第12話:仮死と致死


 陽が沈む頃になっても、ネラプが目を覚まさない。

 バナージはここに来て、重苦しい不安を覚えて始めていた。


 今まで、こんなことは無かった。

 普段ならこのくらいの時間になると、たちまち生気を漲らせ、昼夜が真逆なせいでこちらが寝る前だというのに『おはようございます』とほざく程に活気付いてやかましいくらいなのに。


 原因は不明。熱があるわけでもなく、今は寝息も落ち着いている。

 バナージに医学の知識は無かったが、素人目では何の問題も無い、起きているのと同じ健康状態だ。


 にも関わらず、まるであらゆる感情が抜き去られてしまったかのように、こんこんとネラプは眠り続けていた。

 いくら揺り動かそうが頰を叩こうが、不満の意を含めた返事は返ってこなかった。


「オイお前ら! なんかアテはねーのか!? 何でもいい、何か心当たりはよ!」


 その不安を振り払うように、バナージが声を荒げる。空洞内にその怒号がわんわんと響いた。

 声を向けられたブルブサと、ツノの上に留まるマニは、バナージの言葉にキョトンとするばかりだ。


「……って、知るわきゃねえよな。俺も馬鹿だな、ったく」


 ネラプがあまりにも当たり前に、人と話すようにこの動物達に話しかけるものだから忘れてしまっていた。

 彼らはネラプの血で蘇ったとはいえ、喋られるわけもない単なる畜生なのだ。


 毒されているな、と自嘲げに笑った。


 そう、もしこれが素人には手出しできないような病なのだとしたらお手上げだ。

 医師や専門家を呼べる環境に、今の彼らはいない。もし病気にかかれば、その蝕まれる様を見守るしか出来ないのだ。


 こんな、誰もいない寂しいところで、一人。


「う……」


 と、バナージの耳に、呻き声が届いた。

 慌ててそちらの方を見る。

 ネラプの表情は、それまでの穏やか過ぎる程に穏やかなものから一転、険しく強張っていた。


「あ、おい! 起きろよ、おい!」


 しかしバナージには、人形のようなそれまでの寝顔よりも、生気のある今の方が遥かにマシだと思えた。

 ネラプは呻き、低く寝言を洩らす。


「……あ、アア……リュウ……竜ガ……アア、チ、血ヲ、血が……」

「何だ? 夢でも見てんのか……?」

「……ウ、グウ……!」


 起きている時とはまるで別人のようだ。

 その声音は老人のように嗄れ、か細い。



「……〝ヘル、シング〟……」



 そして、バナージにも聞き覚えの無い単語が飛び出た。


「『ヘルシング』……? 何だ、一体何を……」


 世俗を知らないネラプが告げた、謎の単語。

 それは果たして人名か、はたまた地名なのか。


「…………」


 しかし、ネラプはやはり答えない。

 苦しげな表情もまた無表情によって掻き消され、すうと呼吸を整えてしまった。


 そして目覚める事もなく、何事も無かったかのように、再びネラプは深い眠りに就いた。

 バナージはそれを見て露骨に嫌そうな顔をして、浮きかけた腰を下ろした。



◼︎◼︎◼︎



 外は、明けてしばらく経つ淡い陽の光に包まれていた。

 夜も過ぎ、朝日を拝んで戻ってきても、ネラプはやはり眠っていた。


 そろそろ、眠ったまま一日が経とうとしている。

 近隣に頂戴した皮袋を一枚の皮に裂き、冷泉に浸したものをその額に当ててやる。熱があるわけではなかったが、それ以外にやれる事が無かったのだ。


 自分はウサギの肉を焼いた燻製もどきを噛み千切りつつ、枕元の岩に腰掛けた。


 そして、そのまましばらく黙り込んだ。

 じっと静かに、固唾を呑むバナージ。


 ブルブサやマニは、洞窟の入り口付近でネラプと同じで、日中は外に出られないのか、

 こうしていると、世界に自分一人しかいないのではないかと錯覚してしまう。


「俺はな……」


 そうした孤独感に耐え切れなくなったのか、手持ち無沙汰が過ぎたのか。

 どちらにせよ、その言葉はバナージの口からするりと滑り落ちた。


 本当にほぼ無意識であったため、一度口を噤んだ。

 やはりネラプが寝ている事を確認してから、どこか落ち着きなさげに視線を彷徨わせ、こう続けた。


「なあ、俺はな。もう死んでもいいって思ってたんだ」


 ていうか今も思ってるが、と言い置いてから、一人、話を紡ぐ。


「いい奴が死んで、悪い奴らの踏み台になってく、こんな腐った世の中に鬱屈してた。ウンザリしてたんだ。俺自身、何か変えたくてやったことも……結局無意味だったな。まんまとしてやられたよ……ま、今となっちゃどうでもういいが」


 その独白は、聞いて欲しくて話しているのではない。

 今ある自分を確かめるために、話しているのだ。


 死ぬはずだった自分が、数日もの間、何の因果か生き延びた。

 それが良いことだったのか悪いことだったのか、生き永らえたその意味を今、鑑みているのだ。


「一応寝るとこに困らない生き方でも、クソみたいな人生だった。だから、クソみたいな終わりでも、俺はよかったんだ。全て失って、命すら危うい底の底に行き着いた。……と思ったら、お前がいた。お前は人間の生き方なんてモンをてんで知らなくて……我慢してるわけでもなく、ビックリするくらいクソみたいな生活しててよ……」


 独り言は、なお続く。


「そういや、本当はお前は最近騒ぎになってるモンスターって奴で、最初は俺を取って食うための演技なんじゃねえかとも思ったっけな。まあ……ねえな、ウン。すぐないと思ったわ」


 何の話をしてたんだったか、と呟いて、ふと我に返ったように頭を掻き、


「でもよ……ああクソ、聞こえてんじゃねえぞ」


 耳をそば立て、小さな寝息を確認してから言った。


「それでも、お前は『生きてる』んだって……見てて思うんだ」

「…………」

「ああ、生きてるんだ。お前は。人だろうがモンスターだろうが、お前は生きてる。 俺みたいにくたばろうとしてるんじゃない。必死こいて、死なないために足掻いてるんだな。……だから」


 それは、ネラプが起きていたら……あるいはブルブサやマニが近くに居てもまず口にしなかったであろう言葉だった。


 眠るネラプを見下ろす今のバナージの表情は、追放刑を受けた犯罪人のそれではなく────


「……お前はどうやら『良い奴』らしい。俺が保証する。だから、な────そんなお前といると、生きるのがちょっと楽しくなっちまったんだぜ。クソッタレ」


 ────情ある一人の人間、バナージ=カウルのものであった。


「なあ、ネラプ……」


 彼は、自分で気付いていない。


 今まで『おい』や『お前』で済ませていて、ネラプを名前で呼んだのはこの時が最初であった、ということを。


「生きてるってのも……本当は案外、悪くねえのかもしれねえな」


 そしてこの瞬間の彼は、知る由も無い。



 ────ネラプを名前で呼んだのは、これが最後でもあったということを。



◼︎◼︎◼︎



「……でも、……てる……おも……」


 ……頭が、重い。

 目の前が暗い。


「……、良い奴だ。……ちまったんだ。クソッタレ」


 音が脳に響く。

 いや、これは……声、だろうか。


 ずっと、誰かが話している。

 自分に向けて、声を掛けているのだ。


「……ネラプ。……るってのも、……案外悪く……しれねえな」


 なのに、口が動かない。

 どうしてか、返事がしたくても出来ない。

 何か、大事なことを話しているような気がするのに。


「……っ……ぅ」


 意識が、形を成して浮き上がっていく感覚。

 真っ暗な世界が、薄い膜を通り抜け、しかしやはり薄闇の光景に向かおうとした。


 それが自分が居るべき居場所であることを、知っていた。

 戻らないと。



 ネラプがそう意識した途端、湖面から顔を上げた時のように、視界が広がった。



「────っ、あ……」



 ネラプは、深い眠りから覚醒した。


 そしてその際、見開いたその緋の目が、捉えたものは。


「……え?」


 それはまるで、ネラプと入れ替わるように。


 ────バナージが、ゆらりと身体を傾けさせ、音も無く倒れた。


「……バナージ、さん……?」


 バナージは、起き上がらない。

 ネラプとは違い、息がいつまでも聞こえてこない。


 


 その光景には、見覚えがあった。

 一瞬の硬直の後、ハッと息を呑み、慌てて眼を覆う。

 そんなことをしても無意味であることは、ネラプ自身がよく分かっているはずなのに。


「────っ! そんな……う、嘘だ。嘘だろ、こんな……! 何で……!!」


 全ては、もう遅い。


 ネラプの眼は、一度見たものを後悔する暇すらも与えず、あらゆる生き物に死を与えるのだから。


「────バナージさんっ!!」


 そう運命付けられていたかのように、あまりにも唐突に。



 バナージ=カウルは、死んだ。

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