追憶

 今から、十年も前のこと。


 妹を探して家の裏手へ周ると、見知らぬ男が妹の手を取っていた。

 にこにこと無邪気に笑む妹の前で、山伏のなりをした長身の男が、うやうやしく膝を付いている。

 さらわれると思い、彼は声を上げかけた。が、その前に妹――八重は、街道に見知った顔を見つけたのか、男に手を振り駆け去っていく。

 残った男に肩を怒らせて近寄り、彼はじっと相手を睨め付ける。


「八重に何をした」

「まだ何もしていないさ。なぁんにも」


 軽い口調で言って立ち上がると、男は高い目線で少年を見下ろした。


「あの子娘の兄か。生憎だな。娘はいつかもらっていくぞ。

 稀にみる言霊の操り人だ。わしが嫁に迎えてやろう」

「させるか」


 彼は飛びかかるが、一蹴りも入れられぬうちに襟元をむんずと掴まれ宙に浮く。そのまま男の目線のところまで少年は持ち上げられた。


「諦めろ。お前のような童子わらしでは妹は守れんよ」

「童子じゃない。もうすぐ元服だ」

「ヒトの基準の『大人』が、一体何だというのだ」


 男はせせら笑った。


「武器を持たねばろくに戦えぬ。持ったところで碌に扱えぬ。扱えたところでいずれ死ぬ。

 まったく、人とは実にもろい」


 男の物言いに、少年の背にぞくりと寒気が走る。


「お前は、誰なんだ」

「儂か。儂の名は、万星まんせい


 ばさり、と音がして、風が吹く。

 思わず目を閉じ、再びまぶたを開けると、少年は唖然として口を開いた。

 男の背に生えていたのは、鴉のような漆黒の翼。


「……人攫いの、天狗!」

「攫ってはいないだろう。まだな」


 にやりと笑い、男――万星と名乗った天狗は、少年を地面に下ろした。一つ咳き込んでから、しかし彼は怯まずに万星を見上げる。


「物の怪に、妹をやるものか」

「言っておくがな。あの小娘に目をつけるのは、儂だけではないぞ。

 力が表出するのはどうやら抑えられているから、今のところは他の連中には気取られずにいるようだが。いずれは有象無象うぞうむぞうの物の怪にも気付かれる。こういう力は、年を経る毎に強くなってゆくものだ。

 そこら辺の怪に喰われる前に、儂が丁重にもらってやろうと言っているのだ。親切だろう」

「どこが」


 食って掛かった後で、少年ははたと気付き、唇を噛みしめる。


「……八重は。八重は、これから先も物の怪に狙われるのか」

「そうとも。それこそ、儂よりどれほど厄介か知れぬ。

 少なくとも、儂には小娘を害する気はないが、低能なあやつらは喰うことしか能がないからなぁ」


 ふうっと万星が息を吐き出すと、少年の耳元で何かがぐしゃりと潰れる音がした。驚いて、びくりと身をすくめる。振り返るが、そこには何も見えない。寄ってきた物の怪が、万星に潰された音なのかもしれなかった。

 しばらく無言のまま少年は立ちすくんでいた。だが、やがて意を決したように、彼はすっと顔を上げる。


「お前みたいな得体の知れない奴に八重はやれない。

 けど。……けど、物の怪に喰われるのだってごめんだ。

 どうすればいい。どうすれば、八重を助けられる?」

「ヒトに言われたところで、素直に手を引いて、素直に方策を教えるとでも思うのか。

 が。お前のような、甘っちょろくて向こう見ずな、まだヒトに染まりきっていない童子は、嫌いじゃない」


 今度は万星がしゃがみこんで少年と目線を合わせ、彼の胸元へ指を突きつける。


脆弱ぜいじゃくなヒトの身では何も出来まい。お前がヒトを捨てるのだ、小童」

「……ヒトを、捨てる」

「そうだ。ヒトを捨て、力を求めろ。お前自身が物の怪になれば、物の怪にも立ち向かえるだろうよ。その覚悟が果たして小童にあるのならばな」


 万星の提案に、彼は言葉を失う。俯いてしまった少年の返事を待つでもなく、万星は立ち上がった。漆黒の翼をしまいこみ、人の姿に戻ってから、万星は立ち去りざまに振り返る。


「その気になったら迎えに来よう。お前、名は何という」

「……千彰。千彰だ」


 唸るように告げた後。

 千彰は、拳を握りしめ顔を上げた。


「なる。なってやろうじゃないか。ヒトか物の怪か、などどうでもいい。それで守る力が手に入るのなら上等だろう」


 真っ直ぐ向けられた瞳を驚いて見返してから、万星はすっと目を細めた。


「……気に入った。小娘より面白いやもしれんな」


 くつくつと笑い、笠を被って万星は背を向ける。


「ならば三日後に迎えに来よう。それまでに別れを済ませておけ」

「おれは」


 言葉の途中で、千彰は勢い込んで尋ねる。


「おれは、天狗になるのか」

「それは、お前次第だ」


 ざあっと強い風が吹き、砂埃が舞う。

 千彰が目を開けた時には、既にそこには誰の姿もなかった。

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