第2話:名前


 目が覚めてから、どれほど経った事だろう。

 暗さには、もうすっかり目が慣れていた。


 よく見ると岩肌には苔が生していて、湿気を帯びてこの洞窟内の空気を沈ませていた。


 歩いている間何度も転びそうになった。実際、何度も転んだ。

 裸足で、しかもどうやら自分は服と言えばこの真白い一枚布だけらしく、転べば痛そうだ。

 しかし着の身着のままというわけではないようだ。左手首に、何かが嵌められている。

 薄い、簡素な腕輪のようなもの。力を込めれば、力さえ入れば簡単に千切れそうだ。


 しかし、そんな事より今は────


「お腹が減った……喉、渇いた……」


 そう、それが一番の問題であった。

 口を開く体力さえ惜しいのに、泣き言を漏らさないとやってられなかった。


 耐えきれず、壁に生えた苔も口に含んでみた。もちろんすぐに吐き捨てた。


 坑道のような一本道を、時折休みながらあてなく歩いていた。飢えからか体力は乏しく、まともに歩く時間は少ない。

 時間の感覚が分からない。歩き、眠り、また歩く。

 傾斜になっているのも辛い。歩く速度が鉛のように重い。


 時間だけが過ぎていく。

 夢も希望も無い、そんな気にさせる場所。


 飲まず食わず、閉塞感に押し潰されそうだった。

 このまま自分は、飢えて死ぬのか。そう思いながら、歩き疲れ、壁に寄り掛かりまた眠りに就いた。


 しかし────ふと、目が覚めた。

 眩しさを感じたのだ。

 今までに無い、明るさ。


「え、あ……ヒカリ、光だ……!」


 思わず身体が起き上がった。

 なんと既に、出口に辿り着いていたのだ。

 どうやら外が夜だったらしく、出口がまだ先だと空目してしまったのだ。そして今、朝が来て陽が差し込んだために外の景色も見えるようになった。


 思わず歓喜した。

 ようやく、ここから出られる。そう思うと、身体が軽くなったような気がした。


 よろよろと、この坂を駆けていく。

 

 ずっと待ち望んだ外に、懸命に手を伸ばし────


「……っ!?」


 何故か手が外に出ようとした途端、嫌なものが全身を巡り、手を引っ込めてしまった。


「? あれ? え?」


 あれだけ焦がれた外なのに、まるで手が出ない。

 本能的な何かが、洞窟の外に出ようとする自分を阻害する。手だけでこうなるのだ、全身はもちろんのことだった。


 何度試しても、駄目だった。

 それどころか、ここにいるのもやや辛い。洞窟の道を歩いていた時の方がマシかもしれない。


 しかしせっかくの外を諦めきれず、嫌な気分は耐えながらその出口の傍で腰掛けることにした。


 外は、森のようだった。緑の木の葉があり、淡い陽光を浴び、風がそよぐままに揺れる。

 茂る森はかなり深いようで、近くに自分以外の存在を感じられない。


 光景に口惜しさを感じつつ眺めていた時、ふと、思い出した。


「あ、これ何か書いてある……」


 そう、手首の腕輪。

 何気なく見てみたその細長く白の無地に、文字が書かれていた。


「なんかこれ、見覚えのあるような」


 それが、何故か読める。少し汚れ、掠れてしまっているが、何とか読める部分を声に出した。


「nelap……ネ、ラプ?」


 一応、自分は文字が読める。

 自分が何者か、ここが何処か分からないながら、そのことを確認した。



「ネラプ……これが、俺の名前?」



 自分の名前だとして、何故それがこんな腕輪に書かれているのか。

 彼────ネラプは、そんな疑問に小首を傾げながら、己の名を繰り返した。

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