第12話 擦手有栖、死の淵に漂う恍惚感
「すぐに裁判を始める。そうしないと俺は調書というやっかいなものを書かなければならなくなる。俺は調書を今まで全部ひらがなとカタカナで書いてきたが、それにクレームをつけた馬鹿がいる。マスター、裁判長をやってくれ。難しいことはない。俺がはいどうぞと言ったら。指でピースのマークを作ってくれればいいんだ。俺は検事役。弁護士役がいないから、それも俺がやる」
ということで、新橋駅前ガードしたおでんの屋台で急遽、厳正な裁判が開かれることになった。
「被告 擦手有栖は頬でアイドル雲出クニの拳を頬で殴った件で、反省は見られず、エッエッ!などと九官鳥のような叫び声をあげた故に、柱に縛り付けの刑に処し、期限は無期限とすることがいいのではないかと思わざるおえない。次は弁護側としての意見も言わなければならない。全く忙しい。殺人的だ。従って、弁護側としては、もうめんどくさくなってしまったので、検察側の言う通りでいいのではないかと、厳しく弁護に弁護を重ねた結果考える次第であり、裁判長 の厳正な判決を仰ぎたい」
そこで、居眠狂五郎課長は、マスター小津野円太郎に向かって
「はいどうぞ」と、両手を皿を持つように差し出した。
次の瞬間、小津野円太郎はピッと右手を頬のあたりに持って行くと、そこでピースをした。
裁判は、あっという間に結審をむかえた。
すると、居眠狂五郎課長は擦手有栖に立てと命じた。擦手有栖は何が何だか分からないまま立ち上がる。居眠狂五郎課長は擦手有栖の右手にぶる下がっている手錠の片割れを屋台のテントを支える細い鉄柱に取り付けた。雲出クニはその鉄柱にもたれ掛かるように座っている。
「なんて素敵な場所なんだ。歌舞伎座の桟敷席なんかよりずっと素敵だ」
擦手有栖はうっとりとした顔になる。牢屋につながれてうっとりとした顔になったのは、歴史始まって以来であり、それだけで次の日のニュースの一面を飾ってもおかしくないのだが残念ながらそうはならなかった。
新橋のガード下の危険物倉庫と書かれている前を、風がそよそよと吹く。雲出クニのしなやかな髪が揺れて、有栖の腕にまとわりつく。
有栖の心臓は激しく動き、薄い胸板を突き破って飛び出しそうになる。
「なんてクニの髪はかぐわしい香りなのだろう。天国はきっとこんな香りに包まれているのだろうな」
目を細めながら、気絶寸前のうっとりとした顔はもう溶けそうであった。
しかし、この世はとかくいいことがあれば、次にちゃんと悪いことが用意されている。
どこからか、叫び声が聞こえてきた。
「アバヨ。時給九一〇円だ。忘れんじゃねえぞ。おいらはドラマー。この野郎かかってこい」
「来た」
雲出クニの顔がパット明るくなる。
なにも分からないのは有栖だけである。居眠狂五郎課長は座っている丸いすを一つずらし、クニとの間に席をもうけた。あいた席の前に店主の小津野円太郎がコップ酒を皿にのせて置く。
クニの髪をゆらしていたそよ風に、ある種の臭いが染まってくると、やっと有栖にも事態が飲み込めてきた。
清だら爺がクニの隣の席に座る。有栖に強烈な吐き気が襲ってきて、口からゲボッと言う音が出る。クニが口を少しとんがらせて有栖の顔を見上げる。その距離は50センチもない。しかも近ずいてくる。有栖の気持ちは自分でもコントロールが出来ないまま、臭いとクニへの思いで、天国と地獄の狭間を漂っている。
そのとき、また黒いひとかげが、4人の背中を偵察するように走り抜けようとする。
店主小津野円太郎が
「二度目は許さねえ」
ドスの効いた声を出すと、目にも留まらぬ速さで、オデンをすくい取るおたまで三角形のはんぺんを二つすくい取り、
「手裏剣はんぺんを喰らえ」と叫ぶ。
しゅっしゅっと空気を切って飛んで行くはんぺんの音が聞こえる。次の瞬間黒いひとかげの両目にはんぺんが張り付く。黒いひとかげは、躓くようにばたりと倒れて、はんぺんを目に付けたまま、屋台の方を向く。三角形のはんぺんは上下が逆に目に貼り付いているので、天才バカボン的なキャラになっている。はんぺんがズルリと落ちて来て、男はそれを口にふくむと立ち上がり、逃げようとする。その腕を、居眠狂五郎課長がムンズとつかむ。
「おい、喰い逃げはイケネーナ、はんぺんは一つ170円だ。340円ちゃんと払っていきな」
男はズボンの後ろポケットから財布をだし、340円ちょうどを居眠狂五郎課長に渡す。
そのとき、屋台に居た5人は怪盗グログロイズムナンバー2の雑木帯末の
顔をしっかり覚えることとなった。もちろんそのときには、だれも雑木帯末の正体など知ってはいなかった。
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