天人 マハーカッサパの巻

このように俺は聞いた。入滅後、鶏足山でマイトレーヤの下生を待っていたとされるマハーカッサパ、和名、摩訶迦葉尊者が、天人として復活した。


ネットとリアルは沈黙に包まれた。言葉にあらわせない事のあまりの多さに気づいて人は一言も発することができなくなった。恋人も家族も互いの思っていることがわからなくなった。悲惨な事件がいくつも起きた。


マンジュシュリさんが解説している。


拈華微笑(ねんげみしょう)、不立文字(ふりゅうもんじ)って、聞いたことあるかな。ゴータマの教えの核心部は、言葉には表すことができないと主張する仏教徒の一派が現れた。彼らは自分たちが瞑想を含む実践体験によってその核心部を会得し、師から師へとその秘密を受け継いできたと主張した。禅宗の誕生だ。その開祖が、マハーカッサパ。その教えを中国に伝えて開花させたのが、このじいさん、ボディーダルマだ。

そんなところでいいかな、じいさん。出典のいちいちは省略するよ。


まあ、そういう見方もあるな。

ボディーダルマさんにしては歯切れが悪い。


理屈はいいから、いくぜ。西天第一祖、相手にとって不足なし。

ボディーダルマさんはやっぱり威勢がいい。窓から飛び出していった。


マハーカッサパがみなの心に直接話しかけてくる。

お前がボディーダルマ、我の伝法の灯りを継ぐものか。

ならばずばり問う。祖師西来の意、これ如何に。


なんてこった。俺がインドから中国に禅を伝えたのはなぜか、だと。俺は一日だって、それを考えない日はなかった。確かに禅は、7世紀以降の東アジアの思想界を席巻した。あの朱子学さえも、禅に対する反発から起こり、禅の哲学の一部を借用している。しかし禅は仏教なのか、ゴータマの教えの延長線上にあるものなのか。もし禅がなかったらその空白は何が埋めたのだろう。そもそも、それは欠如なのか。誰にとっての。。。


危険だ。精神侵食が進んでいく。


道(い)え。ボディーダルマよ。

ヴァスミトラーさんが叫ぶ。メイドさんの服を着て猫耳をつけた女の子を、はがいじめにしている。

しばらくの沈黙。

どん、とその子を突き飛ばす。倒れるところを刀でばっさり。

胴体が二つに別れて地面に転がる。血が吹き出す。


ボディーダルマさんが振り返る。


ヴァスミトラーさんが続ける。お前は誰だ。

ぶざまな姿で語り続けよ。命をかけて問い続けよ。それ以外のお前はないはずだろう。


ああ、そのとおりだった。ヴァスミトラーよ。後世の評価などどうでもよい。俺には今しかなかった。

西天第一祖よ。これが答えだ。

Just for Fun!

ただ、楽しかったからさ。


キンナラが歌いながら舞い降りてきた。正解らしい。


俺のターン。

問う。万法と侶(とも)たらざる者、その音声(おんじょう)はこれ如何に。


たやすいことだ。あらゆる分別を超えた時、残るのは声聞としての我。

我は語らず。微笑(みしょう)するのみ。


ばさばさ。ガルダが飛んできてマハーカッサパをつっつく。


それはどうかな。ゴータマさんの声が響く。


新たな絶対者を立ててどうする。

言語化の意志を簡単に放棄してしまうのも気に入らない。


僕の教えは、マニュアルだった。筋道を立ててよく考え、ステップを踏んで実践すれば、誰でも悟りに達することができる。それが僕が広めたかった事、僕の教団に託したシステムだった。君はずいぶん違ったものを作り上げてしまった。まあそれは君の自由だ。でも見たまえ。神秘主義、独善、セクショナリズム。君は後進を誤らせないようにする配慮に欠けていたのでないだろうか。


マハーカッサパよ。もういい。お茶を飲んで去るがよい。


うふふふ。巨大化したマハーカッサパが、こちらに向かってくる。


ゴータマさんが両手を高く上げた。

しかたない、くらえ。教師に握拳なし。開いた拳から光が放たれた。


うふふふ。マハーカッサパの姿は消え、世界は六種に震動した。笑い声だけがしばらく残った。


ヴァスミトラーさんがブルーシートを抱えてくる。死体を車にのせるのだ。


ヴァスミトラーさん、俺がやります。服が汚れますよ。


少年、ありがとう。これは私一人にやらせてくれ。

私は人を殺したから地獄に落ちる。この世界が終わるまで私はそこに留まろう。それが、かつて菩薩だった私の最後の誓願だ。


さてと。

ヴァスミトラーさんが運転席のドアをあけて、こちらを振り向く。


少年、最後に聞かせてくれ。君はこの世界が好きかい?


はい。もちろんです。


ヴァスミトラーさんはにっこり微笑んだ。

いい子だ。キスしてあげよう。


うぐうぐ。ぷは。


また会えたら、続きをしよう。じゃあね。


車は走り出し、ヴァスミトラーさんはそれきり戻ってこなかった。

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