荒切 壱

 歩き慣れた道を歩く。

 特別なことは何もない。

 いや、あるといえばある。

 ただそれは、定期的に繰り返される出来事のひとつ。

「以後なんなりと楽市楽座……人粉々だよ鉄砲で……長篠合戦……」

 それはテスト。期末試験。

 語呂合わせを口にしながら歩く制服姿の女子高生、山辺椿はあまり前が見えていなかった。

 前方から車のエンジン音が聞こえ、椿はロクに周りを見もせず道の端に避けながら語呂合わせを続ける。

「イチゴパンツの明智光秀……本能寺の……変ッ!?」

 突如、椿の体が真っ直ぐ下に落ちる感覚がして叫ぶ。

 ほぼ同時に、ふわりと何かが椿の体を抱きしめ、落下は途中で止まった。

 ん……?

 見上げた椿の視界に入ったのは、燃えるように赤い瞳。

 まるでこの世のものでないような。

 瞳は驚いたようにじっと椿を見つめている。

 椿もまた、その瞳から目が逸らせない。

「……メ」

 呟く声が聞こえた。

 あまりに微かで、なんと言ったのか椿にはわからない。

 だが、その声で椿は現実に引き戻される。

「えっと……」

 どう反応していいかわからず戸惑う椿の足が、そっとコンクリートの上に降ろされた。

 どうやら抱きしめられていただけでなく、抱き上げられてしまっていたらしい。

 椿は自分を抱き上げていた人物を見た。

 漆黒の髪に整った顔立ちの少年。

 椿とそう年は変わらないように見えるが制服を着ていない。

 少しだけ背は高いが、決して筋肉質には見えないのに、軽々と椿を抱き上げた。

 真っ直ぐにこちらを見るその瞳は漆黒――

「……あれ?」

 先ほど赤く見えたのは気のせいだったのだろうか。

「あの……」

「前見て歩け」

 呆れたように言いながら、少年は道の端に視線を落とす。

 椿も見ると、側溝のコンクリートで出来た蓋が割れていた。

「ああ、またか……」

 納得したように椿はため息をつく。

 椿はそこに落ちかけたのだ。

 そして、それを助けてくれたのはこの少年。

「また?」

「あ、なんでもないです。ありがとうございました」

 眉をひそめた少年に、椿はぺこりと頭を下げる。

 顔を上げると、少年の視線が今度は椿の鞄に向かう。

「礼ならミケを寄越せ」

「ミケ……?」

 しばし考え、すぐに思い当たる。

「ああ、御饌(みけ)ですね。……って、そんなの持ってませんよ!」

「しらばっくれんな。そこに入ってんだろ」

「鞄に入ってるのはただのお弁当です」

「それでいい。寄越せ」

「ダメですよ。私のお昼ご飯なんですから」

 後手にさっと鞄を隠すが、少年はずいっと椿に迫った。

「いいからとっとと寄越せ。俺は今、腹減って気ぃ立ってんだ」

「う……」

 せっかくのイケメンなのに柄が悪い。

 しかも御饌を欲しがるなんて、おかしな人だ。

 あまり拒否すれば何をされるかわからない。

 椿は渋々、鞄からお弁当を取り出す。

「最初からそうすりゃいいもんを。イチゴパンツ」

「は?」

「イチゴパンツの明智光秀、本能寺の変」

「あっ! さっきの聞いてた!?」

 椿の顔が、かっと赤くなる。

 丁度いい語呂合わせなのだが、さすがに男子に聞かれると恥ずかしい。

「なんで明智光秀がイチゴパンツなんだ」

 くくっと笑いながら、少年はお弁当を椿の手から取り上げた。

「それは語呂合わせで……。あっ、テスト! 遅れる!!」

 期末テストのことをすっかり忘れてしまっていた。

 慌てて駆け出そうとして、ふと止まる。

「お弁当箱、後で返してください!」

 いくら助けてもらったとはいえ、このままお弁当箱を取られるわけにはいかない。

 中身はもう諦めたが。

「ああ、そうか。今すぐ食べるから待ってろ」

「そんな余裕ないんです! 急いでるんです!」

「じゃあ、後で届ける」

「いいです! ここに置いといてください!」

「別にいいけど、誰かに持ってかれても知らねぇからな」

「うっ、それは困る……」

 たとえ持っていかれなくても、ゴミとして片付けられる可能性は高い。

 落し物として届けてくれる人がいれば別だが、世の中そんなに優しくない。

 四年と数ヶ月愛用しているお弁当袋は、お世辞にも綺麗とはいえないのだから。

「……じゃあ、山辺神社に届けてください」

 あまり自分の家の場所を他人に教えたくはなかったが、今は緊急事態だ。

「もしかしてあんた、神社の娘?」

「そうですけど」

「ああ、道理で……」

「何がですか?」

 意味ありげに自分を見た少年の視線に、椿は軽く眉をひそめる。

「いや、御饌って言葉知ってたからさ」

 御饌とは、神に捧げる食事のことだ。

 だが今そんな話はどうでもいい。

 一刻も早く学校へ向かわねばならないのだ。

「とにかく、よろしくお願いします!」

 椿は今度こそ学校に向かって駆け出した。

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