白淳の章
往日(1)
仏は常にいませども 現ならぬぞあわれなる
人の音せぬ暁に ほのかに夢に見え給ふ
(梁塵秘抄)
――――――――――
哀れな子だ、と最初は思った。
甲高い幼女の声が楽しげに響き渡っている。気ままに空を翔けていた白淳は、おや、とその声に耳を傾けた。
元来より子供好きな彼である、気まぐれに彼は地上へ降り立った。
都よりは少し外れたところに建つ屋敷、その庭先で少女が一人遊んでいた。辺りは薄暗く、屋敷からは夕餉の支度をする煙が見える。夕餉が出来るまでの戯れであろう、少し屋敷から離れた木陰にて、彼女は謡いながら楽しげに鞠をついていた。
それが幼少の八重である。
幼き八重が謡っていたのは、
「遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、
遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ。
舞え舞え
馬の子や牛の子に蹴させてん、踏破せてん、
真に美しく舞うたらば、華の園まで遊ばせん」
白淳はその様子を影からほほえましく眺めていた。人の姿になって共に遊びに
とはいえ辺りには害をなすものも居らず、彼の心配は
しかし。
次第に暗さが増す夕刻の時間に、屋敷の灯りに惹かれた蛾などが集まってきたのだろう、羽虫の類が八重の周囲にまとわりついたらしかった。鞠つきを邪魔された八重は、怒ってそれらを振り払おうとする。
しかし、それらはしきりに辺りを飛び交い八重の注意をそらした。何しろ数も多い。憤った八重はためしに鞠もぶつけてみたが、羽虫は構わず宙を舞うばかりだ。
いきり立った八重は高い声で叫ぶ。
「ばかばかばかばかばかばか。みんなどっかいっちゃえ。羽なんかちぎれちゃえ!」
途端である。
八重の辺りにまとわりついていた数羽の羽虫は、その羽を無惨に散らして地に落ちた。
そればかりではない。白淳の周囲を煩く飛び回っていた羽虫までもが、瞬時にしてその羽と命を失ったのである。
どうやら八重の声が届いた範囲の羽虫は
呆気にとられた八重は、暫くその蛾の死骸を見つめていたが、やがて顔を歪ませると弾けたように泣き出した。
白淳は暫し逡巡してから、その身を持ち上げる。
「悲しいのかい?」
白淳はヒトの姿になって彼女の前に現れた。
べそをかいたまま八重は顔を上げた。突如現れた白淳に驚き、目を丸くしながらも八重は素直に答える。
「うん。みんな動かなくなっちゃった。あたしは、ただ、むこうにいってもらいたかっただけなのに」
「怖いんだね」
答えず、八重は再び大きな目から涙をこぼす。声は堪えていたが、暫く涙は止みそうになかった。白淳は泣きじゃくる彼女をあやし、界隈で聞き覚えていた今様を口ずさんだ。
「仏は常にいませども、現ならぬぞあわれなる、人の音せぬ暁に、ほのかに夢に見え給ふ……」
静かな白淳の声に、次第に八重は落ち着きを取り戻していった。
泣くのを止めた八重に微笑むと、白淳は大きな手で優しく八重の頭を撫でた。
「ねえ。前にも、こんなことはあったのかい?」
少し緊張しながら白淳は八重に尋ねた。ぴくりと八重は身じろぎする。
「やえが物をいうと、ときどき本当になってしまうの。
母さまや父さまは知らないけど、兄さまは見たことがある。ことだま、っていうのだって。こういうふうに本当になってしまうことがあるから、あんまり悪いことを言ってはいけないって言われたの。
だけど、そのあとも何度もおなじことがあったの。兄さまの言ってたぐうぜんじゃ、なかった。母さま、父さまや兄さまみたいな人や、お天道さまは言ってもへいきだったのだけれど、虫や魚はときどき本当になってしまうの」
弁解するように、八重は必死な眼差しで白淳を見上げた。
「だけど、だけど、あたしをいじめたから。だから、言ってしまったの。言うつもりなんか、なかったのに」
また泣きそうになった八重を白淳は優しく抱きしめた。
「大丈夫、誰もそんなことは思ってはいないよ。きみは優しい子だ。そんなつもりが無いことぐらい分かっているよ。
ただ、その力は怖い。ぼくは心配なんだ。きみのその力の所為で、他の誰かが……きみの大切な人をも傷つけてしまうかも知れない」
八重は恐怖で口を固く引き結んだ後、しかし瞳を大きく見開いてきっぱりと否定する。
「あたし、そんなことしない」
言い聞かせるように白淳はゆっくりと首を振った。
「しない、と思っていても、してしまうことはある。さっきだって、したいと思ってやったわけではないだろう。絶対にということは世の中にはあり得ない。きみがそう望んでいなくても、その影響で傷つけてしまうことだってあるんだよ。
ぼくは、すこぅし不思議な力が使えるんだ。ぼくならば、きみの言霊の力を封じ込めることが出来る」
「ふうじこめる?」
八重は首を傾げた。白淳は微笑んで言う。
「もう、きみが何を言っても言霊は悪さをしない。今みたいな怖い思いはしなくて済むんだ。きみが望むのならば、ぼくはきみの怖い力をなくしてあげるよ」
それを聞くと八重はぱっと笑顔になり、頷いて頼んだ。
「うん、ならそうして。あたし、兄さまがきずつくのは、とてもとてもいやだもの」
白淳は微笑むと、しゃがんで八重の額にその手の平をかざした。目を閉じて八重はじっと待っている。
やがて白淳は手を離すと、もう大丈夫、と言って立ち上がった。
「これでもう平気だよ。何も心配しなくて良い」
「本当に? ありがとう、お兄ちゃん!」
先ほどとはうって変わって元気になると、八重はお辞儀をし、満面の笑みで落としていた鞠を手に取った。
「どうもありがとう、これでもう怖くないよ。みんなもきずつくことがないし、ずっと安心してあそべるもの」
そう言ってまた八重は鞠をつこうとする。
が、その時。屋敷の方から少年の声がした。
「八重、外はもう暗いよ。戻っておいで」
八重は目を輝かせてそちらに向き直る。
「兄さまっ!」
危なっかしい足取りで八重は呼ばれた方へ駆けていく。
途中、八重は白淳を振り返り、大きく手を振った。白淳は手を振り替えして彼女を見送る。
兄の元に辿り着いた八重は、兄に嬉しそうに抱きついた。兄の方も笑顔で八重を迎える。
「八重、何をして遊んでいたんだい?」
「あのね、まりをついていたの。それからやさしいお兄ちゃんとお話をしたよ。千彰兄さま、中に入ってごはんをたべよう」
白淳はそっと姿を消した。
彼の背後からは楽しげな兄妹の談笑が聞こえる。そのうち、父母の声も交じって、少女は一際嬉しそうな笑い声をあげるのだった。
温かい家族の声を聞きながら、白淳は茂みで龍の姿に戻ると、静かに闇の広がる空へ飛び立った。
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