第7話:衝撃
ずっと、引っ掛かっていた。
最初に襲われた、あの魔狼。向こうから襲いかかってきたと思ったら、勝手に死んだあの時。
ただの偶然かと、思い込んでいた。
思い込もうとしていた。
しかしネラプは、頭の片隅でずっと考えていた。
あの違和感を。ずっと、どこかで納得していなかったのかもしれない。
「でももし、これが偶然じゃなかったら……? まさか……でも」
あのトロールは、やはり死んでいた。
何か致命傷を負ったわけでもない。もちろん、ネラプの攻撃が効いていたわけでもない。
それまで生きていた事実は間違いない。
しかしまるで、魂が抜かれたように、トロールは死んだ。
何故か?
「…………」
あれから一つ、ネラプには思いついたことがあった。
自分を理解するための、とある実験方法を。
それはまさに、『怖いもの見たさ』という言葉が相応しい発想だ。
何故ならもし、彼の考えが正しければ……実験が成功したならば。
ネラプは────
「……よし」
意を決して、ネラプは眼を閉じる。
彼の目の前には、これまた石斧同様に夜通し草の根を編み、籠にしたものがあり、中身が見えないように服で覆っている。
バタバタと、中には動くものがある。
簡易的な罠を仕掛け、生きた動物をここに用意した。トロールの時と同じだ。
眼で捉えていない生き物の気配は、『まだ』死んでいない。
「モンスターは二匹とも、俺が見た途端に死んだ……だから」
籠を掲げ、閉じ込めていた生き物を解放した。
そして眼を見開く。
夜の帳に火が灯ったように、その眼は紅く瞬いた。
ぐるりと見渡し、逃げ去ろうとする野ウサギを視界の端に捉え────
「あっ……」
その瞬間、走り去ろうとした野ウサギは、動きを止め、こてんとその身を横たえさせた。
そっと安らかに、眠るように。
死んだ。
「……なんてこった」
疑惑は、確信に変わった。
喜ばしいとはとても思えない、否定したくとも確かめてしまった一つの確定事項。
『ネラプがその眼で見た生き物は、漏れなく死ぬ』ということを。
「……ゴメンな。でも、俺も……」
ピクリともしないウサギの死体を見やり、呟きを落とす。
立ち尽くすネラプのその呟き声は、虚しく夜の帳に残った。
◼︎◼︎◼︎
それから数日、ネラプは夜間にも出歩くことをやめた。
朝も昼も夜も、一日中ずっと洞窟に引き篭もり、何をするわけでもなく時々集めておいた木の実などを食べて過ごしていた。
ジメジメとした、この空気に浸り、岩壁にもたれ掛かって。
ネラプは、眠ることをあまり必要としなかった。
一日中こうして腰掛けたまま、動かずにいれば、今のようにずっと不眠不食でも死なずにいられた。
「…………」
ずっとこうしていても仕方ないのは分かっている。
モンスターは、人間には無い力を有することが多い。
先のトロールのように、規格外の膂力を見せる種族などはその例の一つだ。
しかし、見た生き物を瞬時に殺す眼など……そんな『規格外』の中にしても異常だ。
ネラプは、世界を知らない。世にはトロールよりもずっと恐ろしく強大なモンスターもいるかもしれない。
だが────この眼は、力の強弱さえも関係無い。
見ただけで全て終わるのだから。
例えどんな化け物にも負けることはない。何せ一番の化け物は、自分なのだから。
ネラプは、自分が恐ろしくなった。
いや……怖いだけじゃない。
分からない。
俄かに信じられない。信じたくない。
それと……寂しい。
自分はもしかしたら────人間ではなく、モンスターなのかもしれない。
だって、並みのモンスターでさえもあり得ない眼(ちから)を持つのだから。モンスターが人の言葉を話せるとは知らないが。
「…………」
そして────誰かと会うのが、怖くなった。
人に会うことは一つの望みだったのに。
今は昼間に動けないこともあってここを動けなくても、いつかは、と思っていた。
だが当の自分がこれでは……
「喉……渇いたな……」
頭を横に振り、ヨロヨロと立ち上がった。
水を溜める容れ物もないので、飲み水は泉にしかない。
しかしそれは、普通に水を欲する時とは違う、猛烈な喉の渇きだった。
耐え難い、腹の中から疼くような、本能的な飢え。腹もそこそこ空いていたが、それよりも何よりも、この喉の渇きをどうにかしたくなった。
ネラプはこの時、自分の眼を忌避し始めていた。眼で何か生き物を殺そうとしたくなかった。
しかしこの喉の渇きには勝てない。それが本能的な抗えない何かであることを、ネラプは理解する。
「…………」
夢遊病にでもなったかのように、ネラプは外に向けてふらりと歩き出した。
ほぼ無意識だった。身体を奪われ、真上から自分を見ているかのような心地になった。
『ブギィィィ!!』
その時、外から鳴き声がした。
断末魔のような、真に死が迫る鳴き声だ。
それは牛の死骸だった。どこから来たのか、子牛程度の大きさだ。
死んだばかりという事が分かる深い傷をつけ、血を溢れさせ横たわっている。
そして群がる二匹程度の獣。牛に危害を最初に見た魔狼に似ている。あれの家族かもしれない。
緩い傾斜を登りつめ、ネラプはその光景を『見た』。
瞬間、牙を晒し屍体に口を寄せていた魔狼が二匹とも、獰猛に光っていたその眼を濁らせ、かと思うとパタリと横たわった。
死んだのだ。また、ネラプの眼によって。
「ああ……勿体無い……」
しかし、今のネラプにはそんな事はどうでもよかった。
牛の腹から流れる、その赤い血潮にしか眼中に無かった。
目の前の惨たらしい屍体から立ち昇る、赤い赤い、血のむせるようなその臭い。
鼻奥に寄せる、濃い鉄臭さ。
────血だ! 血だ!
────堪らない、血の臭いだ!
それをネラプは、顔を背けるでもなく、嬉々として求めていた。
フラフラと、足取りはその牛に歩んでいる。
彼はここ数日ずっと欲しかったものを、見つけたのだ。
────そうだ、〝吸え〟! 欲のままに飲み尽くせ!!
手と膝をつき、這い蹲って腸の溢れるその傷口に、口付けた。
前にも似た事があったが、今回は躊躇いも無かった。
「んぐっ……んぐっ、んぐっ……」
傍から見てそれは、悍ましい光景であった事だろう。
「プハァ……ああクソ、もっとだ、もっと欲しい……」
その紅い眼には、正気の欠けた、恍惚の色が纏っていた。
更にその肉厚を掻っ捌きたくて、しかし今持っているものと言ったら何もなく、手ぶらだ。
ネラプは鋭利なものを探した。無我夢中だった。
そして傍に、自分が眼で殺した二匹の獣が、歯を剥き出しにしているのを捉えた。
「いいもん見っけ♪」
両手でその牙を持ち、死骸を足蹴にして力を込めた。
火事場の馬鹿力とでもいうのか、ごきゅりという嫌な音を辺りに響かせ、その歯は捥げた。歯肉が剥がれる嫌な感触がした。
その折、思い切り手で握ったため、そのナイフのように大きく鋭い犬歯が、手を切った。
ネラプとその魔狼の血が混じり、手は汚れた。
「……えっ……あ」
その鋭い痛みで、ネラプは我に返った。
自分を取り戻した彼は、先程までの自分の行為に愕然とし、いよいよ身を震わせた。
「あ、あ……俺、今何を」
拍子に手に持っていた牙を滑らせた。
自身の血に塗れたその牙は、牛の骸に触れて転がる。
その時だった。
「────えっ……!?」
信じられない光景が、目の前に広がった。
「いや、だって……お、お前、死んでただろ……!〝死んでたはず、なのに〟」
グッタリと横たわり、深い傷に生命の活動を終えていた、その屍体が。
流れる血を、その地に流しきったはずの牡牛は、耳と尾を微かに揺らしたかと思うと、蹄を掻き、立ち上がろうとしている。
生命活動を終えたはずの筋肉が、産まれたばかりのように打ち震え、一つの意思の元に再び動き出そうとしているのだ。
「〝う、動いてる……死んだ牛が、生き返った〟……!?」
その歪な蘇りを証明するかのように、牛の骸だったものは低く鳴いた。
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