幻影
まどろみの中で、八重は昨夜のことを思い返していた。
まぶたの裏に強い光が感じられる。もう日は随分と高く昇ってしまったらしい。その一方で、八重の意識の中では昨夜の深い漆黒、その闇の中に浮かぶ
『ここは、……鞍馬』
闇に揺らめく灯。
その向こう側で、寂しげな眼差しを湛えた少年が立ちつくしている。
『……遮那王』
ふとその単語が浮かび、はたと八重は覚醒した。
見れば、目の前に広がるのは黒く濡れた木々ではなく古びた梁と天井であり、ここ数日は見慣れた屋敷の中であった。
「白淳が連れ帰ってきてくれたのかしら」
ごく細い声で八重は呟いた。返事はない。
微かに痛む頭に手をやり、八重は先だっての出来事を思い出そうとした。
あの後、白淳の元へ帰り鞍馬を後にしてからは、行きと同じように白淳の背に乗って帰路についていた。途中で八重が平家の屋敷に侵入して、平家の少年に助けられ、裏道で平家の郎党が人をいたぶっているのを見つけて。
その後は、思い出すことが出来ずに八重の回想は止まる。
記憶の残る最後の場面を思い出し再び憤りが湧いてくるのを感じつつも、八重は覚醒する前に反芻していた鞍馬での出来事に心を囚われていた。
昨夜の遮那王の表情を思い出す。彼の愁いを帯びた面影は、どこか鞍馬のような深い闇を湛えているように思えた。そしてそれは、八重の中で誰か知っている人物と結びついているような気がしてならなかったのだ。
遮那王に今一度会いたい、と思った。
「起きたかい、八重」
優しい声がして目をやると、戸口で白淳が手に薪を抱えながらたたずんでいた。
「待っていて。今、食事の用意をするから」
「白淳」
言って彼を制止し、八重は体を起こす。
「白淳、もう一度私を連れて行って。……鞍馬まで」
その言葉に白淳は驚いて振り返った。
「……八重」
「昨晩出会った僧の男の子に、もう一度会って話がしたいの。なんだか、彼は兄上に関することを知っているような気がするから。……確信ではないのだけれど」
それは方便だった。だが、あながち間違いでもないような気がしていた。
おそらく遮那王のそれは、八重の中で兄の記憶と結びついていたからだ。ただ単に、似たような境遇にある者同士感じる共鳴に過ぎないのかも知れなかったが。
白淳はいつもより真摯な調子で八重を言い含めようとする。
「八重、兄君が鞍馬にいないことは大天狗殿に聞いて分かったはずだろう。あすこにもう一度行っても得られるものは何もないよ。それならまだ、動かずに休んでいる方が八重の為になる。
それに、昨晩八重が離れている間、大天狗殿に他の天狗が棲む場所を聞いてきた。向かうのならばそちらの方が余程、八重の兄上を見つけるのに役立つだろう? そちらにならば、ぼくはいくらだって八重を連れて行くよ」
だが八重は頑として聞かない。
「お願い。もう一度だけ、もう一度で良いから。これ以降はもう無茶を言ったりしないわ。どうしても彼と会わねばならないような気がするの。どうか、お願い」
白淳の瞳が揺れる。困惑したように白淳は八重を見つめるが、しかし八重の眼差しは揺るごうとはしない。暫しのせめぎ合いの末、ついには白淳が折れた。
八重は白淳に礼を言うと途端に気力が湧き、自ら立ち上がって火を焚きに釜戸に向かった。ため息をつき、複雑そうな面持ちで白淳は八重を見つめるばかりだった。
鞍馬に向かう道中、白淳は昨晩よりも口数が少なく、ただ黙って空を翔けていた。八重もまた殆ど口をきかずにいた。頭の中では様々の事柄が渦になって彼女を取り巻いていた。
鞍馬に着く直前に、今一度、白淳は告げる。
「八重。……ぼくは言い切れるよ。ここに兄君は居ない」
八重は黙って白淳のたてがみを握る。その沈黙が、どうあっても意志を変えないという現れであると知って白淳は仕様がないといった風にため息をついた。
「そこまで八重が言うのなら、ぼくは八重を連れて行く。
……だけど、無茶だけはしてくれないで。お願いだ」
やはり八重は黙ったまま、しかし静かに頷いたのだった。
「遮那王」
八重の言葉を
「小娘、そなた遮那王に会いたいと申したか」
頷いて、八重はその眼差しを大天狗がいるであろう方角に向けた。もっとも、声すら方々から響いているので正確な方角は分からない。正面に向かって、といった方が正しかった。隣で白淳は黙ったままである。
大天狗はなかなか答えない。渋っているのだろうか、と八重は勘ぐった。
やがて盛大なため息と共に、大天狗は意を決したように言い放つ。
「気でも狂うたか、娘。……ここに遮那王などもういない」
昨日と同じ感覚が八重を襲った。
どこか冷静な場所で、大天狗殿はいつも私を惑わせる、だから天狗と人とは同じ場所で暮らせないのかも知れない、と場違いに八重は思った。
「遮那王がここにいたのは四年前の話だ。今はもう平泉へ発った。既に奴は鞍馬には居らぬよ。無論、昨晩そなた等が尋ねてきたその時にもな」
ぐらり、と視界が揺れた気がした。
視界が揺れたのではない、八重本人が倒れかかったのである。八重を支えながら、白淳は何かを考え込みじっと眉を寄せていた。
風が強い。今夜は荒れそうだった。
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