躑躅の香(つつじのか)

縁日

躑躅の香(つつじのか)

幼い頃の思い出というのは、あまりに脆く、儚いものです。

加速する日々の只中で、その記憶はどんどん磨耗し、砕け、新しい記憶に取って代わられます。

それらの素晴らしい思い出の断片は、唯の事象の羅列になったり、あるいは心の奥深くに眠って、二度と目を覚まさないかもしれません。「初めて海を見た。」、「朝顔の花が咲いた。」といったモノクロの一行詩が、あなたの心の片隅にも、ひっそりと書き留めてあるのではないでしょうか。


人間の脳とは面白いもので、楽しい記憶より、辛い記憶、失敗した記憶といった負の記憶が残りやすいと言われています。

しかし、時にその負の記憶を押しのけて、ふとしたきっかけで記憶が鮮烈に蘇ることもあります。

色、音、匂い。

それらは記憶の鍵となって、私たちの思い出の原風景を呼び戻すのです。


ある夏の日の話です。

幼稚園の、それも年少の頃だったでしょうか。

あの頃、私は「初めて」恋をしました。

相手の顔も名前も覚えていませんが、とても大きな黒い目をした女の子でした。

その黒曜のような目が私をじっと覗き込むように話掛けてくるので、私はどうにもくすぐったいような感じがして、いつも目を逸らしていました。

親の仕事の都合なのか、なんとなしなのか、他にも友達はいたものの、私たちは放課後の幼稚園でよく二人で遊びました。


私の居た幼稚園は、郊外の住宅地の近くに面しており、とても「綺麗」とは言い難い見た目でした。

幼稚舎の壁の白い塗装は所々剥がれ落ち、粗目のコンクリートが顔を覗かせています。その剥き出しになった部分に、毎日油蟬が止まっては夏と生命の脈動を叫んでいました。

側の花壇には躑躅(つつじ)の花が植えられていました。毒毒しいほどのピンク色と、稀に白い花も混じっていました。


その日も、私は彼女と一緒に、閑散となった午後の幼稚園を探検していました。

彼女は、徐ろにその花の一つを千切り、花の裏の部分を咥えました。

私が彼女の乱暴とも言える挙動にぎょっとしていると、彼女は花の蜜が吸えるのよ、と言いました。

花を千切り、恐る恐る吸ってみると、仄かに甘い香りが口の中に広がります。

あらゆることが「初めて」で、そのどれもが素晴らしいものに思えていた幼い私は、その「初めて」にも大きな興奮を覚えました。

当時の私たちはその花が躑躅であることも知らず、彼女は躑躅を「蜜の花」と呼んでいました。

彼女曰く、「白い蜜の花」の方が甘くお気に入りらしく、たまに見つけては進んで口に含んでいました。倣って白い花を吸うと、なんだか本当に一層甘いような気がしました。


油蟬がますます夏の到来を騒ぎ立て、木陰に映る木漏れ日の静寂に反射していました。

目に見える全てのものが、輝いて見えました。


それから何日か経って、休日の市民プールで彼女を見かけました。

お互いの親が挨拶をして、からかい半分で、お前はこの娘が好きなのかと、茶化します。

黒い目がこちらを見ています。私はいつにも増して恥ずかしく、こんな娘嫌いだ、とそっぽを向きました。親たちは笑っていました。私は彼女の顔を見れませんでした。


私たちは純粋でした。

目に見えるものが、全てでした。

言葉が、全てでした。


私は彼女に、「初めて」嘘を吐きました。



それ以来、彼女と二人で遊ぶことはなくなりました。次の年、私は親の転勤で引っ越すことになり、いよいよ彼女ときちんと話すこともないままでした。


気づけば、目まぐるしく周る日常の中にいました。闘争、疲弊、鬱屈、焦燥、懐疑。それらの感情が私の中で立ち昇り、渦巻いて、私は子供でいられる場所から追い出されるような形で、大人になりました。


いつからか、忘れてしまいました。


就職を機に新居に引っ越した際、近くの公園に躑躅が咲いていました。その側を通った時、あの甘い香りが鼻腔をくすぐりました。くすぐったような気がして、思い出しました。初夏の日差しに、目が痛いほどのピンク。白い花は見当たりません。


夜中にこっそりとその花を一つ摘んで、口に含んでみました。

あの時の甘い香りは、もうしませんでした。


今の私も、きっと彼女も、言葉が全てではなくて、目に見えるものが全てではありません。

これからの人生で、どれだけ覚えることができて、憶えていることができて、忘れないことができるのでしょうか。


加速する日々の只中で、どうか忘れないでください。忘れたくないものを。



また、夏が来ます。


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躑躅の香(つつじのか) 縁日 @aq114514

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