鳥辺野

 酷く荒廃しきった庭とうち捨てられた古い寺とがある。千瞑が目覚めたのは、人気のないその寺の庭であった。

 頭を抱えながら身を起こすと、側には朽ちた卒塔婆そとばが落ちていた。

 そこだけではない。あちらこちらに崩れた石や卒塔婆が散らばっていた。見れば数多の石は墓であると判る。しかし墓石は崩れ朽ちており、石の下に眠る者達をとむらう人の姿は耐えて久しいようだった。

 千瞑は顔をしかめて呟く。


「ここは……鳥部野とりべの

「その通り。鳥部野、葬送地そうそうちだ」


 背後から、千瞑の推測を肯定する声がした。振り向けば、そこには人の姿に戻った白淳が立っている。八重はいない。

 千瞑は無表情で振り向いてから、半身後退した。


「……貴様、平気なのか」


 笑って白淳は答える。


「ああ、ぼくは大丈夫だよ。大分飛ばされたようだけれども、落ちたのがヒトのいないところで良かった」


 千瞑は平然とした素振りで自らの衣を整えつつ、白淳に問いかけたる。


「小娘はどこにいる」

「本堂にいる。ここに吹き飛ばされた衝撃で気を失ってしまったようだ。疲れただろうから今は静かに寝かしている」


 彼がそう答えた瞬間。

 千瞑は懐に忍ばせていた懐剣で、すっと白淳の胴を切り裂いた。白淳は驚いて数歩後ずさり、膝をつく。

 懐剣を一降りし、刃にヒトの血が滴っていないのを確認すると、千瞑は切っ先を白淳に向けたまま冷徹に言い放つ。


「成る程。白淳は確かに馬鹿だが、こんな場所で八重を置いて一人散歩と洒落込むとは、想像を絶した随分な大馬鹿野郎だな。

 人贔屓の根無し龍なら、何故八重の側にいてやらない。おれがヒトより多少丈夫なのは、重々承知の筈だろう」


 白淳は舌打ちして、にやりと、らしくない不気味な笑みを浮かべる。


「悟られたか」


 白淳の姿が歪み、彼のものから別の忌まわしい物の怪の姿へ変容していく。

 だが千瞑はそれを待たず、本堂へ走った。

 白淳に化けていた物の怪が本当のことを言っていたかどうかは分からないが、この辺りで見通しがきかない場所は寺の本堂だけであったからだ。一帯の墓場には何も見あたらない。


 本堂に辿り着くまでに、そこここで物の怪の類が姿を現し始めていた。だが今、千瞑がいるのは空ではなく陸である。彼の足はヒトや物の怪のそれよりも速かった。

 遠くに見えていた本堂にはや辿り着き、階段を二段飛ばしで駆け上がると、千瞑は本堂の扉を乱暴に蹴破る。


 一瞬、中が暗い所為で何も見えないのだと思った。今夜は月も星も雲に隠れ、完全な闇夜であったからだ。


 だがしかし、それは間違いだった。

 暗い所為ではなく、本当の意味での闇が本堂の中を支配していたのだ。

 千瞑は袖で口元を覆った。異臭が凄い。この世のものではないもの達が、本堂に充満しているのだと分かった。だが、先ほど外にいた物の怪とは違い、千瞑に襲いかかってこようとはしない。


 と、右手の方から白い影が千瞑の方へ向かってきた。千瞑は一瞬、身構えるが、すぐにその警戒を解く。今度こそ本物の白淳だった。

 白淳は千瞑の破った扉を塞ぐと、険しい表情で言う。


「……何故逃げない、くら坊。きみの足ならば鳥部野を抜けることも可能であったのに」

「貴様は馬鹿か」


 千瞑は白淳の腕を振り払って睨み付ける。


「いくら人嫌いを自称しても、おれはそこまでの奴じゃない。戯れ言も大概にしろ」


 白淳は安心したような不安なような、複雑な表情で頷く。


「そんな気がして心配だった。だがとにかく、きみが無事で何よりだ」


 言って白淳は扉に注意を向ける。

 それから本堂の中にある闇、正しくはその中心部分を見遣った。


「八重に近づけない」


 普段の彼とは違い、白淳ははっきり憔悴しょうすいした様子であった。歯痒そうに唇を噛み、彼は壁に拳をぶつける。


「八重はすっかり錯乱さくらんしている。

 ……悪い状況が重なった。自分自身が信用出来なくなった矢先に、はっきりと平家の攻撃が向けられたのだから」

「信用出来なくなった?」


 訝しげに千瞑は尋ねた。白淳は手短に説明する。


「八重が昨夜、鞍馬で出会った少年が、既に何年も前に鞍馬を去っていたということを知った。少年と会っていたのは八重一人だからそれを証明出来るものはいない。

 だから自分が一体何を見て何と話したのか、そんな経験をした自分自身に対して八重は疑念にかられている。

 ぼくはなんとなく理由が分かっている。だが今はそんな話をしている場合ではない」


 彼の言葉によくよく目をこらして見れば、闇の中心にいるのは八重だった。

 だが、周りの闇が八重を害する様子は見てとれない。むしろその闇が八重を守っているようにみえた。

 千瞑は首を傾げる。不可解だった。

 彼の様子に、白淳は簡単に経緯を語る。


「あの闇は八重が呼び出した。鳥部野に連れてこられて間もなく、物の怪に襲われた八重はそいつらと対抗するために、それよりもたちの悪い闇を呼び出してしまったんだ。ぼくが駆け付けた時には、もう遅かった。

 おそらく、物の怪を近付かせず自分を守ってくれる存在を、と願ったのだろう。ここは鳥部野だから、平生より更に悪い方向へ言霊の力が働いてしまったのだ。

 結果的にあいつらに都合の良い結果になってしまった。ここがどういう場所か、知っているだろう」


 千瞑は頷く。

 鳥部野は葬送地だ。生きている人間の滅多に近寄らない地である。

 墓があるのはまだ恵まれた死人である。風葬ふうそう鳥葬ちょうそう、そうして葬られる死人が累々るいるいと晒されている土地だった。どこかに冥府への入り口もあると聞く。

 その為であろう、この地には物の怪や霊の類が多く、鳥部野は普通の人間を寄せ付けない場所であった。


 つまるところ八重は、物の怪を払おうとして、その物の怪よりも更に強力である鳥部野に眠っていた闇を呼び出し、それらを自らの盾としてしまったのだ。


 これは厄介だ、と内心で千瞑は舌打ちした。

 まだ八重が自分を保てているうちはいい。しかし万一呼び出した本人の八重に何かあれば、呼び出された闇は暴走してしまうだろう。

 まずは一番近くにいる八重を襲い、続けて白淳と千瞑を。


 それだけならまだ良かったが、これだけの規模である。たかが三人で済むとも思えなかった。闇は鳥部野を抜け出し、京の人々を襲うであろう。

 おそらく真っ先にその標的となるのは、ここから近く人の多い六波羅。平家に限らず、大勢の人が被害を被る。


 そう考える一方で、千瞑は八重の言霊の力を肯定した白淳に驚きを覚えていた。

 あれほど頑なに否定していたにもかかわらず、先ほど白淳はこちらが拍子抜けするほど、あっさりと言ってのけたのだ。

 状況が状況である。そのような事を気にしている場合ではないのだろう。それに最早、どう考えても八重の言霊の力は隠せないところまで発現していた。偶然にしては都合が良すぎ、その力は強力すぎる。


「この鳥部野に棲む輩に、八重の言霊の力が知れたんだ。奴らの狙いは八重だ」


 千瞑の思考を読んだかのように、白淳は言った。無言で千瞑は促す。


「六波羅で八重が力を使った時、奴らは八重を見つけた。場所も悪かったんだ。六波羅はこの場所からほど近いから。

 そして僕と八重とを惑わして、鳥部野まで引き寄せた。

 ……って、八重の力を手に入れるつもりなのだろう」

「喰う、だと?」


 おぞましげに身を震わせ、千瞑は首を振る。


「馬鹿な。それで八重の言霊の力が、あいつらに宿るとでも?」

「分からない。しかし、神喰い、と呼ばれるものがあるだろう。神の一部を喰い、その力を得ようとするやつだ。あれと同じ要領なのかも知れない。

 だけどそんな事は関係ない。言霊の力が宿るにせよ宿らないにせよ、八重が危ない事に変わりはないのだから。躍起になって奴らは八重を狙ってくる」


 暗い影を湛えて、白淳は首を振った。


「ただ。もしも言霊の力が宿るのだとしたら、それは更に由々しき事態だ。何が起こるか、何をしでかすか分かったものじゃない。ぼくたちも京の都も、もしかするとこの国全体が危ないかも知れないんだ。人だの異形だの、そんなの問題じゃない。

 どうにかしようにも、物の怪と同じくぼくらも八重には近付けない。

 今、思案しているところだけれど、どうにも一筋縄ではいかないだろうね。追い払われた物の怪も一旦は退散したけれど、そのうちまた本堂まで戻ってくるだろう。そうするとそちらの方も厄介だ」


 話し終えると、再び白淳は八重に視線を走らせる。八重の様子はあまりよく見てとれなかったが、少なくとも無事ではいるようだった。


「……あの闇は、八重には無害なのか」


 千瞑の言葉に白淳は眉を寄せて首を振る。


「今のところは。だが、それも八重がまだ無事だからだ。今は八重を守っているあの闇も、やはり八重を喰らおうと狙っているに違いない。正直言えば、あちらの方が、物の怪よりも数段厄介だよ。

 物の怪ならばぼくが何とか出来る。けれどもあの闇は、ちょっとやそっとで退散してくれるしろものではないよ。この本堂から追い払ったところで、今度は都へ向かうだろう。どうにかしてこの鳥部野から出さずに闇を祓って仕舞わないと、結局は同じ事だ」


 遣る瀬無い表情を隠さずに白淳は八重のいる本堂の奥へ歩を進めた。しかしある場所からその先は闇が取り巻いて八重に近づくことが出来ない。

 千瞑も白淳の側に寄り、闇の中にいる八重を見遣った。


「八重! 無事なのか、八重!」


 千瞑は叫んだ。八重は答えない。闇の中で頭を抱えたままである。

 千瞑は舌打ちし、闇に背を向けた。

 

その時、不意に物が壊れる音がして、背面の扉ががらりと崩れた。外から物の怪が侵入してきたのだ。

 突然のことだった。警戒をしていなかった訳ではないが、物の怪の行動は想像以上に早かったのだ。

 物の怪は千瞑の腕を絡みとると、彼を自らの元へ引き寄せ捕らえた。黒々とした得体の知れないその物の怪の頭上には、口と思しき大きな穴が空いている。千瞑はその中へ誘われているのだった。


「くら坊!」


 白淳は手を伸ばす。

 しかし、間に入ってきたもう一体の物の怪に阻まれそれは適わない。白淳が物の怪を振り払っている間に、四肢を塞がれた千瞑は為す術もなく引きずられた。


 ふと、物の怪に飲み込まれる間際、千瞑の視界に八重が映った。

 八重は悲痛な表情でもって飲まれてゆく千瞑を眺めている。八重は今にも飲み込まれようとしている千瞑を見つめながら、何かを口にしようとしきりに唇を動かし喉元に手を当てていた。

 身を乗り出し、よじりながら、八重は心の奥底から何かを絞り出そうとしている。

 抵抗しながらも、ついに千瞑の体が全て物の怪の体内に飲まれてしまった時である。


「……千彰ちあき兄、さま」


 漸く出てきた八重の言葉は、死にかけた千瞑の瞳を見開かせた。

 刹那せつな、千瞑は物の怪に飲み込まれる。


「千彰兄さまーっ!」


 八重は絶叫した。

 その周りで、八重の呼び出した闇の者達は更に数を増していった。

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