呑み込み、一つの氷解と化してしまった。


 その手に集まる冷気の凄まじさに、壁際に設置された燭台の灯火が大きく揺らめいた。

 そして機を得たばかりにその赤ワインの氷だけがヒビ割れ、粉々となった。


「ほら、これがシャーベットというものだ。後学のために覚えておくといい」

「は……このルマン、感服致すばかりです」


 血を凍らせたかのように、赤く染まった氷の破片。

 飛沫が凍ったかのように粉々のワインを凍りついたグラスに口をつけ、ザラザラと口に運んだ。


「……うむ、凍結したせいで腑抜けてしまった風味。せっかくのワインの熟成を放り捨てるこの感覚が、何よりも堪らん。温いよりも遥かにマシだ」

「…………」

「して……そのバナージとかいう罪人の話だったかな? ルマン司祭」


 催促に、司祭ルマンは気を取り直したように話を繋げた。


「はい。刑は滞りなく終了しました。……ですが、一つ懸念事項が」

「ほう、それは?」

「『白の森』に生息していた大トロールの痕跡が、途絶えておりました。竜が飛び去った後の主として、時に森から下ることからも近隣住民には恐れられていたようなのですが……」


 大トロールの凶暴性は、多くの者の知るところであった。

 人を見るや悪意を持って襲い掛かるモンスターの中でも、特に警戒すべき対象であった。魔法を持つ者でも、よほどの腕利きでなければ必至だろう。

 一匹の大トロールに、聖騎士を合わせた駆逐隊が組まれることは少なくない。


 そうした脅威に、訓練もしたことのない修道士如きが出会えば命は無い。バナージ=カウルの追放刑は、彼らからすればその森の主トロールによる『手を汚さずの刑』のつもりであった。


 しかし────


「もちろんトロールの他にも、あの森には多数危険な魔物が存在します。群れをなす魔狼なども、あの森が恐れられる原因の一つ。しかし私達は、ついぞその魔狼とも出くわしませんでした。そして何の問題もなく、こうしてご報告に預かる次第」

「トロールはいない。魔狼も出て来ず。……ではバナージ君は、〝果たして何に殺されたのか〟? ということになるな」


 その言葉にルマンは頷き、こう続ける。


「少なくとも。かつての聖騎士による調査と犠牲とは比べるまでもなく────〝安全すぎる〟。何かの脅威によって追い立てられたことで生まれた、穏やかな生態系……というのが、実際に見た私個人の印象です」

「つまり、

「杞憂かとは思いますが……」

「フフフ、その竜がひょっこり戻って来たのかもしれんねえ」

「……お戯れを。田舎者共のたわいの無い言い伝えでございます故」


 ルマンはやんわりと頭を横に振り、伺いを立てた。


「いかがなされますか────ロドルス司教」


 男の名前は、ロドルス=ルターと言う。


 各教国に幅を利かせるカトリールにおいて数多い司祭に対し、司教の座は僅か四つ程。

 ガイン教カトリール宗派の頂点である教皇、その直下の大司教を除いて、トップクラスの権力を担う存在の一角であった。


 そしてこのカトリールという勢力には、もう一つ、異教として対立する宗派が存在する。


「────『聖教会』の連中をけしかければよい。そんな未知の危険に、愛すべき我らが信徒達を晒すわけにはいかんからなあ」


 土着信仰を例外に、多くの人間の信仰の拠り所、ガイン教を二分する『聖教会』と『カトリール』。


 もはや記憶に古いかつての教会分離シスマによって生まれた、両者の禍根の溝は、海よりも深い。


「実に、もったいなきお言葉でございます」

「カトリールは皆の希望。希望は皆の見える絶対的な位置で、燦然と君臨しなければならぬ。その点、彼奴等異教徒は、首を突っ込んでもらうにはうってつけというわけだ。フフフ、クク……」


 司祭は傅き、司教は笑う。


 不穏の影が、静かに動き出した。


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