イレギュラーバウンド

和田一郎

イレギュラーバウンド

 

 きっちりと数えてみたら、42年振りであった。

 その手紙を出版社の営業から手渡された時、山岸太一はその宛名に思い当たらず胸騒ぎがした。

 が、同封された手書きの手紙を読むうち、懐かしい思いが胸いっぱいに広がった。

 差出人は、小学校の同級生で、中学時代も同じ卓球部に所属したキンちゃんこと、近田欽一であった。小学生の頃、太一はキンちゃんとよく遊んだ。

 太一の幼少期は悲惨であった。極めて身体が小さく、走ればビリで、口も立たず、勇気もなかった。すがりついたのは勉強で、それだけはクラスで一番とはいかなくても、それなりにでき、小さな自分の誇りの拠り所としていた。

 だが、幼少期は皆が残酷である時期でもある。多少勉強ができても、悲惨な幼少期であったことは変わらない。

 下痢の便を漏らし、そのまま誰にも言えず、幸い誰にも気づかれずに6時間を終えて、家に帰った時、父と母が絶望的な視線を太一に向けたことを、いまでもはっきりと覚えている。

 石炭ストーブを使っていた幼稚園では、焼けた火箸を手の甲に押しつけられたこともある。

 そんなことがたくさんあったのだろう。「だろう」というのは、すでに太一は覚えていないからである。

 そんな悲惨な小中学校を忘れ去りたい一心で、太一は記憶を心の奥底の箱に詰め込んで蓋をし、ほとんどその蓋を開けてみることをしなかった。そうして42年も経ってみると、悲惨な思い出はほとんど忘れてしまい、思い出してみようとしてその箱の蓋を開けて手を突っ込んでみても、そこは空っぽで何も手に触れないようになっていたのである。

 もちろん、覚えていることもある。

 たとえば、家には卓球台があった。

 子供の頃、家は「何でも屋」をやっていて、母がパンや文房具を売っていた。父はうだつのあがらない会社勤めをしていたが、母には目端の効くところがあり、その家を買って小さな商いを始めたのである。店は母の思惑通りに儲かった。が、二軒隣に、「タマヤ」という名の同じような店ができ、しかもその競合店は売場面積が我が家の倍はあった。争うことが嫌いな母は、売上が激減するのをみて、さっさと店を閉じてしまった。母はその後、和裁の腕を活かして呉服屋から縫製の仕事をとってくるようになり、店をやっていた頃よりはるかに稼ぐようになった。

 卓球台は、店だったその部屋、コンクリートの床だけになった部屋に、父がつくったものだ。

 締まり屋の父は、もちろん、卓球台を買ってきたわけではなく、自分で作った。しかも、よほど節約したかったのか、大きな板を買ってくるでもなく、数センチの細い板をたくさん打ちつけて卓球台の大きさにしたのである。

 卓球台は部屋のほとんどを占拠した。周囲は1メーターあるかないかで、後方に下がって玉を拾うことはできなかった。

 この卓球台で勝つには、前陣速攻型を選ぶしかなかった。

 そして、もうひとつ肝心なことは、運を味方につけることであった。

 なんせ、平であるべき卓球台に板の継ぎ目が無数にあり、そこに当たった玉はイレギュラーバウンドするのである。

 太一は父とこの卓球台で遊んだ。キンちゃんも頻繁にもやって来たし、林隆二ことリュウという、かなり乱暴な友達もたまにやってきた。

 キンちゃんは中肉中背だが、リュウは大柄で少し太っていて、その特別な環境では勝負が難しかったのだろう。運動神経はダメな太一だったが、父と長時間その台で過ごしたためにわりと強く、キンちゃんとは五分、リュウにはたいてい勝っていた。

 太一らは同じ公立中学校へ行き、三人とも卓球部に入った。

 家にあった卓球台のおかげで、最初こそ太一は同級生たちに負けなかったが、やがてまたひとりまたひとりと勝てなくなり、キンちゃんやリュウちゃんには、まったく勝てなくなった。

 太一は一年経たないうちに、卓球部を辞めた。

 キンちゃんの手紙を読んで、どれほど思い出そうとしても、太一が思い出せるのはその程度のことであった。


―――この手紙を今読んでくれている、作家「矢澤潤平」は、タイチだね。雑誌に載っていたインタビュー記事の卓球台の話で、タイチってわかりました。ずっと、正月に小さな同窓会をしているんですが、久しぶりに来ませんか?

 キンちゃんはそう書いていた。

 あの雑誌の記事から、身元がバレてしまうとは・・・。

 劣等感をバネに青雲の志を育てた太一少年だったが、世間は厳しく、次々と夢の破れた50才を過ぎた今の太一は、「矢澤潤平」というペンネームで官能小説を書くことを成業にしている。

 出版社が、読者が求めるものを徹底的に追い求めて辿りついたのが、「官能小説のベストセラー作家」の地位であった。中高生向けのライトノベルなど、ほかにも書いてはいるが、そちらは出版社にもあまり期待されていない。世間的には、太一はあくまで官能小説の、もっと直截な言い方をするなら、ポルノ小説の作家である。

 カネはある、名誉はない。

 ずっとラノベの作家であるとしか子供にも言っていなかったが、成人した娘ふたりに、太一の妻は真実を話したようである。

 どれほど懸命に生きても、この世界が自分にはそんなポジションしか与えられなかったのだから、それはそれで仕方がない。子どもたちを何不自由なく育て上げ、老年期に差し掛かる前に、充分な蓄えもできた。それだけを誇りに残りの人生を生きるほかない。名を求めてあがくことに飽きた太一は、静かにそう考えている。

 現在の太一は、いわばエキュプリアン、快楽主義者であった。

 ただし、快楽はいわば本業のエロには向かわず、主に、食の分野に向かった。

 貧しい家の出ではあったが、いつの間にか舌も肥え、美味しいものを食べることにはいまだ薄れない情熱があった。


 いつごろからか、同窓会と言われるものにはほとんど参加していない。

 悲惨な小中学校時代、それほどではなかったにせよ、同じく誇りを持てなかった高校時代。その時代の友達にわざわざ会いに行く必要がどこにあるものか。

 もし、芥川賞作家にでもなっていれば、太一はきっと、喜んで出かけたことだろう。

 あのタイチがそんなに立派になったかと、仰ぎ見てもられれば、太一の自尊心は大いに満たされ、子供のころに足りなかった分まで取り戻すことができる。さらに、当時、太一を見下していた友達たちが落ちぶれていたら、それはバニラエッセンスのごとくに、再会の甘さを、残酷にも、さらに引き立ててくれるのかもしれない。

 だが、覆面ポルノ作家の太一が、いまさら同窓会に行って、なにを期待したら良いのだろう。

――― しかし、なぜ、音信不通になっていた俺を、今頃、同窓会に呼ぶんだ?


 カネか。

 長年野良猫のように生きてきた太一には、用心深さが習性として染みついている。

 つれなかった友だちが、成功して有名になった途端、たくさん寄ってくるという話はよく聞く。

 雑誌の記事の中で、太一は経済的にもかなりの成功をおさめたことを話していた。

 キンちゃんがどの高校へ行ったのか、どの大学へ行って、どんな会社に勤め、今どんな仕事をしているのか、まったく知らない。手紙にもキンちゃんの近況は書かれていなかった。

 キンちゃんが社会的に成功したのかどうかわからないが、子供の頃の心根をもったまま成人となり、今、老境に差し掛かったのだとしたら、キンちゃんの誘いに下心はなさそうである。

 だが、世界は過酷だ。誰にどんな仕打ちを与え、誰をどんな風に変えてしまうか、想像を遥かに凌駕する。

 結局、好奇心が勝って、太一は同窓会に参加してみることにした。

 ただし、自分がポルノ作家であることはほかのメンバーには伏せてくれるように頼んだ。

 参加メンバーは5人で、リュウちゃんが来るという。ほかには、ふたり。そのふたりについては、キンちゃんの説明を聞いても、どうしても思い出せなかった。


 正月の夜。指定された割烹「はやし」は、都心の繁華街と郊外の新興住宅街のちょうど中間という微妙な立地にあった。

 太一はキンちゃんとリュウに、42年振りに再会した。

 作家とだけ書いた名刺を、太一はメンバーと交換した。キンちゃんの名刺には聞いたことがない会社名と管理課長という肩書があった。リュウの名刺から、割烹「はやし」はリュウの店だとわかった。ほかのふたりは、役所勤めと刑事であった。

 完全に失われていたと思っていた太一の記憶は蘇り、すべてのメンバーを思い出した。

 ひとりは絵がうまく、小学生の頃、よく人気漫画のキャラクターを描いてもらっていた。もうひとり、刑事になっている男は、中学校の卓球部で同じになっていて、後方にかまえてドタドタとカットをする特徴的な姿を思い出した。

 が、悲しいことに、太一を覚えていたのは、キンちゃんただひとりであった。

 リュウも、残るふたりも、「一年ぐらいは、卓球部にいたんだ」と言っても、名刺に目を落として首をかしげるばかりであった。

――― 子供は残忍だからな。気にするなよ。

 キンちゃんはそっと耳元で囁いて太一を慰めた。

 リュウは店の暖簾をおろしており、その同窓会のためだけに鍋を炊き、おせち料理や、目をむくようなたっぷりとしたサイズのフグの白子など、特別豪勢な料理を用意したようであった。

「この店は、この界隈じゃ、最高の食材を出すって、有名な店なんだよ。値段も高いけどね。そうだな、少人数の接待とか、女を連れてくるには最適の場所だよ」

 キンちゃんは割烹「はやし」をそう紹介したのだが、用意された食材を見て、太一にもそれがすぐにわかった。


 料理に舌鼓を打ちながら、昔話に花が咲いた。

 すべてを失ったと思っていた太一の記憶も徐々に蘇り、芋づる式にさまざまな人や事件が浮かび上がってくる。

 太一は向かいにいるキンちゃんに、どんな人生だったのかを訊ねた。

 公立高校へ進学、有名私学に入り、一部上場企業に入った。だが、極めて頑固なところのあったキンちゃんである。有能で鳴らしたに違いないが、いつしか出世コースを外れ、今は関連会社の管理ポストで退職の日をただ待っているとのことである。

 リュウのその後については、わざわざ聞かずとも、黙って座っているだけで、太一の耳に入ってきた。

 勉強の苦手だったリュウは卓球で私学に進学した。ワルたちも多く、酒場で他校の生徒たちと喧嘩になり、留置所に入ったこともあるもあるという。その頃のリュウの友達の何人かは、覚せい剤で死んだり、刑務所に出たり入ったりしていた。

 だが、リュウはワルたちに染まらず、高校卒業後、ある料理店に勤め始めた。

 そこから一直線だったのか、大きな曲折があったのか、そこまではリュウは語らないが、とにかく、20年近くその店の大将のために働いた。そして、12年前、独立してこの店を出した。当然ながら、借金をした。2千万の借金を背負ったとリュウは言ったが、誰からか担保なしに2千万円を借りることができたリュウは、勤めていた20年の間に、信頼という名の薄紙を一枚一枚紙を積み上げてきたに違いない。

 立派な割烹料理店の親父になったリュウ。

 自信に満ちて、人の期待を裏切らないことがいかに大事かを語るリュウを、太一は眩しい思いで見た。

 

 リュウの声は大きい。

 そして、徐々に会話のほとんどをリュウが占めるようになっていた。

 いつしか話が変な方向へ向きを変えて、ずるずると進み始めていた。

「借金は半分に減った。でも、あと半分が、ちっとも減らない。ずっと商売をしてたら、苦しい時もあるとわかっちゃいるんだが・・・」

「少しメニューを変えるとか、安いものを置くとか、ちょっと工夫してみたらどうなんだ?」

 そう言ったのはキンちゃんであった。

「馬鹿なこと言うな。お客様に媚を売るような商売はしない。自分が正しい、美味しいと思うものだけを、追求する。そうしてきたから、12年、店を潰さずにこれたんだ」

 太一はつい顔を上げて口を挟んだ。

「俺は、客の望むものは何か、いつも一生懸命に考えてる。自分じゃなくて、読者と編集者が喜ぶものを書こうとしてるな」  

 大柄なリュウは太一を見下ろして、何かを言おうとして口をつぐんだ。

「リュウの料理は凄く旨いよ。それは間違いない。それとは話は別なんだが、偉大な映画監督とか漫画家とか、いわゆるアーティストたちが、制約なく自分がほんとうに好きなものを作ったら、一般には全然受けないってこともよくある。知ってるだろう? クリエイティブな仕事は、いつも自分より先に鑑賞者がいることを忘れちゃいけないと思うな」

「そんなこと言ってるから、お前はだめなんじゃないか」

 その言葉に驚いて、太一はリュウを見た。

――― 「だめ」とはどういう意味だ?

「だめって、おまえ、俺の書いたもの読んだことないだろう」

「ああ」

 リュウは口をつぐみ、ビールのグラスを大きく一口あおった。

「それより、おまえは、俺が客の方を見てないと言いたいのか?」

「そんなことは言ってない。俺は今この料理を食べているだけで、普段、どんな料理を出して、どんなサービスをしてるか、知らないじゃないか。そんなことが言えるはずがない。客が求めるものか、自分が表現したいものか、どちらを優先させるかという、ものを作る人間にとって普遍的な話をしたまでだ」

 キンちゃんが口をはさんだ。

「太一は、お前にどうしろなんて言ってないぜ」

「言ってるじゃないか。言ってなけりゃ、なんで、俺に向かって、いま、この俺に向かって、そんな話をするんだ?」

「客のほうを見て、ちょっと工夫したらって言ったのは、俺だ。太一じゃない」

 キンちゃんはそう言って、懸命にとりなそうとするのだが、太一はすでにリュウの地雷を踏んでしまったことに気づいていた。

 そうだ、子供の頃から、リュウは激しやすいところがあった。

 どうやら、リュウのもっとも誇りとしているものに、刃を向けてしまったらしい。

 太一は言った。

「お前が普段出してる料理は知らないが、いま、いただいてるものは、旨いよ。めっちゃ旨い」

「当たり前だ・・・それより、お前、自分が最高にスゲエと思うもの、書いてるのか。そこから、逃げてるんじゃないのか?」

 太一はキンちゃんの当惑した表情を見た。

――― 言わないでくれと頼んだのに、言ってしまったのか。

 ビールで朱に染まった太一の顔がさらに赤くなった。

「なんで、俺の書いたものを読んだこともないやつに、そんなことを言われなきゃならないんだ」

「読んだよ」リュウはそう言うとニヤリと笑った。

「帰るわ」

 太一はバッグの財布から一万円札を一枚取り出すと、キンちゃんの前に置き、立ち上がった。

 テーブルの後を周り、座敷から足をおろして靴に入れている時、キンちゃんが太一のそばに寄ってきた。

「本のことは、すまない。悪気はないんだ。頼む、帰らないでくれ」

 太一は黙って両足を靴に入れ、カバンをいったん座敷において、コートを羽織った。

 そして、キンちゃんに向かって静かに言った。

「いいんだ。何十年も経って、お互い大人になれたら、なにか特別なものがあるかもしれないと思った俺が馬鹿だった。何年経っても、どこにいても、お前たちの間じゃ、俺は昔とおんなじところにいる。はっきりわかったよ。卓球を諦めてクラブを辞めた時とか、泳げなくてプールを仮病でサボっている時とか、お前たちが俺をどんな風に見てたか、まざまざと思い出したよ。もう、いいよ。やっぱり、昔のことは忘れちまうことにする」 

「勝手にしろ」リュウが太一に背中を向けたまま言い放った。

「お前、なんとか思い出したような振りをしてるけど、ほんとは、俺のこと、思い出しもしないんだろ?」

「ああ、お前なんざ、覚えてないよ」

「リュウ!」キンちゃんが大きな声を出した。

「なんだよ。いつも、全部、台無しにしやがって」

「いいんだよ」リュウは振り向きもせずに言った。


 太一はもはやこれまでと思い、カウンターの座席の後を通って出口に向かった。

 太一が扉に到達するより早く、扉が開かれて、誰かが入ってきた。

 小さな女の子であった。小学校にあがるかどうかという小さな女の子で、チェックのジャンパースカートに、ざっくりしたアイボリーのセーターを着て、ポニーテールに髪をまとめていた。その目に愛想笑いはない。彼女は道を塞いで、太一を見上げて訊ねた。

「パパは?」

「?」

 太一の最初の孫娘に近い年齢である。

「アイちゃん、あけまして、おめでとう。パパなら奥の座敷にいるよ」

 そう言ったのは、太一を追いかけてきていたキンちゃんであった。ふたりはアイちゃんを通して、座敷に駆けていくアイちゃんを見送った。

 彼女は靴を脱ぎ捨てて、座敷にあがり、リュウに抱きついた。

 こわばったまま凍りついていたリュウの表情が一瞬にして溶けた。その表情は太一にもはっきりと見えた。

「リュウの子供さ」キンちゃんが言った。

「二人目の奥さんの。若い奥さんもらったからな。まだ、30そこそこなんだ。あの子が成人する頃には、リュウは70才を超える。まだまだ、頑張らなくっちゃ」

 そうか、太一はそう言って、扉を押し開いて外に出た。

 息は白く凍り、街灯に照らされた小雪がまばらに落ちてくるのが見えた。

 キンちゃんも太一を追って外に出た。

「まあ、待ってくれよ」キンちゃんは太一の腕をつかんだ。太一はひっぱられて、割烹はやしの入居しているビルの玄関に連れて行かれた。

 雪は濡れたアスファルトに達してゆっくりと溶けるが、朝までにはいくらか積りそうだ。

 しばしの沈黙のあと、タバコに火を点けたキンちゃんが話し始めた。

 リュウには一人目の奥さんとの間にも三人の子供がいて、その子供たちはすでに成人している。長男は美容院を開業して独立し、次男は料理屋で修行している。リュウは面倒見がよく、別れた奥さんの面倒もちゃんと見ているし、子供たちもよく遊びに来る。リュウに似たのか、子どもたちもグレた時があって、そんな時はワルの友達までいっしょに「どやしてつけて、殴り倒した」という。そんなリュウを慕って、毎年、正月の昼間には、子供たちと、リュウの店で働いたことのある連中、地域のかつてのワルガキたちが、大挙やってきて大宴会になると言う。その同窓会はそんな会の後に行われたのであった。

 キンちゃんは、リュウや連絡のつく何人かの小中学校の友達と、ずっと付かず離れずで連絡をとっていた。

 リュウが店で奉公をしている時も、リュウが自分の店を出した時も、店に通い、ずっとリュウのことを気にかけていた。ずっと見ていたから、リュウがなんとか「あちら側」に落ちずに踏みとどまり、どれほどの苦労をして、今の「店を張っている」か、痛いほどわかっている。


 そんな話を聞かされて、太一はますます、リュウが眩しく思えてくる。

 文筆に生きる太一とまったく違う世界、いや、より現実的でリアルな世界でたくましく生きているリュウ。

 あの頃と一緒だ。

 団体戦のメンバーに早々に選ばれたリュウとキンちゃんが運動場を走っている頃、太一は毎日虚しい思いで学校を後にしていたのだ。

 あの時も、今も、見上げるばかりの、一方通行の友たち。

 自分の何がリュウの気に触ったのか、太一は思いを巡らせてみる。自分のどの言葉があれほどリュウの気持ちを苛立たせたのか、やっぱり、わからない。いわゆる有名国立大学を出た「インテリ」の自分は、それだけで高い所からリュウを見下しているように思えているのだろうか。「クリエイティブ」などと言う言葉は、使うべきではなかったのかもしれない。嫌われる理由は、それ以外に考えられない。しかし、自分は学歴を鼻にかけただろうか。宴席で大学の名前は一切出なかったし、もし、そう思われているとしたら、キンちゃんが事前にそういう情報を入れたとしか考えられなかった。

 ついにキンちゃんが言った。

「リュウのやつ、強がりを言っているが、かなり苦しくなってるんだ」

「だから、なんだよ」

「少し、カネ、出してやってくれないか」

――― あれが金を借りようという相手にとる態度か。

 太一は呆れた。

「客席を増やしたいらしいんだ。そうでもしない限り、利益が出ないようになっている。あいつ、ああ見えても、律儀なやつだ。きっと、見通し通りに売上をあげて、耳を揃えて返してくれる」

「キンちゃんが貸してやれよ」

「貸してやりたくても、カネがない。子会社に出されて以来、株で逆転してやろうとして、それまでの貯金をほとんどすっちまった。もう、お前しか、頼る相手がいないんだ」

「もともと、そのために、雑誌でみつけた俺を呼んだんだな。カネ目当てに」

 キンちゃんは大きな瞳を悲しげな色に染めて太一に向けた。

「正直、それもある。けど、それだけじゃない。子供の頃から、お前は、俺の友達じゃないか」

――― 友達か。

 太一には、何十年も音信不通になり、別世界で生きてきたキンちゃんが、いまでも「友達」なのか、よくわからなかった。たしかに、子供の頃、かけがえのない友達であったことは間違いないのだが。

「キンちゃん、無駄だよ。なにを考えているのか知らないが、俺みたいな、うまい馴染み客になりそうな相手を、感情を抑えられなくて、台無しにする。頑固過ぎて、客の気持ちを推し量ることができないんだ。いくらカネを出しても、溶けてしまうだけだ」

「いや、そこは、俺もわかってる。かならず、ヤツに言い聞かす」

「無駄なんじゃないか・・・今だって、ヤツは店の中に篭ったままで、俺達のところへ来ない」

 太一とキンちゃんは電気の消された割烹「はやし」の看板と、ぴくりともしない扉を見つめた。

「もう、用はないだろう。帰るわ」と太一は言って、街路に出た。

「待ってくれ」キンちゃんはまた追いかけてきて太一の腕をつかんだ。

「見せたいものがあるんだ。一緒に来てくれ。頼む。俺の最後の頼みだ」

 キンちゃんは太一の返事を確かめず、通り過ぎようとしたタクシーに手を上げて止め、太一を座席に押し込んだ。太一はされるままに座席に座り、肩にかかった雪を払った。

 

 正月の夜には、人の温もりや熱気は、それぞれの家に吸い込まれてしまって、ふたりを乗せたタクシーが走る街は、一年でもっとも寂しくて寒い。

 とりわけ、その寂寥感が太一の胸に沁みた。

――― 老境に近づいたからといって、いつでも、旧友に救いがあるわけではないのだ。

 20分近く走ってタクシーが止められたのは、寂れた商店街の一軒の店の前であった。アーケードはなく、車がすれ違うのに苦労する細い道をはさんで降ろされたシャッターが並ぶ。

 「山根呉服店」と書かれた木製の看板があげられていて、汚れたシャッターや剥がれ落ちてまだらになっている壁から、何年も前に閉店された店に違いないとわかる。

「嫁さんの実家なんだ。もう、商売もやめて誰も住んでない。嫁の兄貴が管理してるんだけど・・・」

 キンちゃんはそう言うと、鍵を開け、腰の辺りまでシャッターを引き上げた。木製の枠にガラスをはめた扉があり、それを引き開けてから、キンちゃんは腰を屈めて中に入った。灯りが点けられ、中からキンちゃんが太一を呼んだ。

 中に入って太一が見たのは、部屋いっぱいに広がっている板の台であった。

 いや、それは卓球台だった。

 塗装の施されていない木の生成りで、見慣れた卓球台の緑色ではなかったが、中央にネットが張ってあった。

 子供の頃、父が作ってくれた卓球台と同じく、細い板を打ち合わせて作ってあった。

 キンちゃんはペンホルダーのラケットを太一に差し出した。自分はシェークハンドのラケットを右手に持ちかけて、玉を台に落とした。

 カンという乾いた音がした。

「昔、タイチの家に、こんな卓球台あったよな。みんな、お世話になった。あんなことにならなきゃ、今日、宴会の後、みんなを連れて来ようと思って作ったんだ」

「わざわざ、作ったのか?」

「ああ。どうせ、会社は定時、有給も完全消化。カネはないけど、時間は腐るほどあるからな。ほら、せっかくだから、少しやろう」

 宴席の話で、太一にはキンちゃんが今でも卓球を趣味として時々楽しんでいることはわかっていた。

――― リュウへの援助を引き出すために、キンちゃんはここまでするのか。

 友を救いた一心のキンちゃんの熱意に、太一は驚いた。

 しかし、太一は、それ以外にもなにか感じるものがあった。

 キンちゃんは大切な試合の時のように真剣な眼差しで構え、ブランクの長い太一に向かってゆるいサーブを打った。太一はその玉を丁寧に弾き返した。

 シェイクハンドで前陣速攻のキンちゃんは、ゆっくりとした、だが正確極まりないストロークでその玉を打ち返した。その玉は、太一が構えたまさにその場所に達して、跳ねた。

 が、太一が打った玉は低すぎて、ネットに弾き返された。

 玉が台に跳ねる音がして、その間隔が短くなって止まる。   

 そうか、太一は台を回って玉を拾いながら思った。

 おそらく何日もかけてキンちゃんがこの卓球台を作ったのは、リュウのためだけではない。

 毎日のように一緒に遊んだあの日々から何十年という時が流れたが、キンちゃんと自分には、依然、なにかで繋がっている。それを「友」と呼ぶべきなのか、「縁」と呼ぶべきなのか、太一にはわからない。

 だからこそ、キンちゃんはこの卓球台を作ったのだ。

 中学校時代を思い出し、高く玉を放り上げて思い切り回転をかけて放った太一の玉は、自陣の板でイレギュラー・バウンドして、横に飛んだ。

――― そうだ、この台だ。僕らは、イレギュラーバウンドするこんな台で卓球を覚え、こうして何十年も生きてきたのだ。


 玉を拾った太一は、サーブの構えをしかけて途中で止め、キンちゃんに言った。

「リュウに、いくら融通してやればいいんだ?」

「500万とか」

「わかった。出すよ。けど、キンちゃん、俺と勝負しよう。一本勝負。サーブは俺。キンちゃんが俺に勝ったら、その金、出すよ」

「いいのか? 俺はまだ現役だぜ」

「いいよ。こういう台での戦い方はよく知ってるんだ」

 キンちゃんは頷いて、身体を屈めて構えた。その目つきは、中学校の頃の、勝負に命をかけているような、まるで豹のような目つきであった。

 太一が放り上げた玉は天井に届くかというところまで上がり、落ちてきた。微妙な角度をはかってカットした玉は、自陣でまっすぐに跳ね、太一の狙いどおりに、キンちゃんのバックハンドの方向に飛んでいった。

 が、キンちゃんが正確に構えたバックサイドのラケットに向かうはずの玉は、敵陣で板の継ぎ目を踏んだ。

 玉は45度左に方向を変え、キンちゃんのがら空きのフォアハンドの空間を飛び過ぎていった。キンちゃんが呆然と視線を向けた先で、玉は壁に達して音を立てた。

 勝負に勝ったのは、太一だった。 


 太一とキンちゃんは、その後、無心に玉を打った。

 キンちゃんは太一が打ち返しやすい玉を打つので、たまにラリーが続いたが、時には、全力でスマッシュを放った。そんな時、太一はピクリともできずに、玉を見送った。

 そして、時々、玉は板の継ぎ目を踏んで、イレギュラーバウンドして、ふたりを弄んだ。

 やがて身体が暖まり、セーターを脱いだふたりは、奥の部屋の引き戸を開いて腰を下ろした。

 キンちゃんが太一の目を見ずに言った。

「なあ、太一、出してくれるつもりになったんだろ?」

「ああ。でも、勝負だからな。仕方がない」

「意味がわからないよ。その気になったんなら、あんな勝負にことかけなくても、出してくれたらいいじゃないか」

「いや、リュウが受け取らない」

 太一は考えていた。きっと、頑固なリュウのことだ。勝負に負けたことでも理由にしなければ、リュウは太一の金を受けとならないに違いない。

 それに、結局、すべてのことはままならないのだ。いつもものごとは、思った方向とは違う方向へ飛んでいく。

 この話も、そういう運命だったのだ。

「まだ、怒ってるのか?」キンちゃんが訊ねた。

「そうだな・・・リュウとは結局、どこまでいっても、わかりあえない。俺がいくら近づこうとしても、だ」

 キンちゃんは大きな目を悲しみの色に染めて何度も小さく頷いた。

「キンちゃん、俺はエキュプリアンなんだ。エロはどちらかと言えばもう空想だけで、旨いものを食うことが最高の幸せだ。俺は、いい料理はわかると思う。たしかに、リュウの素材の選び方とか、料理のセンスは抜群だ。あの立地だから時間はかかると思うが、そろそろ花開かないとしたら、たぶん、客の気持ちに寄り添えないことが問題なんだと思う」

 キンちゃんは頷いた。

「だから、そこんところを、ちゃんと教えてやったらどうかな」

「いつも言ってるんだが・・・」

「なら、もっと、言うんだ。本気で。もう、最後だからって。このままじゃ潰れるからって」

「言うだけでなんとかなるかな」

「なるよ。キンちゃんは人の気持を変えることができる」

「だけど・・・」キンちゃんの目にはまだ諦めの色があった。

「だから、俺を信じろって。エロだって、その道を極めたものには、秘密の道が開けてるんだって」

「?」

「信じないのか?」

 キンちゃんは首を振った。

「いや、信じてないな。俺がポルノ作家だから、言葉じゃだめで、カネしか信用しないってことだな」

「そんなことはない。タイチを信じる。わかった。全身全霊をかけて、アイツにわからせる」

 太一はキンちゃんの目を見た。

 そして、キンちゃんが本気でそう思っていることを見て取って、安心の息を漏らした。


 42年振りの小さな同窓会は、そうして終わった。

 翌年の同窓会の頃には、太一の耳にも噂が届いていた。

 リュウの店は、その後、ミシュランガイドで三つ星の評価を受けて、おおいに繁盛していた。

 太一の食通の知人にミシュランガイドの評価に関わっている人間がいて、同窓会のあった年の春、その知人にリュウの店に行ってもらうように頼んだのであった。太一の味の評価がその知人と一致したのか、キンちゃんの説得が効を奏したのか、ともかく、その知人は私情抜きに割烹「はやし」に最高の評価を与えてくれたのだ。

 毎年、キンちゃんから太一に、同窓会に出席してくれという連絡が入る。

 そして、ミシュランガイドに口を利いてくれたのはタイチだろう、と訊ねる。リュウが感謝しているから、来てくれと言っていると。

 太一は、いつもそれを全力で否定する。

 ほんとうは、そのことよりもリュウに伝えて欲しいことがあるのだが、太一は言えないでいる。

 太一は、かつて志して諦めた純文学に、最後の挑戦を始めたのであった。

 それ以降、ミシュランガイドで三つ星評価の店、割烹「はやし」で開催されるその同窓会に、太一はまだ一度も出席したことはない。

 

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