闇の胎内

 はっと千瞑は目を開ける。

 一瞬、気を失っていたようだった。頭を振り、気を取り直す。


 辺りは暗い。それもその筈、彼がいるのは物の怪の胎内だ。

 飲み込まれた闇の中で、千瞑はもがいた。体中を物の怪に包み込まれ、全身に鳥肌が立つ。気持ちの悪い感覚が全身を包んでいた。

 酷い異臭が立ちこめ、ぬめった体内は呼吸を困難にさせる。弾力があるので抵抗するのもままならない。


『抵抗するか、異形の子』


 脳裏に、物の怪のおぞましい声が響く。声、と形容するにもそれはどこか歪で、不協和音が偶々たまたま人の言葉をしていると考えた方が、幾分納得のいく音であった。


「黙れ。貴様等如きに喰われるおれではない」


 叫んで、千瞑は更にもがいた。

 視界は無かった。上下も分からない闇の中で、千瞑を飲み込んだ物の怪の声がどこからするのかも判然としない。飲み込まれたのだから、それは当たり前なのかも知れなかったが。


『哀れなことだ。天狗に成れず、かといってヒトにも戻れず、哀れで愚かな異形の子が』

「笑止。芯から化け物の貴様等に言われる筋合いはない」


 千瞑は外へ出ようと、闇雲に手に握った懐剣を振り回した。その姿をせせら笑うような口調で物の怪は言う。


『貴様は、我々に対抗する力など何も持たぬ。ヒトではないが、天狗でもなく、狭間に堕ちた貴様は精々小さな鴉となってそこらを飛び回ることしか能がないのだ。

 だから常にヒトの道具を携帯するのだろう。愚かで弱いヒトが、同族を殺す為に使う道具を』


 千瞑も嘲笑して、懐剣を振るい続けた。


「果たしてそれはどうかな。愚かで弱いヒトが貴様ら闇の住人を滅ぼす時も近いかも知れんぞ。ヒトは貴様らと違い、常に進み続ける。貴様は八重には適わない」


 全身にまとわりつく闇が、千瞑へじわじわと浸食してくるのが分かる。中からは簡単に打ち破れそうになかった。


『それこそ、時に見捨てられた異形である貴様が何を言うか。

 棲む場所を追われ居場所を亡くし、時代からも見放されて彷徨う貴様に、我々もヒトも理解は出来まい。

 あの娘は既に助からぬ。自ら呼び出した闇に喰われるのも時間の問題であろうよ。あれは手に負えん。いずれ自ずから滅びるのを待つのみよ』


 物の怪は空間を振るわせた。笑っているのだ、と気付き、千瞑は一層気分が悪くなる。


『案ずるな。娘の力は、俺たちが喰う』


 激昂して千瞑は叫び、懐剣を大きく縦に振るう。


巫山戯ふざけるな。八重は貴様らなどに喰わせない。あいつは、おれの……!」


 言いかけた時、闇の中が奇妙にねじれた。

 何事かと思う間もなく、闇は弾け、千瞑はその目に暗い夜空を映した。

 耳元でこの世のものではない悲鳴が響き、千瞑は怯む。あの嫌な感覚は次第に抜け、代わりに冷たい外気が千瞑を刺した。


 白龍が、千瞑を飲み込んだ物の怪を食い破っていた。

 やがて完全に物の怪の体内から抜け出した千瞑は、地面へ転がり落ちる。それを見届けると、容赦なく白龍は物の怪を噛み砕いた。


「くら坊。大事ないかい?」


 ヒトの姿に戻り、白淳は地に伏したままの千瞑に手をさしのべた。その手を取らず、千瞑は問いかける。


「おれのことなんかどうでもいい。八重はどうした」

「八重は暫く平気だ。鳥部野の奴らとはいえ八重の力の方が強いから、むしろ八重自身は安全だよ、今のところはね。どちらかというと、きみの方が重傷だ」


 言われて初めて、千瞑は全身に傷を負った自分に気がついた。それと分かった途端に鈍痛が彼を襲ったが、構わず千瞑は立ち上がる。

 寺の境内にいた物の怪は既に姿を消していた。おそらく白淳が既にそれらを一掃してしまったのであろう。だが、本堂には八重を狙った闇のものがまだうごめいているはずだった。

 千瞑は顔の血を拭い、抑揚のない声で呟く。


「別におれは貴様に助けられる謂れなど無い」

「あるさ。八重の兄だ。それに、きみを助けるのは八重の望みでもある。きみなら泣き叫ぶ八重を放っておけるかい」


 さらりと言った白淳の言葉に、驚いたように顔を上げて彼を見遣ってから、睨むようにして千瞑は唸る。


「貴様、気付いていたな」

「少しだけね。だけれども、確かにそうだろうと当たりを付けたのはつい今し方だよ」


 白淳もまた八重の言葉が聞こえていたのだろう。あの時八重は、物の怪に飲み込まれた千瞑にも届くほどの声で叫んでいたのだから。


「本当にぼくが最初から気付いていたなら、こんな思いはせずに済んだはずだろう。八重だって苦しまずにいられた。なにせ、くら坊も八重も互いに初対面そのものだったから」

「そうかな。そうだったのかも知れない」


 少し考えて、千瞑は微笑する。

 思えば出逢った時に、命を助けたとはいえ彼は八重を排斥しようとしていたのだ。もしもあの時白淳がいなければ、今頃どうなっていたか知れない。お互いに気付く事もなく、八重は望みを叶える事もなく。

 刹那、思いをよぎらせた後で真顔に戻ると、千瞑は真っ直ぐに白淳を見据えた。


「白淳。おれは、昔のこと──ヒトであった時の事は捨てた、おれにはいらないものだ、とお前に言っていたな」

「ああ、そうだね」

「あれは厳密には正確ではない。ただ単に、おれは全部記憶を失っていたんだ。ヒトでなくなった時から」

「そうだろうと思っていたよ」


 白淳は静かに微笑んだ。

 唇を噛んで千瞑は低い声で呟く。


「ようやく、思い出した」


 あれは、おれの妹だ。

 誰に言うとでもなく洩らすと、千瞑は拳を握りしめる。


「飲み込まれそうになった時、あいつの声がしたんだ。

 千彰兄さま、と。

 あれは、おれがヒトだった頃の名。そして、八重はおれの妹だ」


 自分に言い聞かせるように繰り返すと、千瞑は自分自身の手の平を見つめた。その手は八重と大して変わらぬ大きさで、そして『千彰』が十四であった時と何ら変わりはない。

 時に見放されてしまったあの日、天狗になり損なったその時から、千瞑の体の成長は止まったままだ。


「未だに……八重の目は、六つの時から変わっていない」


 顔を上げ、千瞑は静かに言う。


「八重が分からなかったのも無理はない。おれは人間の頃から、外見まで昔とすっかり変わってしまったから。

 否、人間の面影が残る一部はおぞましいまでに変わらなさ過ぎたが。

 それでも、八重はおれを思い出してくれた。おれは自分も過去も、すっかり見失ってしまっていたのに」


 白淳は黙ってその言葉を聞いていた。

 千瞑は視線を手の平から外し、八重のいる本堂を振り返る。


「今度は、おれの番だ」


 呟き、千瞑はそのまま踵を返して駆け出そうとした。

 が、白淳に肩をつかまれ、それを阻まれる。


「止めるな、白淳。八重を止めなければ、あいつが危ない。いずれ弱ってくれば、八重はあいつらに喰われてしまう」


 千瞑は白淳の手を振り払おうと身をよじった。しかし白淳はその手を離そうとはしない。射抜くような眼差しでもって千瞑を見つめると、白淳は落ち着いた声で諭す。


「八重の力はね、きみも言っていたように尋常じゃない。並大抵のことでは八重を止めることなんて出来ないんだ」

「だったらどうした。妹の不始末を片づけるのも兄の仕事だろう。貴様が何を言おうとおれは行く」


 苛立って千瞑は声を荒げた。

 しかし構わず、白淳は抑えた声色で告げる。


「くら坊、覚えていないのか。

 幼少の八重は力は小さかったが、確かにまだ言霊の力が使えたはずだ」

「……お前、何故それを」


 突然の台詞に面食らって千瞑は言葉を詰まらせた。訝しみつつも千瞑は昔の出来事を思い出しながら答えり。


「確かに、以前橋で犬に追い立てられたときに、八重が犬にその力を使ってしまったことがあった。八重の拒絶で、犬は橋から落ちた。

 だが、おれが見たのはその一度きりだ。その後は変わったことは何もなかった。八重だってそう言っていたんだ」

「当然だ。ぼくが八重の力を封じ込めたのだから」


 いよいよ千瞑は大きく目を見開く。


「……それでか。お前がしきりに何かを隠していた様子だったのは」


 白淳は首肯する。


「あの時はまだ、くら坊が兄だとは知らなかったからね。言えばくら坊が八重をどうするか分からなかったから。それに一度封じ込めた力だ、簡単には発現しないだろうと高を括っていたんだ。だけどそうじゃなかった。

 普段は確かに言霊の力は封じられているよ。しかし八重が切羽詰まった時、理性を無くした時に言霊の力は表に出てきてしまう。

 ……例えば、憎い平家を目の当たりにした時に、ね」


 本堂の方を見遣って白淳は苦々しげに言う。


「今、八重を支配しているのは、平家への憎しみだ。

 その憎しみが絶望へと変わってしまった時、八重は負ける。きっと自分で呼び出した闇に飲まれてしまうだろう。

 そして八重の憎しみが絶望に変わるのはそう遠くない。もうすぐ八重も記憶を取り戻す」


 その言葉に千瞑ははっとした。経正の話を思い出したのだ。

 八重の家は平家を恨む女に焼かれた。

 そして。


「そうだ、平家……!

 おれがいない間、……父上と母上が亡くなった時に、一体何があったんだ。八重は何故あそこまで平家を憎む?」


 右手の拳を握りしめ、千瞑はその手を額に打ち付けた。


「おれたちは、平家だ! ここまで平家を憎みきるほどの何があった!」


 黙って白淳は千瞑を見る。知っていたのかいないのか、その言葉を聞いてもさして動揺はしていなかった。

 白淳のことである、彼もまた界隈でその話を聞いていたに違いなかった。


「分からない。八重もまた、記憶が混乱している。あんな事があったのだ。無理はないが、真実は八重に聞いてみないとなんとも言えないだろう。

 だが、八重がちゃんと記憶を取り戻した時、きっと八重は苦しむ。憎みきってきた平家が自分だと知った時、その憎しみは絶望に変わるだろう。

 そうした時に八重の呼んだ闇が牙をむくだろうというのは想像に難くない」


 憂いをたたえた白淳の横顔を眺め、千瞑は唇を引き結んだ。静かな声で、彼は再びその意志を口にする。


「だったら、尚更だ。八重を止めてやらねばならない」


 白淳はため息をつくと、両手を千瞑に向けて差し出した。闇の充満した場所へ突如生まれた光に、千瞑は怯んで目を閉じる。

 その後で慌てて目を開いた千瞑は、自分の周りに結界が張られているのを悟った。人を寄せ付けぬように白淳が山の周りに張っていたものと同じである。

 ただし、これは千瞑の周りを覆うだけであったので随分と規模が小さかったのと、千瞑もまた結界に阻まれて身動きが取れなくなってしまう点を除けば、であるが。


「どういうつもりだ、貴様!」


 両の拳を結界に叩き付けて千瞑は叫んだ。白淳は千瞑へ冷徹ともいえる眼差しを投げかける。


「どうやら上手く伝わらなかったようだね。

 くら坊は行ってはいけない。

 はっきり言おう。きみが行っても死ぬだけだ。さっきの物の怪にだってくら坊は殺されかけていた」

「それがなんだというのだ。少しでも八重を助けるきっかけが出来るのだったら、おれは命なんかいらない。今まであいつを苦しめてきた報いだ。

 あいつが大変だった時におれは側にいてやれなかった。全てを忘れてのうのうと過ごしていたんだ。今、八重を助けなくて何になる。

 元々、八重を守る為に堕ちたこの道だ、今更後悔なんてしない!」


 白淳は首を振った。だからいけない、と洩らしてから、彼は千瞑の瞳を覗き込んで静かに言い聞かせる。


「十年かかって、ようやく巡り会えたんだ。八重のここまでの苦労を無に帰すつもりかい?

 八重にはきみが、兄上が必要だ」


 言葉に詰まり、千瞑は戸惑うように視線を泳がせた。黙りこんだ千瞑を見て、彼は満足げに笑む。


「その結界があれば、仮にまた物の怪がやってきてもくら坊は大丈夫だ。ぼくがいなくなるまではね。八重はぼくが守るから、心配しなくて良い」


 千瞑は白淳をじっと見つめ、絞り出すようにして言う。


「白淳。……貴様は、大馬鹿野郎だ」

「うん、そうだろうね。知っている」


 白淳はそう言うと、何の懸念も無いかのように笑う。


「きっとくら坊が八重を思うのと似たり寄ったりさ」


 千瞑は結界を破ろうと、再度、拳を叩き付ける。まるで見えない堅固な壁がそこにあるかのように、結界はびくともしない。

 今まで白淳の結界に守られて彼は安穏と暮らしてきたのだ、その丈夫さは十分に分かっているはずだった。だからこそ、千瞑は八重がやってきた時に訝しんだのだ。並大抵では白淳の結界は破れない。

 しかし八重は、言霊の力で結界を打ち破った。

 無論、彼女が結界の存在に気付いていたとは考えにくい。普通の人間は結界を目にする事もないまま、惑わされているとも気付かずに麓をうろつくばかりであろう。

 おそらく、ただ彼女は純粋にこう願ったのだ。


『兄さまに会わせて』


 と。

 その願いはすぐに叶ったが、しかし双方が互いに互いを気付くには多くの時間が要り、結果として取り返しのつかない場所まで来てしまっていた。

 八重も千瞑も白淳も、ここから何の犠牲も無しにあの家へ戻る事は叶わない。


 自らの手の平に視線を落とし、白淳はぽつりと呟く。


「この一連の騒動は、あの時まだ小さかったうちに八重の力を完全に封じきれなかったぼくに責任がある。成長して八重は、あの時と比べものにならないほどの力をつけてしまった。

 八重を止められるのは、ぼくだけだ」


 結界に両手をつけ、千瞑は怒気を込めて白淳に言い放つ。


「馬鹿野郎。この期に及んでお前はまだ屁理屈をこねるのか。

 第一、言霊の力がなければとっくに八重は死んでいた。火事で焼けていたかも知れないし、そうでなくとも山には入れず、誰にも看取られることなく果てていたに違いないんだ。貴様に非などあるものか。

 だからおれは貴様が嫌いなんだ。……昔のおれに、そっくりだから」


 千瞑に背を向け、白淳は本堂の方へ向き直った。その背に向かって千瞑は尚も言葉を投げかける。


「人のためばかりに動くな。自分の身を滅ぼすぞ」

「今まさにそうしようとしている龍に、野暮なことだね」


 笑って、白淳は首を緩やかに振った。懐から紐を取り出して長い髪を結わえてから、白淳は付け加える。


「それにね、一つくら坊は大事なことを忘れている」


 振り返り、白淳はいつものように微笑んで告げる。


「八重だからぼくは助けるんだよ」


 そうして白淳は夜空に顔を向けながら白い龍の姿に戻ると、最後に千瞑に向かって一言、言い残す。


「それじゃあ、さよならだ千瞑。……ぼくの、一番の友よ」


 白淳は千瞑の言葉を待たずに空へ飛び立つ。ある程度の高さまで昇ってから、勢いをつけて本堂に向け飛んだ。

 微かに笑みを浮かべて、白淳は目を閉じながら呟く。


「……さあ、抑えきっておくれよ。ぼくの身体」

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