十品目 大陸亀のロースト


 男は腹が減っていた。


 もはや立ち上がる事も困難なほどに精も魂も消耗している。


 長年使い込んだ愛剣を失うほどの激戦。


 かつてない強敵を前にしてその程度で済んだのはむしろ僥倖と言うべきであろうか。


 果たして、勝機は千に一つか、万に一つか。


 尋常の神経では勝負を挑もうとすら思わない狂人の沙汰。


 生きた災害とも称される巨躯を前にしては人間など所詮は塵芥。吹けば飛ぶ程度の羽虫に過ぎない。


 だが、勝った。


 千の絶望、万の死線を悉く斬り伏せ、無理矢理に奇跡を手繰り寄せた。


 ただ強いだけでは生き残れなかっただろう。


 ただ運が良いだけでは死なずとも勝利には届かなかっただろう。


 何故そうなったのかは彼自身にも分からぬが、男は勝利し、そして生き残った。





――――――――――――――――――――――――――――――





 「将軍、全軍配置に付きました」

 「うむ、総員この場を死守せよ! アレをこれ以上近付かせるな!」


 自分でも無茶な命令とは分かっているが、私は部下に檄を飛ばした。

 鋼鉄や青銅の武具を纏った兵達は、人間同士の戦であれば頼もしげに映るのだろうが、今ばかりは酷く弱々しく見えてしまう。


 だが、将たる私がそんな風に考えていては、ただでさえ葬式のような部下達の士気がますます下がってしまう事だろう。不安は尽きぬが、己と部下とを必死に鼓舞して戦意を奮わせねばならぬ。


 我が軍の陣容は、騎兵が三百、歩兵が二千。

 加えて臨時に雇い入れた傭兵が五百。

 相手が小国であれば容易に落とせるほどの大戦力をかき集めたが、これでも気休め程度にしかならない。敵はただの一匹だというのにだ。





 大陸亀。


 大陸という名の通り、長く生きるにつれて巨大に成長する亀の一種である。雑食性であり、充分な食料と時間さえあれば、その成長に上限はないとすらされる。


 とはいえ、いくら大きいとはいえ所詮は亀。動きは鈍いし、通常であれば然程の脅威にはならない。その甲羅や骨は武具の素材としても有用であり、肉は食用にもなる。むしろ通常であれば手頃な獲物として歓迎したいくらいに思っていた。私も他の皆も、あの怪物の真の脅威をまるで理解出来ていなかったのだ。


 だが此度の大陸亀を一目見た瞬間、己の認識がいかに甘いものだったかを否応無しに痛感する事になった。


 最初、山が動いて我が国の都に近付いてきている、という報告を受けた時は、物見の兵の見間違いだろうと思い気にも留めなかった。だが続々と相次ぐ報告を受けて、確認の為に騎兵を走らせ、その山が恐ろしく成長した大陸亀であると知った。


 甲羅の上に堆積した土の上に無数の樹木が生えていた為に、遠目にはまるで山のように見えていたのだ。学者の見立てでは最低でも千年以上は生きている個体だという事だ。それが分かったところで何の助けにもならないが。


 遠くから見る限りでは動作が鈍く見えるが、なにしろ常識外の巨体である。その歩幅は一歩で幅の狭い川ならまたいでしまう程にもあり、実際にはかなりの速度が出ている。馬の足には劣るが、人間が小走りで移動するくらいの速さはあるだろう。


 都にまで到達されてしまっては、我が国はそのまま亀の餌場となる。


 相手は雑食性であるから、逃げ遅れた民がいれば喰われ、そうでなくとも都が跡形も無く踏み荒らされる事は間違いないだろう。例え亀の脅威が去ったとしても、国の要たる都が壊滅したとなれば近隣の国が好機と見て侵略してくる公算が高い。


 祖国の興亡、この一戦にあり。


 「弓兵隊、矢を放て!」


 私の号令と共に豪雨の如くに矢が放たれ、そして絶望的な戦いが始まった。





 ◆◆◆





 開戦から数時間、未だ戦いは続いていた。


 大陸亀の足には無数の矢が突き刺さり、剣や槍によって刻まれた傷も数え切れぬ程だが、分厚い皮膚に阻まれてしまい、奴は何の痛痒も感じていないかのようだ。


 時折、間合いを見誤った歩兵が踏み潰され、無残な屍を野にさらしている。まるで人にたかる蟻になったかのような心持ちだ。本当に食い止める事が出来るのだろうか?


 弱気の虫が頭をもたげそうになるが、頬を強く張って振り払う。我らの後ろには力を持たぬ民がいるのだ。状況ははっきり言って最悪だが嘆いている暇はない。



 「おい、あんたが将か?」


 声をかけられて振り向くと、そこには見上げるほどに巨大な馬に乗った男がいた。獅子の鬣のような髪型の巨漢だ。こんな目立つ男は我が軍にはいないので、臨時に雇った傭兵であろう。


 「お前は誰だ。一体何の用だ?」

 「話は後だ。なるべく長い縄を寄越せ」


 誰何の声に男は答えず、縄を寄越せと端的に言ってきた。


 「縄をかけて奴の頭の上によじ登る」


 足をチクチクと攻撃しても有効打にならないのは既に痛感している。確かに頭の上によじ登り、眼球や脳を破壊することが出来れば、確かにあの山のような巨体も止め得るやもしれぬ。


 「だが、登れるのか? 尋常の脚力では縄をかけるところまでも跳び上がれまい」

 「俺だけでは無理だ。だが、このクロシェットの脚と俺自身の跳躍を合わせれば届くかもしれない」


 跳躍した馬の背を足場に、更なる高さへと跳ぼうというのか!


 男がクロシェットと呼んだ馬は確かに見た事もないような巨馬である。

 しなやかな筋肉が皮膚の上からも見て取れ、単に大きいだけではなく速さも持久力も並ではない事が伺える。


 「……よかろう。その策、試してみるがよい」


 逡巡は一瞬。この際、試せるものは何でもやる他はない。

 近くの兵に縄を持ってこさせて男に渡すと、男は馬と共に風のような速さで大陸亀の方へと向けて突撃した。


 男は馬上で鎧や持っている荷物を外して捨てていた。恐らくは少しでも身軽になって高さを稼ぐためであろう。もはや、背中の大剣と手にした縄以外は全て打ち捨て、ますます速さを増して、そして跳んだ。


 都の外壁も飛び越えそうなクロシェット号の大跳躍。


 そして高さが頂点に達した所で男が馬の背を蹴り更なる高さへと達した。そして空中で先端が輪になった縄を投げ、縄は見事に亀の背に生える樹木の一本へと引っかかったようだ。そのまま縄をよじ登り、亀の前脚の上のあたりの甲羅へと登りきることに成功した。


 下からではよく見えなかったが、亀の甲羅の上は長い年月に渡って堆積した土によって、普通の地面と同じようなしっかりとした足場になっているようだ。男は猛然と亀の頭の方へと向けて走り出し、その勢いのまま亀の頭へと大剣を叩きつけた。


 ここへきて初めて大陸亀は我ら人間を敵だと認識したようだ。

 頭部への一撃はさしもの怪物にとっても無視出来ない威力があったらしい。


 「いかん、全軍百歩後退! 急いで距離を取れ!」


 それまで一定の間隔で歩んでいた亀が、頭の上の敵を振り落とそうと首を振り、同時に癇癪を起こした子供のように地団駄を踏み出したのだ。地面が激しく揺れて立っているのも困難なほどだが、至近距離で巻き込まれたら一溜まりもあるまい。


 亀の癇癪が収まった後、よもや男が振り落とされていないかと上を見たが、どうにか無事だったようだ。分厚い首の肉に剣の半ばまでもを突き立て、それによって身体を固定していたらしい。


 通常の生物であればあれ程の大剣を深く刺されては生きてはおれぬであろうが、此度の敵は尋常の怪物ではない化物の中の化物。重要な神経や骨格を断つには剣の長さが足りなかったようだ。


 男は背の力を目一杯に使って一息に剣を引き抜くと、今度は亀の右の眼球へと剣を突き立てた。眼球が破裂し、地面にいる兵達の上に滝のような勢いで亀の体液が降り注ぐ。


 「やったか!」


 流石に片方の眼球を潰されてはあの怪物もただでは済むまい。亀の身体が力を失って崩れ落ち、その様子を見ていた兵達が喝采を上げた。


 私も勝負は決したものと思い気を緩めかけたが、千年を生きた怪物の真の恐ろしさをここから思い知る事となった。


 何と、亀はそれまでとは打って変わった俊敏な動きを見せて、身体を横方向に一回転させたのだ。奴もとうとう死力を振り絞ってきたという事なのだろう。


 運悪く亀の側面に陣取っていた兵が何十人も潰され、加えて、狙ったわけではないだろうが甲羅の上にあった木々が折れて上空から矢の如くに降り注いできた。


 「あの男は!?」


 亀の右眼窩には剣が突き立ったままだが、あの男の姿はない。もしや、今の動きで振り落とされてしまったのだろうか?


 否、亀の頭の下辺り。

 先程潰れて垂れ下がっている眼球の組織にどうにかしがみついている。あれは視神経であろうか。まるで人間の腕ほどの太さがある。


 男は必死に眼窩の方へと登ろうとするが、その動きが亀に激痛を与えているのだろう。激しく首を振って視神経を登る男を振り落とそうとしている。体液に塗れた視神経はヌルヌルと滑っており、いつ振り落とされてもおかしくないような状況だ。


 「いかん! 全軍、攻撃せよ! 弓兵は奴の左眼を狙え、意識を足元へと誘導するのだ」


 最早、勝負の趨勢はあの男にかかっている。


 地面にいる我らに意識を誘導し、彼が眼窩まで登りきる時間を稼がなければ。正規軍が我が身を囮にして傭兵を救うなど聞いたこともないが、あれほどの働きを見せる戦士に報いる方法などこれくらいしかない。


 野は踏み潰された兵の血肉で一面赤く染まり、むせ返るような鉄の臭いが立ち込めている。この戦いで何人の勇敢な兵を失ったことだろうか。


 だが、彼らの死は無駄ではなかった。


 男はとうとう剣の突き立った眼窩へと辿り着いた。

 そしてそのまま刺さっていた剣を引き抜いたが、剣は半ばほどでポッキリと折れていた。あの剣も相当の業物だと見受けられるが、頑丈な亀の頭蓋骨に当たった際の衝撃で折れてしまったのだろう。


 この土壇場に至って武器を失い、折れた剣の柄を握り締めた男は、しかし未だ闘志を失っていなかった。全身を眼窩の中へと潜り込ませ、そこから更に頭部の奥へ奥へと侵入したのだ。

 

 数秒後、全身を震わせるような断末魔が戦場一帯に響き渡った。


 折れた剣と拳足でもって、直接脳髄を破壊したらしい。いくら怪物であろうとも、直に脳を破壊されては死は免れなかったということだ。


 大陸亀の巨体が崩れ落ち、足元にいた我らは急いで避難した。せっかく勝利したというのに死体に潰されてしまっては堪らない。山のような巨体が落下した衝撃で猛烈な土煙が立ち込め、戦場は一寸先も見えないような有様だ。


 しばらくはそのまま何も見えない状態が続いたが、やがて土煙が晴れて視界が戻る。すると、ちょうど亀の眼窩の中から這い出てくる男の姿が見えた。どうやら彼も無事だったようだ。彼は私の姿に気付くと呑気に手を振ってきた。


 「我々の勝利だ! 勝鬨を上げろ!」


 皆が武器を振り上げて勝鬨を上げ、長かった戦いはここに終結した。




 ◆◆◆





 「さあ、レオナルド殿、好きなだけ食べて飲んでくれ」


 その日の夜は国を挙げての宴となった。

 都の大通りに宴席を設けて、兵達にも好きなだけ飲ませ、食わせている。


 此度の勝利の立役者である英雄は、当初は王城に招いてもてなそうとしたのだが、堅苦しいのが嫌いな性分だと聞いたので私と共に大通りの宴席に参加している。


 男、改めレオナルド殿は随分な健啖家で、すでに山のような料理を食べているが、まだまだ足りないようだ。給仕の者達が先程から忙しく新たな皿や酒瓶を運んで来ている。


 「美味いな、これ」


 レオナルド殿が先程からおかわりの皿を重ねているのは、あの大陸亀の脚肉を使った料理だ。特に炭火で炙ったローストがお気に入りらしい。


 鉄の斧やノコギリを使って切り出した端から調理させているのだが、あれだけ頑丈な怪物なので、早くも何本もの刃が駄目になってしまったらしい。こうして調理した肉は柔らかく美味なのだが、死してなお一筋縄ではいかない亀だ。


 肉の量は国中の民の腹を満たしても余りあるほどだが、腐り始めてしまったら病の元となる恐れもある。そうなったら火にかけて処分するしかないので、少しでも多く食料とすべく交代で解体作業に当たらせている。



 「おかわり。あと酒もくれ」

 「ああ、承知した。誰か追加の皿を持て」


 大陸亀は今回よりも小さい物を何度か食べたことがあるが、どうやら大きい程に味が円熟していく性質があるようだ。


 舌の上に溢れる脂の甘みは極上の鴨にも勝り、どこか果物のような華やかさすら感じる。


 赤身の部分はさっぱりとしているが、味が薄いというわけではない。濃い肉の味を感じるが一切のくどさがなく、決して飽きるということがない。炭火の香ばしさとの相性も抜群で、レオナルド殿ではないがいくらでも食べられそうだ。


 「これなら内臓モツの味にも期待できそうだな」

 「ああ、いいな、美味そうだ。亀は肝が美味いと聞くぞ」


 そこまで切り出すのに何日かかるか分からないが、脚肉がこれだけ美味いなら他の部分にも期待が持てる。


 「しばらくはこの国に留まるのだろう? 食っていくといい」

 「ああ、そうする。どうせ、新しい武器も探さないとならんしな」


 私としてはレオナルド殿には我が軍に仕官して欲しいのだが、それとなく聞いてみたら「面倒だ」と断られてしまった。

 まあ、仕方ない。

 今は無粋な話は忘れ、ただ勝利の味に酔いしれるとしよう。


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