鞍馬天狗(2)
都の上空を過ぎて程なく、八重と白淳は都の北に位置する鞍馬の山中に入り、本殿へ静かに着地した。
闇が濃い。都から離れた山中であるということを除いても、鞍馬の空気は周囲と一線を画していた。
階段の両脇には明かりが灯り、ちらちらと闇に瞬いている。人の気配は勿論、動物の気配すらも感じられない。研ぎ澄まされた空気がより一層、鞍馬の神聖さを際だてていた。足下からは姿の見えない虫たちの鳴き声が、ただ静かに聞こえる。
八重が地面に降り立ったのを確認して、白淳は人の姿をとった。八重の手を引いて白淳は人の気配がない本殿を過ぎ、森の中へ分け入る。獣道ではあったが、白淳の先導で八重は難なく歩みを進めることが出来た。
白淳に従って歩みを進めていくと、やがて森の中で僅かに開けた場所へ出た。月に苔のむした岩が照らし出されており、他に見えるものといえば、枝の隙間からのぞく夜空と、周囲を覆う木々ばかりである。来た道を振り返れば微かな火の色が見えた。
そこで、白淳は再び龍の姿へと戻った。
「大天狗殿」
白淳が闇に溶けた森の中へ朗々とした声を張る。龍の姿の方が声が響き渡るようだった。
気後れして八重は身をすくめ、無意識に白淳に寄り添った。白淳は八重を守るように、そっと八重の体を包むように取り囲んだ。
「
声は暫し辺りを支配したが、木霊を残して次第に薄れていき、やがて再び静寂が訪れる。
かと思えば、次の瞬間には、森がざわめき空気が振動した。
「来たか」
唐突に闇を破って声が響いた。
同時に、挨拶代わりの一陣の風が二人を包む。
「さて。このような山奥まで、一体何用かな人の子よ」
一瞬びくりと身を震わせてから、八重は自分が語りかけられているのだと気付いた。辺りを見回してみるが、どこにもそれらしき姿は見えない。
大天狗は姿を現さなかった。声だけが聞こえるのみであった。千瞑と同じだ、と思いながら八重はどうしたらよいものかと困惑する。
「この娘は行方知れずになった兄を捜しています。その事で大天狗殿のお力添えをいただけないかと今宵はお願いに参りました」
八重の代わりに白淳が答えた。大天狗は再び言葉を風に乗せて返事をする。
「ほう、兄を?」
「は、はい」
慌てて八重は付け加えた。どこを向けばいいかなどと気にしている場合ではない。
「兄は、天狗になると言って家を出て行きました。
鞍馬はあなた方、天狗の棲む霊地だと聞き及んでおります。あなた方の仲間に人間から天狗になったものがいないか、お聞きしたくて」
一つ
「そのような者は、ここには居ないな」
にわかには言葉の意味を解することができず、八重は動きを止める。
「居ない、と」
繰り返した白淳の言葉で、ようやく意味を飲み込めた八重は、独り言のように幽かな声を漏らす。
「そんな、……なんで」
「居ないものは居ないのだ。ここ数年、人間から天狗になったものは存在しない。居たとて、
冷徹にも聞こえる大天狗の声が、八重を突き放した。
そっと自分で自分を抱きしめて、八重は震えを抑えようとする。
頭では八重も分かっていた。見つからない可能性だって、十二分にあるということを。
しかし、それでも。
「……そんな、兄さま」
自分を抑えきることが出来ず、感情にまかせて勝手に体が動いた。
八重は身を翻し、森の方角へ足を向ける。
「八重!」
聞かず、八重は白淳を振り切って、闇の濃い森へ一人、駆け込んだ。
八重が駆けていく背後で、大天狗は暢気な声で言う。
「八重、というのかあの娘は」
白淳は答えない。その代わり駆けだした八重を追って自分も森の中へ入ろうと身を翻した。しかし、
「まあ待たれよ、白龍殿」
八重が去って、ようやく近くの木の枝の上へ姿を現した大天狗は、追おうとする白淳を遮るように彼の目の前へ降り立った。
「大天狗殿、そこを空けてくれませんか。八重を追わねば」
動きを止め、白淳は空に尾を振り上げ鋭い眼差しで大天狗を見遣る。構わず悠然と立ちふさがる大天狗は、丁寧に翼を収めてから言った。
「案ずるな。他の天狗共には手を出さぬよう命じてある。例え獣が出ようとも、それとなく娘の害にならぬよう惑わしてくれるさ。
そなたの来訪の知らせを聞いた時から、儂が手を打っておかぬとでも思うのか?」
その言葉を聞き、不承不承、白淳は力を抜き振り上げた尾を地面へそっと降ろした。しかし彼の注意は、相変わらず八重の消えていった暗がりへと注がれている。
「どうせ儂が言った事を
「……お心遣い感謝致します、大天狗殿」
ようやく白淳は視線を大天狗に移して言った。なぁに、と豪快に大天狗は笑う。
「かようなことで白淳殿の機嫌を損ねて、我が鞍馬をつぶされたくはないのでな」
「これは、私も随分と買い被られるようになったものですね」
つられていつものように微笑しながら白淳は軽口に応じた。
笑みを崩さないながらも伺うような目つきで白淳を眺め、どうかな、と呟き大天狗は低い声で尋ねる。
「そなたの、龍神の呪いで都が一つ消えたと聞く」
「さて、何の事やら。たとえ私が関わっていたとて所詮は人の造るもの。人の業の成せる仕業でしょう」
問いをはぐらかしてまた笑み、大天狗は大仰に肩をすくめてみせた。
「そなたらしくもない。
「心外ですね。私は人を捨てて龍となったというのに、人が好きだとおおせですか」
「まさに今、人助けに娘を連れ鞍馬に乗り込んできた男が何を言うか」
やはり微笑したまま、白淳は答える。
「大天狗殿の解釈のままに」
言うと、白淳はこれでこの話は終わりとばかりに人の姿に変わる。大天狗はやれやれといったように両手を広げて、手近な岩へどかりと腰を下ろした。
「龍の姿のそなたとも人の姿のそなたとも、まみえるのは随分と久しいな。唐突に知らせが届いた時には驚いたぞ」
「快く来訪を許して頂けたましたこと、感謝致します」
白淳は頭を下げた。なぁに昔からのよしみだ、と答えてから、懐から取り出した
「だが、いくらそなたにしても珍しいな。儂が快諾する可能性の方が少ないと、考えずとも明らかであっただろうに」
自分の分の酒を注ぎながら大天狗が言った。
大天狗の言う通りであった。白淳一人ならまだしも、人を連れて大天狗と会うなどとは酔狂なことである。
天狗は悪戯好きではあるが、普段は面と向かって話をする事など殆どない。人と天狗とは違うのだ。だからこそ棲み分けているのである。
人と共に生きられる存在ではない。元来相容れないものなのだ。
大天狗が酒をすぐさま飲み干してしまったのを見て、白淳は自分も杯を空ける。
「その時は、その時です」
意味深長な白淳の笑みに、黙って大天狗は再び酒を注いだ。
「何にせよ、頃合いが良かったのだ。一昔前ならこうもいかなかっただろう。今は人に対して寛大なのだ、割合な」
その言い回しに思い当たることがあり、白淳は大天狗に尋ねた。
「なんでも、大天狗殿は寺で修行する
人のみならずこちらの世界でも風聞は早きものだ、と呟いて、大天狗はまた一杯あおった。
「少々、寺の小僧に剣術を仕込んでやったのだ。なかなかどうしていい瞳をしていた。儂にとっても存外に面白かったぞ、良い暇つぶしになった。
しかし、こうも興味深い人間に出逢えると退屈せんな。小僧といい、先ほどの娘といい」
更に盃を飲み干してから、大天狗はさも愉快そうに笑った。
「まったく、人間とは真に面白き生き物じゃ」
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