疑念

 眼下には雲が広がっていた。

 それでも雲の途切れた隙間から下界の灯りは微かにこちらまで届き、幾度か通った道すがら、明るさから場所はどことなく知れる。だから八重にはそこが六波羅だと分かった。

 寒さに身を縮めながら、うつろな眼で八重はそれを見遣った。遙か上空からでは六波羅の様子など到底伺い知ることは出来なかったが、その灯りを眺めるだけで胸に気持ちの悪い何かがこみ上げ、吐き気がした。


「……白淳」


 白龍は八重の言葉が聞こえなかったことにした。白龍の背で、八重は彼の速度が先ほどよりも上がったのを感じた。


「平家、……六波羅、……兄さま」


 呟いて、八重は次第に語気を強めていく。


「そうよ。兄さまが見つからないのも、あいつらの所為。

 何もかも、何もかもが全部。全部あいつらが。平家がいなければ、私の兄さまは天狗になんか成らなくて済んだんだ!」


 白淳はその声に危惧し、一層速度を速めた。八重は既に叫ぶようにして呪いの言葉を吐き続ける。


「全部、全部、全部全部あいつらが悪いのよ! 滅びてしまえばいい。

 平家なんて、平家なんて滅んでしまえばいいんだ!

 ねぇ白淳、降りて! 六波羅に降りて、白淳!」


 言った瞬間だった。

 がくり、と白淳の躯がよろめき、そのまま均衡を失った白淳は勢いよく下降する。八重は悲鳴を上げた。

 八重は白淳から引き離されそうになるのを、必死にしがみついて耐える。

 何者かに引っ張られるようにして下降していく様は、むしろ落下しているといった方が正しかった。


「白淳!」


 八重は叫んだ。しかしそれが止まることはない。

 自由が効かないようであり、抗っても地が迫る速度は驚くほど早い。見つからぬように用心して白淳は随分と上空を飛んでいたのに、既に眼下には家々が見えていた。


「人がいる。ねぇお願い緩めて、堪えて白淳!」


 その言葉通り、地上では空から落ちてくる龍を見つけた人々がしきりに騒ぎ立てていた。


「龍だ!」

「龍が降りてくる! 落ちるぞ!」


 彼らは蜘蛛の子を散らすように逃げまどっている。

 八重は万が一を思って思わず目を閉じたが、幸いすんでの所で白淳は体勢を持ち直した。しかし地面への激突は免れたものの、人々の喧噪は止まない。

 当たり前だ、このような人前に龍が出てきたのである。しかもそこは六波羅、平家の集う都である。


 もがきながら白淳は上空へあがろうとしたが、しかし思うように躯は動かないようであった。上では龍がのたうち惑い、下では恐怖におののいた人々がそこここで騒ぎ立てている。悪いことに、早くも郎党が次々に集ってきていた。


「龍に手を出すな、祟られるぞ!」


 誰かの声がそれを制止した。

 一方で別の者が焦った調子で叫ぶ。


「だが、このままでは六波羅がやられる!」


 龍に手を出すことへの恐怖と、龍が襲って来るという恐怖の狭間で兵は悩んでいた。しかし、この騒動の中でも平静さを保っていた郎党は一声大きく叫んだ。


「構わん、滅ぼされるのを見過ごすなら同じ事だ! 六波羅殿に龍如きの呪いは効かぬ!」



 ――龍如きとは大きく出たものね。



 八重は冷ややかな思いでそれを見下ろした。

 それまではどうしたものかと焦燥していたというのに、今や八重の心は驚くほど冷え切り、どこか尊大な心持ちで嘲笑う。



 ──私の龍にかなう者などいない。



 ふと、そんな言葉を浮かべて。すぐ後で、八重は青ざめた。今度はみるみる体が冷えていくのを感じる。

 白淳は大切な友人であり八重の味方である。それをまるで自分の所有物であるかのように思うとは、と八重は自分に潜んだ残酷さに身震いした。



 ――私は、六波羅を滅ぼす気もあの人達を殺す気もない。ただ今の私の願いは、白淳と一緒に家に帰る事。それだけだ。



 自分に言い聞かせ、八重は自分を落ち着かせようとした。

 八重は最初から、平家をどうこうする気はなかった。兄を見つけられればそれで良かったはずなのだ。なのに。



 ──何をしているのだろう、私は。



 白淳や千瞑の手助けを借りられたからこそ、八重は生き延びて兄を探す事も出来ているというのに、驕り思い上がって自らを過信するなど、まるで平家と一緒だった。

 力に頼り感情にまかせて行動し、挙げ句暴走する。これでは平家と変わらない、欲望のままに動くあの人達のようにはなりたくない、と八重は首を振る。


 そして八重は。

 やおら、昨夜の出来事を思い出してしまった。


 崩れる瓦礫、埋もれて事切れた平家の郎党。

 そして、その引き金となったのは。

 八重の記憶の中で、直前に自分が叫んだ言葉が木霊する。


『瓦礫に埋もれて、死んでしまえ!』


 確かに自分が発した筈のその言葉に、八重は気が遠くなる思いがした。いつかのようにまた意識を手放しそうになったが、どうにか踏みとどまる。


 そこへ騒ぎを聞きつけた千瞑が雑踏から姿を現した。この騒ぎと、闇に紛れる漆黒の色が助けて彼の姿に気づく者は少ない。だがそれでも何人か彼の異様な姿に気づいた者は、新たな恐怖に叫び声を挙げ逃げまどうのだった。

 人々の声に歯噛みしたとき、千瞑は民衆から不穏な言葉を聞いた。


「待て、龍の背に女がいるぞ!」

「あれだ、あの女を狙え! あの女が龍を操っているのだ!」


 千瞑は舌打ちして八重と白淳の近くへ行こうとした。しかし人々が集った所為で思うように前に進むことが出来ない。

 飛べば、ただでさえ上手く飛ぶことの出来ない千瞑である。八重より先に自分が殺されるだろうとは容易に想像出来た。

 千瞑が逡巡するうちに、白淳の下でめいめい武器を持った兵達が並んだ。弓をつがえた者が八重を狙い、その周囲では槍や刀を持った郎党が待ちかまえている。

 それを見た八重は瞠目する。


「……ち」


 八重は白淳にしがみつき、喉の奥から声を振り絞り叫ぶ。


「近寄るなぁぁっ!」


 八重の怒号に驚く間もなく、辺りにいた人々は一面、吹き飛ばされた。

 声を聞く間もなかったかも知れない。四方八方に放り出された人々の混乱はますます大きくなり、統率の乱れた兵は最早、使いものにならなくなっていた。


 郎党と共に吹き飛ばされた千瞑は身を起こすと、この期を逃すまいと塀の上に上がり瓦を蹴って空に昇った。歯を食いしばり、懸命に翼を動かす。元より彼の翼は傷んでいるのだ。鴉の姿ならともかく、この姿では上手く飛ぶ事は出来ない。八重を助けた時にも、しばらく千瞑は痛みで翼を使えずにいた位である。

 しかし鴉の姿では八重を助ける事は出来ないし、二人に気付いてもらえるかも怪しい。

 上空で相変わらず白淳は均衡が保てずにもがいていた。自分も必死な形相で、脂汗を浮かべたまま千瞑は叱咤しったする。


「何をしている白淳、しっかりしろ!」


 それに答えるように白淳は大きく尾を振り上げた。身をくねらせ、上へ上へと向かおうとする。

 千瞑はなんとか八重の方へ向かおうとした。ひとまず八重だけでも助けようとしたのである。彼女を助ければ、騒ぎはともかく当面の心配はなくなる。白淳なら多少の武器では傷つく事がないからだ。

 しかし八重は白淳の背に顔を埋めたままこちらを見ようとはしない。


「嫌、来ないで!」


 千瞑は再び吹いた風に吹き飛ばされそうになる。自分の羽が既に耐えきれそうも無いのを無視しながら、千瞑は精一杯、八重の方へ手を伸ばした。


「八重、おれだ!」


 千瞑は声をふり絞って叫ぶ。その声をとらえて八重は埋めていた顔を上げ、目を見開いて千瞑を見遣った。


「千……!」


 八重が言いかけた、その時である。

 千瞑は白淳の周りに黒い霧のようなものが取り巻いているのに気付いた。それと同じものが八重の周りをも取り囲んでいる。


 いや。

 正しくは、千瞑ではなく八重の周りを取り巻いているのだ、と彼女を見て千瞑は判った。八重を中心にしてその霧は白淳と千瞑をも取り囲んでいる。


 その霧はやおら東の方角へたなびいたかと思うと、先ほど八重が人々を吹き飛ばしたのと同じような力でもって彼らをそちらへ吹き飛ばした。

 吹き飛ばしたというよりは、彼女らを引き寄せたといった方が正しいのかも知れない。何か強い引力で東へと八重たちは引き寄せられた。

 八重は再び悲鳴を上げる。千瞑は八重の方へ手を伸ばすが、その手をつかむことは適わない。

 しかし八重もろとも、白淳と千瞑はそのまま東へ流された。

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