遮那王
一人、森に駆け込んだ八重は、完全に自分が独りになれると悟れるところまで駆け続けた。高くそびえた
動悸が激しい。それはただ単に森を駆けたことだけに起因するものであるとは思えなかった。八重は汗を拭う。冷や汗であった。
「いない。ここにいない。……ならば、兄さまは一体どこにいるというのだろう。他に当てなど無い。兄さま、兄さま」
呆けたように八重は呟いた。息は荒い。
──一人。私は、一人なのだ。
そう思うと、たまらなくなって八重は目をつぶった。
思えば、兄が今生きている保証などどこにもないのだ。
死んでいるかも知れない。死にかけているかも知れない。死んでいなくとも、天狗になどなっていないかも知れない。
それならば、ここにいないのは至極、納得のいくことである。
兄はただ家を出たくて、幼い八重に適当な虚言を吐いたのではないか。
本当に天狗になろうとしていたとて、天狗に成れず命を落としたという可能性や、まだ天狗になっていない可能性だって、天狗になって鞍馬で暮らしているというよりはずっと高いのだと思った。
それらは、兄が天狗になっているというより余程も現実的で、合点のいく結論だった。
千瞑だってそれを感じていたからこそ、初めの時に八重へ厳しい言葉を吐いたのかもしれない。千瞑は、無駄な望みにすがりつくよりは現実を突きつける方が、まだ救いがあると考えたに違いなかった。
それが八重を思ってのことか、単に自分の思うことを述べたに過ぎないかまでは分からなかったが。
八重も確かに、兄が生きて天狗になっているのであれば、真っ先に八重に会いに来てくれるだろうと思った。特に、こんな状況になってしまった今となっては。
だが八重はきつく自分を抱きしめると、まるで悪いものでも振り払うかのように首を振り、無理矢理にその思考を胸の奥底に封じ込めた。
「誰か、いないのかしら。兄さまのことを知っている誰か、大天狗様が知らなくともいるかも知れないわ」
吐息混じりに吐き出した声は白い。鞍馬の夜の寒さは厳しく、指先の感覚はもう無かった。だが今の八重は、全くそれを気にとめなかった。
「いるはずよ、きっと」
自分に言い聞かせるようにして、八重は一歩踏み出す。折れた小枝の音が、妙に辺りに響いた気がした。
森の中だというのに、他に生き物の気配はしない。最初に来た時よりも更に際だって、森の中はどこか空虚な空気が漂っていた。
しかし八重はその違和感に気付かず、ゆっくりと歩みを進める。既に来た道など分からなくなっていた。最早、どうでも良くなっていたのかも知れない。
どれほど歩いた頃だろうか。八重には一瞬にも一晩にも感じられたのだが、森を歩き続けているところに、ふとか細い音色を聞いて八重は足を止めた。
よくよく耳を澄ませばそれは笛の音であった。殆ど無意識のうちに、八重は笛の音の方へ向かうと、誰かがいる暗がりへ声をあげる。
「……誰?」
はたりと笛の音が止む。音の主が茂みを抜け八重の方へ歩み寄ってくる気配がした。
八重はどきりとする。そのままここを立ち去った方が良かったかかもしれない。相手が良心的な人物であるという保証はどこにもないのだ。ここには白淳もいない。
ようやく八重は正気を取り戻し、体を硬くした。
「何者だ?」
木の陰から現れたのは八重と大差ない年頃の少年であった。まだ元服前である。手には笛を持ち、この季節だというのに纏っているものはごく質素な薄衣一枚であった。
やっとのことで八重は口を動かす。
「私……私は、八重。あなたは?」
軽く衣の乱れを整えて少年は答える。
「私は
怪訝な顔で眉をひそめながら遮那王は八重を見遣った。
僧と聞いて少し安堵した八重は、一呼吸置いてから落ち着きを取り戻してから言う。
「知りたい事があって、鞍馬に住む大天狗殿を尋ねに来たの。鞍馬の僧のあなたなら大天狗殿を知っているでしょう?」
しかしその言葉は遮那王の表情を晴らすに足らず、むしろ怪訝な色を増すばかりだった。ひょっとして鞍馬の僧に天狗のことを語ってはならなかったのか、と八重は不安になる。
遮那王は独り言のような体で呟く。
「……師匠に?」
「師匠? あの、大天狗殿が?」
仰天して八重は高い声をあげた。思いがけずその声ははっきりと森に響き、慌てて八重は口をつぐんだ。その様を見て、ようやく少しばかり表情を崩してから、遮那王は八重に語りかける。
「私にとっては剣の師だ。ここに来た幼き頃より指導をいただいていた。
……それが本当だというならば、成る程そなたは怪しい者ではないな。虚言ならば今頃、ただでは済んでいないだろうから」
やたらに辺りが静かなのはその所為か、と遮那王は独り言のように言う。
「私は例外といえるのだろうが、本来ならば師匠は人と交わることはない。その上、獣たちや天狗を牽制してそなたに何事もないように取りはからってくれたのだろう。師匠に感謝して然るべきだ」
「……ええ、そうね。本当にその通りだわ。なのに、私は」
礼を言うどころか取り乱してその場を離れてしまった自分を恥じて八重はうつむいた。遮那王は手にしていた笛をしまってしまうと、側の木にかけてあった衣を羽織った。
「
僅かに瞳を泳がせ迷ったが、八重は遮那王に今までの経緯を語った。
いくらでも端折ることは出来ただろう。しかし八重は何故か、遮那王に最初から全てを逐一語った。
やるせないこの気持ちを誰かに聞いて欲しかったのかも知れない。あるいはまた先ほどの衝撃からまだ立ち直っていなかった所為かも知れなかった。
遮那王は最後の言葉が終わるまで、黙って八重の話に耳を傾けていた。八重がようやく話を終えると、ぽつりと遮那王は告げる。
「……そなたも兄を慕っているのか」
「ええ」
短く答えて八重は心の内で首を傾げた。今の言い回しは、遮那王も同じく兄を慕っているとの意として良さそうであったが、その口調にはどこか暗い重みを漂わせていたからだ。
それきり彼は黙りこみ、暫く静寂が辺りを包んだ。八重もまた先ほどの遮那王の言葉が気に掛かり口を開かない。静寂が破られるまでには、随分と時間が要った。
「私は、兄上に会ったことがないのだ」
余りに寂しげな遮那王の表情に、八重は咄嗟に言葉をかけることが出来なかった。
「兄が居ると知ったのもつい最近のことだ。何故だろうな。何故、兄弟同士が離ればなれにならねばならないのか」
遮那王はついと空を見上げ、微かにのぞく星空を仰ぐ。
「平家。……平家、か」
どこか遠い眼差しになり、遮那王は物を思っていた。その横顔を、八重は口を閉ざして見つめることしか出来ない。
「平家を恨むのは、私も一緒だ。私がこの鞍馬に閉じこめられたのも、母上や兄上と離ればなれになってしまったのも、全ては平家の所為なのだから」
「……え」
動揺して八重は自分の手首を握りしめた。何故だろうか、冷や汗が
――思い出したくない。
平家のことなど、考えたくもなかった。
僅かに身体へ震えがはしる。
「そなたは私と似ているな。平家の所為で憂き目に遭った点も、兄を慕うところも」
遮那王は星々を眺めていた視線を八重に戻すと、彼女の様子を察したのだろうか、先ほどの静かな調子とはうって変わって明るい声色で言う。
「優しい兄君なのだな、八重の兄は」
「ええ、とても。きっと、あなたの兄君もそうだわ」
つられて、八重も高い調子で言った。もう震えは止まっていた。
八重の言葉に少し驚いて、それから遮那王は口を固く引き結ぶ。
「そうだな。きっと、そうだ。……私もいつか、兄上に会う時が来るのだ。きっと」
遮那王は小さく自分に向かって頷いてみせた。
八重に向き直ると、遮那王は気を取り直して言葉を続ける。
「八重、八重の兄は天狗になったのだったな」
八重が頷くのを見ると、遮那王は考え込んで腕を組んだ。
「私は師匠以外にも何人かの天狗に会ったことがある。しかし残念ながら八重の捜す相手には巡り会っていないな。言葉を交わした時も、誰も妹のことは口にしていなかった。
そもそも私が出会った天狗達は、元から天狗だという者ばかりで、人から天狗になった者はいなかった。鞍馬にはそういう天狗が多いようだ」
薄々そうであろうと感づいてはいたが、やはり僅かな期待が失せたのを思い知って八重は肩を落とした。
「そうなの。……ありがとう」
「力になれず、すまない」
見て分かる落ち込みようの八重に、遮那王は心からその言葉をかけた。ゆっくりと八重は頭を振る。
「いいえ、あなたの所為じゃないわ。やはり鞍馬にはいないのね、大天狗様の仰るように」
「師匠は鞍馬を隅まで把握しているから。師匠がいないと言うのならばそうなのだろう。悪戯に虚言を吐いても仕様のないことだから。仕方のないことだが、鞍馬ではなく他の場所に兄君はいるのだろう。
ただ、……こう言うのも気が引けるが、もし八重の兄君が天狗になっていないと言うなら話は別になる。どこか過去で八重の兄君と会っているやも知れない。だがそうなれば今度は特定するのは無理だろうな」
先ほど八重が考えていたことを見透かされたような気がして、八重はどきりとした。
確かに、天狗になっていないならば十分それも考えられた。だが、それならば鞍馬の僧よりも都で聞いた方が、まだ兄を知る者の割合は高そうだ。
「そういえば。先ほど八重の話にも出てきたが、千瞑とは昔、会ったことがある。彼は天狗ではないけれども」
「千瞑と?」
思考を打ち止めて、意外そうに八重は聞き返した。人と千瞑とが会っている様が想像出来なかったからだ。もっとも、自分だって千瞑と会話は交わしているのだが。
「あの時から人を嫌ってはいたが、彼は芯から人を嫌っているわけではないと思う。やはり最初は私とも
その時、千瞑にはまだ名がなかった。千の瞑とは私が名付けたのだ。
本当はもっと良き名前を与えたかったのだが。鞍馬で出会ったから『くら』の音を取り、私は『座』の字を当て『千の座』……数多もの星々という名にしようとしたのだが、あいつは自分には『瞑』の字が似合いだと言って聞かなくてな。
だから実際は、あいつが自分で付けたようなものだ」
八重の口から懐かしい名が出たからだろう、一気にそこまで話すと、遮那王の瞳は寂しげな影を映した。
「あれからは殆ど会うことはなかった。……私はここから出られないし、千瞑は鞍馬に近づけないから」
何故かを問おうとして、八重は口をつぐんだ。
千瞑が天狗であるならばともかく、なりきれずに狭間の者と成り果ててしまった彼が、天狗達の棲まう鞍馬へ頻繁に出入りするはずもなかったのだ。
静かな声で八重は尋ねる。
「それから、一度も会うことはなかったの?」
「夜、私が都へ抜け出して遊ぶ時とあいつが都にいた時、稀に会うことはあった。だがそれも数回だけだし、最近は私への監視の目も厳しくなったから久しく会ってはいない。
……そうか、しかし健在ならばよかった」
遮那王は八重の目を覗き込んでから星空を仰いだ。空に並ぶ星々を見遣って、再び遮那王は八重を覗き込む。
「夜も更けた。別れは惜しいがそろそろ戻らねば白龍が心配しよう。戻った方が良い。
八重、そなたならばきっと兄上を見つけられるだろう。久々に懐かしい友の名も聞くことが出来た。
今宵はいい夜であった。私は八重の幸を願おう。そなたと話せて良かった」
遮那王はそう言って初めて八重に微笑んでみせた。
どこか遮那王の表情は儚げで、今にも消えてしまいそうな憂いをたたえた瞳で八重を見つめていた。
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