第8話 闇夜に満月

新橋駅前ガード下に黄色い電球がぶる下がっている。

埼玉スーパーアリーナでコンサートを終えた雲出クニが、こっそりと新橋ガード下おでんの屋台に入り込んでいる。客は他にいない。清だら爺がいないので臭いのガードがない。とても危険な状況である。

ふらりと入って来たサラリーマンが、雲出クニを発見してしまったら、その情報はスマホによって数分のうちに世界中に拡散され、1時間以内に新橋の駅前は数万人のファンに占拠されてしまうだろう。

マイフェアレディーのようなつばの広い帽子をサングラスの所までかぶり、マスクをして、食べたり飲んだりするときだけはマスクを前に引っ張り、その隙間から日本酒のコップ酒をあおり、ちくわとコンニャクのおでんを食べていた。

天文学的数字の数だけいるファンの中で、超凄まじいファンが一人いた。

二十三歳になるこの男は無職で学生をやっている。擦手 有栖(すれて ありす)という名前で、大学では物理を研究している。

一般的に物理をやっているものは、頭のどこかがおかしく性格も時空の歪みをもろに受けてねじれているものである。

御多分に漏れず、有栖もおかしい。雲出クニに送ったファンレターは、

「僕の心が作った電場にのせて、あなたに一万クーロンの愛を届けます」

といったものだったが、雲出クニのマネージャによって、0.1秒の早業でゴミ箱に投げ捨てられた。

 有栖は、超人的な粘り強さと異常な眼力聴覚嗅覚によって雲出クニを追い掛け回し、新橋のおでん屋台に時々雲出クニが出没していることに、感づいていた。

 今日も、埼玉スーパーアリーナのコンサートを見た後、雲出クニよりも早く、新橋にたどり着き電信柱の後ろに隠れておでんの屋台を見張っていたのである。

「やはり!クニは来られた」

 有栖はつぶやく。しかも今日は、臭いがない。

 有栖の心臓は激しく打ち響き、血圧は急上昇した。

 今日こそ告白する日ではないか。今日を逃したら後はない。

『クニが僕の愛を受け入れてくれるまで、繰り返し繰り返し愛を叫ぶのだ。宇宙の中心から愛を叫ぶ』

 有栖の顔は、自分の思いに陶酔し真っ赤になっていた。

 ファンでもここまで思いつめたファンは危険であり、傍から見れば狂気であり、狂気は凶器である。

 雲出クニは右端に座っている。従って左側の席が空いていた。その左側の席にむかって、有栖は突進していった。

 新月の夜、月が新橋のおでんの屋台に下りてきているように有栖には見えた。

「そうだ、僕は月にむかう飛行船なのだ」

 しかし、その飛行船はあまりにも焦って走り、足がもつれ、左側の席に後五十センチというところでひっくり返ってしまった。

 そこにサングラス掛けた男が現れ、その左側の席に…あっアッあっ…座ってしまったのだった。

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