【短編】ノックの音が

甲斐ミサキ

【短編】ノックの音が

 ノックの音がした。

「はーい、入ってます」

 そう応えたあと、名取は首を傾げた。なに言ってんだ僕は。

 尾篭な話で申し訳ない。ここはトイレの中。

 名取の住んでいる十六夜寮は、霧生ヶ谷市の独身寮である。財政豊かな霧生ヶ谷市だけのことはあり、職員の福利厚生は充実しており、今時共有のトイレなどはない。

 したがって、名取の部屋の個室トイレをノックするものなどいるはずがない。

 きっと隣の部屋の矢縞がゲーム中にこけてでもして、その音が水道配管や、電気配管なんかを伝わって音が響いてきたに違いなし。

 十勝一敗。これが戦績。二人は「カテゴリソウル」というアクションパズルゲームの対戦に最近ハマッている。要はさまざまなカテゴリのものを球体に多く巻き込んだものが勝ちというルールなのだが、なぜだか矢縞はコントローラーとともに体が動く。自分も動かなければ操っている気がしない、とは矢縞の談だが、分からなくもない。ちなみに一敗は、矢縞の気にしている同僚の夏秋さんが遊びに来たときにお情けで八百長とは分からない程度の僅差で名取がワザと負けたものだ。近々、また敦子ちゃんが遊びにくるとかで、夏秋さんもこのゲームを知っている。男の手前負けたくない意地があるようで、最近練習熱心なのだ。熱心すぎて盛大にこけたに違いない。

 

 ノックの音がした。

 ここはコンビニ、「ミストマート十六夜寮店」の中。

 寮の一階がテナントになっており、コンビニエンスストアが店を構えている。漫画週刊誌の立ち読みを一通り抜き読みして(この漫画好きなのに打ち切りなんかー)今はレジ前に並んでいるところだ。夜食のサンドイッチと野菜ジュース、悶絶絶叫ハバネロチップスと眠気覚ましのカカオ七十%チョコ、珈琲牛乳プリン、それから矢縞に頼まれたジャージー牛乳プリンが買い物籠に入っている。

 レジに立つ顔見知りの女の子が、名取の籠と顔を相互に見比べて溜息をついた。

「ねぇ、お客さん。お金払わないで商品開封したらメッですよ」

 細っこい人差し指で名取の額をメッ!

 なんでやねん。

 釣られて籠を見やる。確かにジャージー牛乳プリンの蓋が開いている。

 いや、

 開いているというよりは、

「内側」から突破られているような……。

 名取は新たにジャージー牛乳プリンを一つ追加すると店を出た。

 

 お昼時。

 市庁舎三十五階にある職員食堂で、肉野菜炒め定食を注文する。この食堂は健康に気配りしたメニューに定評があり、油分が少ないにも関わらず、それを補う旨味で美味しさは損なわずにヘルシーである。肉野菜炒めに味噌汁、菊菜のおひたしにご飯。

 ノックの音がした。

 名取が手に取った割り箸がすでに割れている。

 縦に割れているなら何かの拍子ということもある。だが横に割れていると話は別だ。箸入れから抜き取った時にはそんな兆候などなかったが。

 

 仕事が終わり、十六夜寮へ帰る。ちょっとした中庭があって、そこに名取を癒す彼女がいるのだ。

「ゴッフー」

 にやほむぐ。

 なにやら返事が篭っているのは口に何か咥えているかららしい。

 ゴッちゃんとかゴッさんとか呼ばれているが、黒猫の彼女の実相を寮長さんに伺う所によれば、「ゴッドファーザー」の略らしい。今は丸くなったが、それはシマが平穏だからに過ぎないんだとか。猫の世界にも色々ある。

 名取の足下にぺしと咥えていたものを落とす。親愛なる証拠に、狩りの成果を見せてくれるようだ。

 どれどれ。三センチ程の……。

 ……棒状の長い胴体、腹部に七対の細長い足と、背部に突き出た二列の棘が特徴的な、トゲトゲした外見の生物……。

 ハルキゲニア?!

 そんなわけがない。ここが南半球の多雨林の林床であれば、或は有爪類のペリパトゥスかもと思うかもしれない。でもここは日本なのだ。

 ハルキゲニアは古生代カンブリア紀に地球の海で生息していた、バージェス動物群に属する生物だ。名前は「幻覚」から由来する。

 なら僕は幻覚を見ているのか?

 ふにゃあとあくびをすると、ゴッフはハルキゲニアらしきものをバリバリとあっさり噛み砕いてしまった。

 

 ノックの音がした。

 明らかにおかしい。

 名取は今、市民局に通勤するための市バスの出口付近に陣取っている。

 そもそも、走行中のバスに誰がノックするというのか。

 ノックの音がした。

 やはり扉を叩いている。

 扉を見る。内側から外に向かって凹んでいる。亀裂も生じている。これはノックではないのかもしれない。

 

 生活安全課の仕事として、独居老人宅を訪ねるのが名取の仕事だ。古い町並みにある家々は水路に面していて、そこで野菜の泥なんかも洗ったり今でも行われている。

 その水路の一角に……長く伸びた鼻から捕獲糸をたらして水中に吊り下げているハツカネズミ大の生き物の一群がいた。狙っているのはドジョウ科のモロモロらしい。

 あ、釣れた。

 小型のモロモロを、極端に長い舌で鼻先に引っ付いたモロモロを舐めとっている。

 ハナススリハナアルキ。ツツハナアルキ科の鼻行類だ。しかし、彼らは一九五七年に秘密裏に行われた核実験により、ハイダダイフィ島とともに絶滅したはずでは……。

 

「ノックの音がするんです」

 市民局保健管理室。

 開口一番、名取はそう告げた。

「ふーん、それで?」

 担当の真霧間キリコがボールペンを鼻に挟んでいる。忍耐。忍耐。

「最初、ノックの音かと思ったんだけど、最近ノックの直後に怪しげな生き物を見るようになって……これはノックじゃなくてもしかしたら、殻を破く音なんかじゃないか、次元という名の殻をって」

 ハルキゲニアもハナススリアルキもこの世にいるわけがない生物なのだ。たどり着いた結論がこれだった。次元の穴。

「ああ、街かどの穴理論。あなたに見せたことあったわねー」

 あっさり説明すれば、同じ場所で同時に多数の天体が位相的に重なり合って層を形作っているというもの。薄皮一枚破けば別次元という理論だ。

「単なる物音に敏感なだけかもよ。ノックの音、ノックの音。さしずめノッキングフォビアとでも名付けましょうか」

「いや、ノックが気になっているわけじゃなくって、付随してくるものが……」

 もしゴッフが咥えていたものが、ノックという打突の後に生じた結果だとしたら。

「うし。入ってますでもいい。なんでもいいから否定すること」

「否定?」

「そう、ここはあんたの次元じゃないって教えてやんのよ」

「それで済まなかったら?」

「へーん。あたしは誰だっけ?」

 真霧間キリコに出来るなら頼りたくない。効き過ぎる薬は毒だから。

「何か言った、新人くん?」

「アラトです。新人と呼ばないでください」

 

 それからというもの、あらゆるものを否定してしてしまくった。

 曰く、ただ今入ってます。

 曰く、現在立て込み中です。

 曰く、いいえ、新聞なら間に合ってます。

 曰く、ピザは注文していません。

 曰く、うちにはテレビがありません。

 曰く、無宗教ですので関心ありません。

 曰く、いいえ、僕はモルダーではありません。

 時折、本当の訪問者を追い返すことになったが、結局同じことをしていただろうから特に問題はなし。矢縞には用事があるならノックじゃなくメールにしろと言ってある。

 

 夜半。

 ノックの音がした。

 もはやこれは単なるノックではない。霧生ヶ谷市そのものをノックする音だ。

 トントン、と軽やかではあっても、鼓膜をつんざくような打突音である。

 地震ではないので地面が揺れるわけではない。ただ、霧生ヶ谷市の次元層に後始末のつけようのない亀裂が生じようとしている。

 名取は叫んだ。

「ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるふ るるいえ うが=なぐる ふたぐん!

 復活すべき星辰は未だに揃わず、深海の主よ、あるいはその眷属どもよ。時が来るまで夢を見て過ごしてください。おやすみなさい!」

 上空からもノックの音がした。

 亀裂から赤く燃え盛る炎の爆ぜる色が見え隠れする。昼間のように空が明るい。

「ふんぐるい むぐるうなふ くとぅぐあ ふぉまるはうと んがあ・ぐあ なふるたぐん いあ! くとぅぐあ!

 あのノックは気のせいです。別次元をノックする音なんです。倒すべき相手ははこの世界にはいません。他を当たってください!」

 

 翌朝、通勤前の名取の前にゴッフがぺちと落としたのは普通の殿様バッタだった。

 別次元の霧生ヶ谷市がどんな運命になったか名取は想像しないことにした。

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