鞍馬天狗(1)

 数日の後に八重は回復し、自力で起きあがって動けるようになった。当分厄介になることになった八重は、白淳の代わりに朝餉と夕餉ゆうげの支度をしている。


 初めは渋い顔をしていた千瞑もそのうち八重の存在に慣れ、普通に彼女と会話を交わすようになった。やはり言葉に棘があるのは相変わらずだったのであるが。

 千瞑は神出鬼没しんしゅつきぼつである。先ほどまで誰もいなかった空間に突如現れては、その度に八重を驚かせた。

 これも天狗になりかかった所為なのだろうか、と八重は思ったが、あえて尋ねることはしなかった。天狗の話題になると千瞑は途端に機嫌を損ねるからだ。ただでさえ彼は八重のことをあまり快く思っていないのだ、これ以上関係を悪化させたくはなかった。




 八重が動けるようになって二、三日後。

 紅葉を楽しみに八重が外に出ているのを見計らって、千瞑は柱に寄りかかりながら低い声で白淳に密かに語りかける。


「ここ数日くまなく様子を探ったが、結界はどこも崩れていなかった。あの小娘に、結界を打ち破り、再び結界を張る力があるとも思えない。本当に、一体どうしてあいつはここに入ってこられたのだ」


 白淳は困ったように肩をすくめる。


「さあ、どうだって良いじゃないか。結界が崩れているわけでないのなら、別に外部からの侵入を心配する必要は無いだろう」

「あのな。あの小娘は、その結界の内部に侵入してきたのだぞ。まさか結界が特別にあいつだけ通したとでも言うのではあるまいな」

「他に方法がないならそうなのだろう」

「この結界は貴様にしか張れない。……まさか、お前があいつをここに招き入れたのか」

「ぼくが数日、彼女につきっきりなのは知っているだろう。再度張りに行く暇など無かった」


 手応えのない白淳との応酬に、千瞑は訝しげに尋ねる。


「……貴様、何か知っているな」

「何も」


 顔色一つ変えず白淳はさらりと言った。その様子に苛立ちを隠そうともせず、千瞑は腕を組む。


「どうも分からない。いつもだって貴様は人に肩入れしてきたが、今回ばかりは度合いが違いすぎるだろう。

 仮にも小娘が探しているのは天狗だぞ。ただの人捜しとは訳が違う。人の領域の話ではない。下手に手を出せばまずいことにもなりかねない。

 だがその調子では、もし鞍馬くらまに目当ての天狗が見あたらなかったら、貴様はまた別の処を捜してやるつもりなのだろう」


 白淳は答えなかった。

 代わりに、床に腰掛けながら白淳は独り言のように呟く。


「懐かしいんだ」


 眉をひそめて千瞑は白淳を見遣った。構わずに白淳は続ける。


「どうも八重には手を貸してやりたくなる。彼女はもろいよ。だけど強い。この状況でも自分の傷跡はまだ微塵も見せていないだろう。

 肉親と家を同時に亡くしておいて、単身、鞍馬まで行こうというのだ。弱さ故であっても、弱さ故の強さだ。本当に弱り切った人は目も当てられないはずだから」


 声の抑揚は一定のまま千瞑は言い放つ。


「人は弱いから嫌いだ」

「だが、それが逆に人の魅力というものだよ」


 千瞑は仏頂面のまま、諦めたように深く息を吐き出した。






+++++



 夜。

 もはや冬が到来しようとしているこの時季、肌を刺す風は痛い。吐く息は闇に白く染まり、瞬く間に虚空に流れていった。


 羽織をまとってもなお、八重はその寒さに身震いした。ただでさえ山中である。他のどの場所もここよりは温かいに違いない、と八重は胸元を合わせながら思った。

 人が寝静まり始める刻限。八重は白淳と共に鞍馬へ向かうべく、屋敷を出て開けた傾斜へ出た。この寒さの中で空を翔るのはいささか酷であったが、昼間では人目に付くので仕方ない。鞍馬まで歩いて行くのでは時間がかかり過ぎる。


 白淳は首をぶるっと横に振ってから星月夜ほしづくよの空を見上げた。新月である。

 彼が瞳を閉じ、すう、と息を吸い込んでから静かに吐き出すと、その間に細身の青年であったはずの白淳の姿は星明かりに白く輝く龍に変わった。

 息を飲んで、八重は拳を握りしめる。おそるおそる近づくと、そっと八重は白淳のたてがみを撫でた。


「……綺麗、本当に龍みたい」

「本当に龍なのだけれどね」

「そうじゃないの。だってあまりにも綺麗すぎて」


 八重の言葉を聞いて、龍となった白淳はひげを震わせながら微笑む。その笑みは人の姿であった時と変わらない、白淳のものであった。思わず八重もつられて微笑んだ。



 八重は白淳の背に乗り、風になって山を翔けた。風になるとはこういう事だろうか、と寒さに身をすくめながら八重は思う。

 空に溶け込むようにして、なめらかに白淳は空へ昇る。しっかりと彼の身体を掴みながら、八重はそのうろこに顔を埋めた。耳元をかすめる寒気が痛い。

 はじめ八重はそうしてずっと目を閉じたままだったが、やがて白淳に促され、そっと目を開いた。


「さあ、もうすぐ見えてくる。……といっても、夜だから大して見えないけれどね。京の都だ」


 眼下に微かな明かりが見える。だが既に夜は更け眠りに誘われる時分、その数はさほどでもない。

 しかし空の上から眺めるその光景に、八重は思わず口を開いて見入った。口を開けば冷たい風が容赦なく吹き込んできて、慌てて我に返り八重は口を閉じる。


 白淳は最初よりも意識して高度を落とした。この闇の中で気付かれる畏れは低かったし、低い方が風も幾分かは優しい。

 京の南より北へ翔けていく途中、他と比べて一際ひときわ、明るい処がある。東の山と南北に伸びる川とに挟まれたその場所は、もう宵だというのに煌々と明かりを灯していた。不思議に思って八重は尋ねる。


「淳、あれは?」

「あれは……」


 一瞬、躊躇してから白淳は答える。


「あれは、六波羅ろくはら。平家の住処だ」


 背の上で、八重が反応したのが分かる。静かに白淳は八重の言葉を待った。

 彼女は肩で息をついて吐き捨てる。


「……六波羅。馬鹿みたい、あんなに明るく闇を照らして。夜はお日様と一緒に眠るものだわ」

「八重の家では、常に日と共に生活をしていたのかい。闇に明かりは灯すことなく?」


 違うけれど、と呟き、八重は口を尖らせて白淳のたてがみをぎゅっと掴んだ。


「けれど、少し明かりを借りて仕事や学問をするのと、無駄に闇を取り去って騒ぎ立てるのとは違う。

 自分たちがこの世のすべてだと思っているんだわ。馬鹿騒ぎをして楽しんでいれば世の中は救われるとでも思っているのかしら」

「そうじゃない。平家一門でも、全てが全てそうだというわけではないよ。

 物事を一つに括ってしまうのはとても危ないよ、八重。彼らの中にも争いを好まない、真っ直ぐで優しい人はいる」

「知らない、私はそんな人知らないもの」


 八重は白淳のたてがみに顔を埋める。


「……みんな燃えてしまえばいいのに」

「八重」


 白淳が厳しくたしなめるような口調で言う。


「全くそう言う感情を抱くな、思うなとまでは言わない。八重は苦しい思いをしてきたのだろうから。

 でも、心で思っていても口では言うものじゃない。言葉には古来より力が宿る。

 言霊ことだまは力を持ち、口にしたことは本当になってしまう」

「いっそ、そうなればいいと思うわ。そうしたら父さまや母さまのかたきはとれるし、兄さまだってすぐにも見つかるもの」

「八重」


 白淳は諭すように語りかけ、背中を震わせた。


「人は汚いよ。非道ひどいことも平気でするし、醜いし、あざとい。

 でも、それが全てではない。

 何にだって闇の部分はあるし、同様に光の部分もある。その人のなんたるかを知らない内に、闇雲やみくもに憎もうとするのは傲慢だよ。

 あまりに疑心が過ぎて全てを拒絶するようになれば、いずれはぼくのように人の道を見失ってしまう」


 八重は白淳の言葉にはっと顔を上げると、龍の背を見つめながら問いかける。


「……あなたも、昔は人だったの」


「昔の話だけれどね。……人を人たらしめるのは、その人自身の心だから。

 様々な人がいる。他者の不幸すら好む奴もいる。

 だけど、それでもぼくは人が好きだ」

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