最終話 大人の味は――?
○最終話 大人の味は――?
大人って、どういうことだろうか。
またしても考えていた。
まだ思い出せる。煙草の味。けれど、あれが大人の味だなんて到底思えない。煙で溺れるとすら考えた。
じゃあ、なにが大人なのだろうか。
選挙に行けたら大人? 競馬・競輪の投票券が変えれば大人? ローンをひとりで組めたら大人?
「大人って、なんだろう」
つぶやいてみる。声に出してみたら、誰かが答えてくれるような気がして。
空中に吐き出した独白が、煙にみたいに渦を巻いて、ひとりの顔を形作る。
深山さんなら、なんていうだろうか。
部屋に浮かぶ彼女の唇が、小さく振れた気がした。耳をそばだてようとして、しかしすぐに彼女の顔は消え去って、代わりに突如としてまったく違う顔が目の前に現れる。
「なにしてんの、兄ちゃん」
「いや、考え事……」
「そこ、じゃまなんだけど。あたし、いまからドラマ見るから」
妹にソファの上から引きずり下ろされ、さっきまで僕が寝転がっていたところに、でんと妹が座り込む。テレビのリモコンをいじりながら、
「『大人って、なんだろう』とか言ってたけど」
「なんだと思う?」
「知らない」
そっけなく言い切って、買ってきたポテトチップスを開ける。
「誰か大人にでも聞いてみたら。ああ、お母さん今日遅いって。晩ご飯、適当に食べといてって」
残業だろうか。それすらも大人っぽく聞こえる。
「じゃあ適当に作るか。咲、なに食べたい?」
「あたし、友達と外で食べてきたからいいや」
そういう妹の視線は既にテレビの中に引き込まれてしまっている。
友達と外食……実は未だに行ったことがない。
なんだか、僕だけが置き去りに、取り残されてしまっている気がする。自分の足で、リビングの床に張り付いてしまって、一歩も踏み出せないような感覚。
「僕もなにか食べてくるよ」
無理やりにでも動き出さないと、これから一生、ここに踏みとどまったまま、という錯覚に駆られて、焦るように家を出る。
夏の日の夜空は、まだほろ明るい。うっすらと輪郭づくる月を見上げながら、どこへ行こうかしらと思案しながらも、足を止めるまいと歩き出す。一歩、二歩、三歩、そうしてやってきたのは、彼女の家だった。
指先を呼び鈴に近づけて、はたと止まる。いったい、なにをしているんだ僕は。
こんな時間に、約束もなしにいきなり訪ねては、きっと迷惑するだろう。それに、あるいは夕飯を食べているかもしれない。
やめておこう。自転車で十五分も走ればファミレスくらいあるし、もっといえばコンビニで夕食を済ましてもいい。
と、踵を返したつもりだった。が、僕の思いとは裏腹に指先は呼び鈴を鳴らし、
「はぁい。どちら様ですか?」
聞こえたきたのは深山さんの声。息が詰まった。
このままだんまりを通して、物音立たないように引き下がれば、ただのいたずらとして、向こうも気に留めないだろう。そっと息をひそめたまま、歩き出せばいい。けれど、やはり僕の心中に反して、
「神山ですけど……」
「あ! 聡太くん? どしたの?」
「あ、いや……」
「まぁいいや。すぐ出るね」
立ち尽くす僕。間を失った。家の中から人の走る音。がらりと玄関が開いて、
「やっほー、聡太くん。おばんでやんす」
なんて、素っ頓狂な挨拶をするものだから、僕もたまらず気が抜けた。
「こんばんは、深山さん。晩御飯だった?」
「わ、すごい。なんでわかったの? エスパー?」
「口の周り」
言うと、深山さんはソースで赤茶色に汚れた口に手をやって、
「ベタベタだぁ」
「子供みたい」
「洗ってくるね」
口の周りを拭いて出てきた深山さんは、小さなショルダーバッグを掛けていた。不思議に思っていると、
「どこかへ出かけるんでしょ? あれ、違った?」
言われて、押し黙った。特に目的なく、さらにいえばほとんど思いがけない形で呼び鈴を押してしまい、その上、唯一の口実である夕食のお誘いも、彼女がすでに済ませてしまっているというのだから。
「それじゃ、アイス買いに行こう。食後のデザート」
「コンビニ?」
「そ。歩きだとちょっと遠いね。車出そっか」
「車あるの?」
「まあね。どう、オトナっぽい?」
頷く。僕もまた自動車免許を取れる年齢に達しているものの、同世代くらいの子が実際に車を運転するとなると、やはり憧れる。口の周りにソースをつけっぱなしの少女が、否応にも自分よりも大人なんだなと実感させられる。
「いっても、おじいちゃんのおさがりなんだけどね。免許も、半年くらい前に取ったばっかりだし」
真っ白な乗用車。ふたりして乗り込むと、日中、夏の陽に照らされた空気がむわりと鼻腔を苛む。すぐにエンジンがかかって、備え付けのエアコンから空気が送られてきて、しかし、それが反対に生ぬるく気持ち悪い。
ゆるゆると車が発進する。ちらと横目で盗み見ると、真剣な顔をしてハンドルを操る深山さんが、いつもとは別人に見えた。
車は快速で進んでいく。車窓から見える風景はいつもと同じようで違う。高さもスピードも違うのだから当然のことであるが、そこに奇妙な感慨を抱く。
「やっぱり車は楽ちん楽ちん。コンビニまでひとっ走り」
深山さんの言葉通り、コンビニへは信号二つ超えて交差点を曲がるだけで着く。時間にして三分もかからない。背の高い青色の看板がもうそこに見えている。
「車エンジンかけっぱにしておくから、聡太くん買ってきてよ」
前回も僕が買いに行かされて、思わずしかめ面を作るが、五百円玉を手渡され、おつりはいいよと言われて従った。コンビニの涼気にさらされて、足に根っこが生えそうだな、なんて思いながらソーダバーをふたつ。
「はい。ソーダバーでよかった?」
「うん。私ソーダバー好き。特にこのふたつに割れるやつ」
子供のように顔をほころばせて、すぐに食べ始めるのかと思いきや、車を動かして来た道とは違う道を進みだす。
「ちょっと寄り道していかない? 私のお気に入りの場所」
どこだろうか。この先は畑と川しかない。飲食店やゲームセンターなんかの施設がまとまった駅前とはまったくの反対方向。ちょっと不安げな顔をする僕を尻目に、深山さんはすこしスピードを上げた。
川沿いに出る。街灯も人気もない、かすかな夕日が照らすばかりの道路をぐんぐん走っていく。と、不意にブレーキを踏み、車二台がなんとか通れるくらいの場所で、路肩に寄せて車を停めた。
「むかし、おじいちゃんによく連れてきてもらった場所なの」
川辺の空気は、町の中よりもずっと涼しい。肺いっぱいに深呼吸をすると、多分に湿気を含んだ空気が内臓を潤していく気がする。
深山さんはアイスキャンディーをひったくって、包装を剥ぐとぱくりとかぶりついた。僕も真似してがぶりとくわえる。内外から冷やされて、心地がいい。
「ここに来るとね。ああ、私って、大人になったんだなぁ、って思うの」
大きく伸びをしながら、独り言のように深山さんがつぶやいた。
「……どうして?」
「ここによく連れてきたもらってたのは、ちっちゃい時だからね。見えてた景色も、いまと全然違う。背も伸びたし」
深山さんが振り向く。
「聡太くんは、どんな時に大人になったなぁ、って思う?」
僕は――
「そもそも、自分がまだまだ子供だと思う」
「そう? 背も高いし、私よりもずいぶん大人っぽく見えるよ」
「見えてるだけだよ」
「そうかな」
河川敷へ向かって降りていく彼女を追いかける。土手の途中で止まって、倒れこむように寝転んだ。僕もそれにならう。
「子供の時は、珈琲をブラックで飲めれば大人だと思ってた」
「たしかに、オトナっぽいね。私は、おばあちゃんと同じ背丈になったら大人だと思ってたなぁ」
「でも、違った。じゃあ、二十歳になったら大人になれるのかな」
「それじゃあ、私は大人?」
「うん。そうだと思う。煙草も吸えるし、お酒も飲める。車も運転できる」
「聡太くんだって、もう免許取れるじゃん」
「それはそうだけど……」
思わず唇を尖らせる。
「――大人の味」
深山さんが、ぽつりと呟いた。川を見ているのか、それとも空を見ているのか、あるいは何も見ていないのか、判然としない。ぼんやりと、独り言のように呟いた。
「大人の味?」
「そ、大人の味。聡太くんは知ってる?」
言われて、ちょっと考える。
「煙草?」
「あれが大人の味だったら、私は大人じゃなくていいなぁ」
顔をしかめて、煙草の味を思い出しているようだ。僕もそう思う、と答えようとして、
瞬間、
深山さんの顔がこっちへ向いた。と思った時には、視界いっぱいに彼女の顔。思わず目を閉じる。
こちん、と硬いものと硬いものがぶつかった感触。口の周りがこそばゆい。
唇が温かい。まぶたを開ければ、眼下にあるのは彼女の額。
ゆっくりと彼女の頭が離れていく。
「あはは。歯当たっちゃった。も一回」
小さくはにかんで、再び温かい感触が唇を覆った。二度目にして、ようやくこれがキスというものだと気づいて、たまらず恥ずかしくなる。唇越しに伝わるぬくもり、唾液の感覚。鼻息のくすぐったさ。髪の匂い。人肌の柔らかさ。ぜんぶがぜんぶいままで感じたことのないもの。ぎゅっと目を閉じるが、そうすると反対にそれらが一層ありありと頭の中に浮かんできて、しどろもどろ。
数秒? 十数秒? それとも数分間? 時間感覚すらおかしくなり始めたくらいになって、深山さんが身動ぎをして、体の離れていくのが分かる。名残惜しい、と思う間に、温かな柔らかさは完全に唇からなくなっていて、
「ぷは。変な感じだね」
深山さんの笑顔だけが残った。全身が燃えるように熱い。特に頭が、脳みそが沸騰しそうなくらい。ぼんやりする。
「どう? 大人の味は」
言われて、舌なめずりする。もごもごと口の中の余韻を味わって、
「アイスキャンディーの味がする」
ふたりして、笑った。
恋味アイスキャンディー 終末禁忌金庫 @d_sow
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