平家の一門

 屋敷の灯りから離れた暗がり。その松の根本に、一人の男の影があった。

 まだ若年の男である。彼は松の根に腰掛け、一人琵琶を奏でていた。彼の琵琶の音色は、聞く者に至福をもたらす類のものであった。ただし、残念ながら今その場に彼の琵琶を聞く者はいない。


 否。ただ一人、遠くよりその音を捉えた者が居た。

 彼が次第に近づく毎に、青年の琵琶の音はより良く澄んで聞こえるようになる。彼は芸術の類をさほど好んでいるわけではかったが、この青年の弾く琵琶は素晴らしい、と心の奥底で思っていた。もっとも、本人の前では決して口にしなかったけれども。


 やがて青年のすぐ側まで辿り着くと、朱色の瞳をした鴉はそっと松の枝に降り立った。

気配に気付いて、青年はついと琵琶の演奏を止める。そうして上を見上げると、彼はにこやかな笑みでもって木の上の鴉に語りかけた。


「やあ、今宵も君は相変わらずの仏頂面ぶっちょうづらだが、なにか良いことでもあったのかい?」


 ついとくちばしを下に向け、呆れた口調で鴉は答える。


「まだ鴉の姿なのに、仏頂面も何も無いだろう」

「判るさ。君はいつもそういう顔だ」


 千瞑は人の姿になり、身軽に枝を降りてその青年の側へ着地した。青年は満足そうに彼の顔をしげしげと眺める。


「相変わらずだな、千瞑。やはり仏頂面だ」


 その千瞑は仏頂面でもって青年を一瞥いちべつする。


経正つねまさ。その言葉はそっくりそのままお前に返そう」

「何を言うか、私は君と違っていつもにこやかだぞ」

「相変わらず、という点だ。お前はいつでも顔が緩んでばかりいる」


 経正はそのやりとりに愉快そうに笑みを浮かべながら、琵琶を脇に置いた。


「いずれにしても、よくぞ六波羅へ。山から下りてくるのは至難だろうに」

「馬鹿言え、この姿ならともかく鴉の姿であれば造作もない。それに都に来たついでに寄ったまでだ。お前に会いに来たわけではない」


 経正はやれやれといったふうに肩をすくめる。


「まあ、どちらでもいい。些末なことだ。こちらも丁度、暇を持て余しているところでね。頃合いが良かった」


 その言葉を聞いて千瞑は顔をしかめる。


「お前が遊んでばかりいるから、世の中のヒト共が散々騒ぎ立てているぞ。媚びであれ悪口であれ、どこもかしこも平家だ平家だと、全くうるさくて仕方がない」


 腕を組むと、経正は大仰に首を振った。


「遊びとは、誠に遺憾だぞ。確かにその通りだが、しかし実際、私にたいした采配さいはいはふるえない。叔父上の天下の下、恩恵を享受している一介の平家に過ぎんのだ。今のところはな。

 まあ、そう叱ってくれるな。時が来たら嫌でも私は戦うさ。それが不本意であってもね」


 自嘲気味に経正は笑んだ。

 千瞑は黙って、松を挟んで経正とは反対側に腰掛けた。それを待って、経正は千瞑に尋ねる。


「ところで、今宵は一体何の話を聞かせてくれるのかな」

「何を。おれはいつからお前の守り役になったのだ」


 怪訝そうに眉を寄せた千瞑に、微笑して経正は切り返す。


「自分で気付いていないようならば教えてあげるけれどもね。君がここに来るのはいつも何かの話を持ってくる時だ、千瞑」


 仏頂面を崩して不敵な笑みを浮かべると、千瞑は松に寄りかかり、空に浮かぶ月を眺めた。


「成る程、少しはヒトでも頭が効く部類らしいな、お前は」

「その台詞は生粋の天狗に言って欲しいね、半分は君だってヒトだ」


 からかうように経正は軽口を叩いた。それを聞いて千瞑は自嘲気味に笑う。

 確かにな、と呟き、千瞑は続ける。


「おれは天狗とヒトと言うよりはむしろ鴉のそれに近い。目だけは鴉と違って良いのだがな。だから鴉からの言葉と解せば、今の台詞もさほど的はずれでは無いだろう」

「鴉ね。ならば甘んじてその言葉を受け入れようじゃないか」


 千瞑と反対側の空を見上げながら経正は言う。経正の仰ぐ夜空に月は見えなかった。

 二人の間に静かな沈黙が訪れる。しかしそれは決して気まずい沈黙ではなかった。その静寂をしばらく享受してから、千瞑はぼそりと彼に語りかける。


「なあ、経正。お前は言霊の存在についてどう思う。それこそ、世の均衡を崩すほどの力を持った言霊を」


 暫く黙って経正は星を眺めていた。やがて側に置いた琵琶を引き寄せると、彼は弦をかき鳴らす。


「言霊であろうとなんであろうと、世の中の均衡を崩すことなど容易いことだぞ。仮に私がここで秘曲でも弾いてみろ。どうなるか、分かったものではない」

「知ったことか。弾くなら弾いてみろ、おれは知らん」


 にやりと、さも愉快そうに経正は唇をゆがめる。


「言ってくれるな、子童こわっぱ風情が」

「お前に言われる筋合いは無い」


 千瞑は腕を組み、無愛想に肩をすくめた。


「お前が秘曲を弾こうと変わらないさ。少なくともおれの世界はな」

「言ってくれる」


 琵琶を抱いたまま経正は、しかし真面目な口調で言う。


「だが、その通りだ。そしてそれは先ほどの言霊とて同じだぞ。だってそうだろう。例え言霊でこの世が変わろうとあの世が変わろうと、私は私だ」


 暢気な奴め、と千瞑は呆れたようにぼやいた。経正は屈託なく笑ってみせる。だがふと真顔に戻ると、経正は低い声で問いかける。


「以前言っていた少女のことか」


 千瞑は沈黙で肯定する。

 弦を弄びながら経正は千瞑の言葉を待った。






「面妖だな」


 千瞑が語り終えて口を閉ざすと、そう一言呟いたきり、今度は経正が沈黙を貫いた。

 千瞑はかげりの見えてきた月を見遣る。先ほどまでは明るい月夜であったが、いつの間にやら雲が出ていた。心なしか風も先ほどより強いように思える。

 今宵は荒れるのかも知れなかった。


「……千瞑。ところで、前にお前が来てから後に聞いた話で、是非ともお前の耳に入れておきたい風聞があるのだ」


 唐突だが、しかし意味深長な経正の言葉に、千瞑は振り返った。


「どちらにせよお前は語るのだろう。……話せ」


 琵琶の弦をつまきながら、経正は静かに語り出す。


「これは我が一門の悲しき宿命に弄ばれた者の話なのだけれどね。なにぶん平家は平家でも、ごく末端の者だったというから大層な話題とはされなかった。

 鹿ししたにに関わった人間が、幾人か流された事は知っているだろう」


 無言で千瞑は頷く。


 世は平家の全盛、その威光はそこここにとどろいていたが、必ずしも皆、彼らに平伏していた訳ではない。八重のように遮那王のように、平家を憎み疎む者は他にも大勢いる。

 その反感が一層強まったのは、平清盛の娘・徳子が高倉天皇に入内してからである。いくら平家といえど所詮は成り上がり、天皇に輿こし入れするなどもっての他であると、平家を打倒すべく幾人かの者が謀議を行った。

 それが、後に鹿ヶ谷の陰謀と称される事件である。


 しかしこの陰謀は平氏の知るところとなり、ある者は殺され、ある者は流された。

 徳子も今や中宮となってその身に天皇の子を宿しており、最早、平家の勢いは誰にも止める事が出来ない。

 平家にあらずんば人にあらず、平家が世の絶頂だった。


 平家の一門たる経正は訥々とつとつと語る。


「少し前、中宮様の安産祈願に、叔父上は彼らの恩赦を行ったのだ。だがその中で一人だけ、鬼界ヶ島に流されていた僧だけは許されずそのまま島に取り残された。

 この僧を密かに慕っていた女がいたのだという。此度の恩赦で、女は彼も帰ってくるに違いないと待ち続けていたが、彼だけは許されず二度と戻る事はないと知って、女は腹いせに平家の家を焼いたのだ」


 彼の言葉に、千瞑は微かにざわりと翼を震わせた。

 経正は続ける。


「女は捕らえられたと聞く。その後は知らない。問題なのは焼かれた家だ。

 女が火を付けた平家の邸宅は、位のない下級兵の屋敷だったそうだ。六波羅に火を放てればそれが一番だったのだろうが、六波羅は兵も多い。

 だからこの件には全く関係のない、しかし平家の、守りが薄い屋敷を狙ったのだろう」


 一旦、経正は言葉を切り、弦を弾いた。冷たい空気に澄んだ音が響き渡る。その余韻が消えてから経正はまた言葉を紡ぐ。


「その屋敷に住んでいたのは平家の名もない男とその妻、そして娘が一人であったという。四方から屋敷を焼かれ逃げ場を亡くし、男と妻は焼け死んだ。

 奇跡的に一人だけ助かった娘も狂乱に陥り、助けた平家方の手から逃げ去って山に消えたという。何しろこの季節だ、おそらく娘も遭難して人の手の届かぬ山で果てたであろうというのが我々の見解だ。

 娘は祝言も控えていたというのに、その矢先の痛ましい出来事であったと人々は悲壮に囁いていた。我らが一門の成せる悲劇の一つだ」


 語り終えた経正が琵琶の弦を弾くと、それに突き動かされたかのように千瞑の口から声が漏れた。


「……それは」

「千瞑。どこかで聞いたことがある話だとは思わないか。言霊云々は抜きとして、しかし彼女の身の上はそれで全てつじつまが合う。

 実際には、遭難しかけた彼女はお前に助けられ、今は唯一の身寄りとなった兄を捜しているというが。

 そうそう。その家には、十年前に姿をくらませた長男も居たそうだ。噂では――その嫡男は、天狗に攫われたとか。

 つくづく涙を禁じ得ないと、心を痛めた女子おなごどもが話していたよ」


 千瞑は勢い込んで立ち上がった。


「だが、確かに見てくれは合っているが全てではない。

 あいつは、お前ら平家を憎んでいたのだぞ。八重が平家の筈がない」


 しかし自分の発した言葉とは裏腹に、千瞑は深く考え込んでいた。視線を彷徨わせながら、ふと、経正の横顔を伺う。それを覗き見た刹那、千瞑はあるところに思い当たった。


「まさか」

「見てくれの真実だけが全てではないよ」


 千瞑の言葉にすぐ経正は言葉を重ねた。どこか苦い表情で経正は笑む。

 再び千瞑が口を開きかけたその時。通りから幾人かの悲鳴と、尋常でない人々の喧噪とが聞こえた。

 咄嗟に千瞑は立ち上がる。その声、そして夜空を今は随分低く翔るそれには覚えがあった。


「……あいつ」


 唇を噛んで千瞑は飛び立った。二、三度よろけながらも、何とか体勢を立て直して今し方声の挙がった方へ向かう。

 鴉にはならなかった。そんな暇はない。


「千瞑」


 経正は去りゆく千瞑に呼びかけた。


くなよ。全てを受け入れるのに、人はあまりに矮小だ」


 聞こえていたのかいないのか、返事をせずに千瞑はそのまま飛び去る。経正はそれを見送り、小さく息を吐き出した。

 彼の姿を見送ってから程なく、屋敷の回廊の方からまだ高い男児の声が響く。


「兄上、そちらに居られるのですか。なにやら表が騒がしいようですが、何かあったのでしょうか」


 経正は機敏に立ち上がると、彼がこちらへやってくるのを阻止するかの様に、高らかに声をあげる。


「何でもない。ただ月を愛でていただけだよ。待っていなさい、私がそちらに行こう」


 去り際、彼は後ろを振り返り、千瞑の去った空を見上げた。


「……さぁて。今後我らが喜劇と悲劇は、どれほどまでに増えるのかな」


 そう呟いて経正は、一人諦観した様子で寂しげに笑んだ。

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