六波羅

 あれから八重は元来た道を戻り、迎えに来た白淳と共に鞍馬を後にした。

 帰路、八重は黙り込んだままだった。白淳も無言で空を滑るように飛び続けている。


 六波羅の上空まで来た時に、ようやく八重は口を開く。


「ねぇ。もっと低く六波羅の上を飛んでもらえないかしら」


 暫し考えて、控えめに白淳は告げる。


「だが、あまり低すぎると見つかるかも知れない」

「幻だと思わせておけばいいわ。もっと近くで見たいの。……平家の住まいを」


 八重の頼みを暫し逡巡するが、やがて観念して白淳は従った。なるべく人の少ない、暗い場所を捜すと、悟られぬようひっそりと下がってゆく。

 すると。

 突然、八重は身を前へ乗り出し、柔らかい植え込みに向かって飛び降りた。一瞬、呆気にとられて、白淳は無意識に尾を巻く。


「……無茶苦茶をする」


 白淳は苦笑いをしながら、静かに下へ降りていった。






 楽器の演奏が遠くから聞こえる。宴会でも騒ぎの外れであった。その為、明かりはほとんど灯っておらず、辺りには人気もない。八重にとっては好都合であった。


 ほとんど発作的な行動だった。何かしてやろうという意図があったわけではない。ただ、この六波羅の眩さが腹立たしくて、無性に悲しくなっただけである。

 遮那王と話をした所為だろうか。そうとは窺えないようにしていても、八重の中ではずっと平家の存在とあの時の炎とがくすぶっていた。


 震えは止まったが、忘れようと努めても容易に振り払うことは出来ない。もやもやとした感情が彼女の思考の影に潜んでいて気持ちが悪かった。

 だったら、いっそのことその影に面と向かってやろうではないかと思ったのだ。考えるのは嫌だった。あの日のこと、平家のこと、どちらも考えようとすると思考が停止してしまう。だから直接覗いてやろうではないか、と八重は思った。この身なりならば、一門の者とは見られなくとも、下女の者としてなら忍び込めるかも知れない。


 だが、八重はすぐその思惑が外れたことに気付いた。少し離れた所から、水干を身に纏った元服前の少年が、目を丸くして衣を整えている八重を見つめていたのだ。

 やや狼狽ろうばいしながらも、少年はおそるおそる八重に一歩、近付いた。


「一体どこから入ったのですか。ここは、ひどく厳重な警備がしかれているはずなのに」


 それが郎党でなかったことに安堵しつつも、早くも見つかってしまったことに八重は肩を落とす。少年の言葉に、半ば八重は投げやりに答える。


「流石の平家様の警備も、空までは届かないわ」


 八重の言葉に少年は目を見開く。


「貴方、天女様ですか? それにしては、羽衣も見あたりませんが」

「わたしが天女だとしたら、浄土も随分と品位が落ちたものね」


 自嘲気味に八重は答えた。しかし実際、人知を超えた方法でここへやってきたことに変わりはない。

 先ほどの計画が潰えたのにため息をつくと、今度は八重の方から少年に問いかける。


「あなたはどうしてこんな所にいるの。にぎやかな宴はまだ向こうで続いているでしょう」

「宴は騒がしすぎて疲れました。静かなところで、笛を吹きたかったのです」


 言うと、少年は手に持っている笛を示した。


「よろしければ、聞いていってはもらえませんか。まだまだ若輩で、精進は足りませんが」

「生憎だけれど、そんな悠長な事をしていられる身ではないの。ごめんなさいね」


 少年から視線を外して屋敷の方に目をやり、八重はどうしようかと思案した。

 少年が人を呼ぼうとする気配はない。余程暢気なのか、彼は全く八重を警戒していないようである。

 自分は何があっても傷つけられる事はないとでも思っているのだろうか、と八重は呆れ果てて少年を眺めた。小綺麗な格好からして、少年はおそらく平家の公達きんだちだろう。今まで何の害を加えられることもなく、ありとあらゆるものから守られ大事に育てられてきたのだ。


 遮那王の事を思い返して八重はひそかに眉をひそめた。

 同じ笛であっても、この少年は人前の屋敷で吹き、遮那王は人知れぬ山中で吹く。似たようであってそれは全くの別物であった。

 吹き人が違えば音色も異なるものである。少年の笛の音を聞く事はないだろうが、きっと遮那王の笛の方が好きだと思った。


 八重が黙って少年を観察している最中、突如はっとした顔つきになった少年は、彼女の手を掴んで八重を手近な物陰へ隠した。突然の事で、思わず八重は素直に従う。

 すぐ近くの回廊を誰かが通過する。物音でも聞きつけたのだろうか。しかし、少年と何事かを二言三言話したかと思うと、満足したように去ってしまった。八重を隠したところからすると、八重の事を言いつけたわけではないようだ。

 八重が隠れたところに戻ると、少年は声を潜めて八重に言う。


「誤魔化しておきましたが、ここには人が来ます。今のうちにここから逃げましょう」


 少年は八重の手を引き立ち上がらせた。困惑した八重は思わず尋ねる。


「あなた、どうして私を庇うの。私は勝手に六波羅のお屋敷に入ったのよ」


 その問いに、少年は声を低く殺して無垢な瞳で見つめる。


「わたしは、あなたが嫌いじゃない。それに人を傷つけるのも好きではない。あなたが見つかれば間違いなく手打を受けるでしょう。罪もない人を殺生しとうありません」

「罪はあるわ。侵入したもの」

「でも、あなたは何もしていないじゃありませんか」


 八重は言葉を失った。少年は笑みを浮かべると、八重が何も言わないのをいいことに彼女の手を引きひっそりと出口へと案内する。戸口には郎党もいないようである。


「ねえ、どうして」


 合点が行かず、八重は彼女を外へ逃がそうとした少年に再度尋ねた。


「何故私を助けるの。私は、かりにも六波羅のお屋敷に侵入したのよ。普通なら罪人として引き渡すでしょう」


 首を傾げながら少年は八重を見つめる。


「それは、どちらかといえばわたしの方が聞きたいです。

 何故、あなたはわたしに何もしないのですか」


 またしても八重は言葉を失った。

 続けて少年は言う。


「わたしの姿を見れば、ある程度の身分だとは判るでしょう。それにこの六波羅に侵入したんだ、何かしら平家をうとむ思いはあったはずです。

 しかしあなたはわたしに何もしなかった。その気になれば、殺す事も攫う事も容易に出来たはずなのに。それどころか、最初からあなたにはそんな考え毛頭もなかった。

 あなたには殺意が感じられなかったから、わたしは懐剣に手を伸ばす事すら躊躇ったのです。

 もしわたしが、例えば源氏の家のもので、この六波羅で平家の公達とまみえたのなら、まず間違いなく相手を斬っています」

「……それは」


 考え無しに起こした行動だった。けれども、確かに少年の言う通りだった。八重には平家をどうこうする気はなく、ただ六波羅で平家とまみえたかっただけなのかも知れない、とふと思い当たる。

 何故だろう、八重にはこの少年に対し殺意は沸いてこなかった。


 彼女の両親は平家に殺され、平家に家を焼かれたはずである。しかし少年がまだ幼いから、という理由を別にしても、八重には恨みの思いが不思議なくらいなかったのだ。それに気付いて、八重は尚更、困惑した。

 一体何故、自分は六波羅に来たのだろうか。

 今一度、八重は瞳を閉じて思案する。しかし燃えさかる炎も、平家への憎しみも、今ひとつ少年とは結びつかない。

 そもそも自分は平家を本当に憎んでいるのだろうか、との疑いまで頭を持ち上げてきて、慌てて八重は思考を止めた。


「だから、思ったのです。あなたは天女なのではないかと」

「それは、いくら何でも」


 苦笑して八重は否定した。少年も微笑んで、そっと戸口を開ける。


「気を付けてください。宴に浮かれている郎党がいるやもしれません。そいつらに見つかったら厄介です」

「……ありがとう」


 言って八重は塀の外に出た。


 ほとんど同じに、頃合い良く白淳が姿を現す。一瞬警戒して身構えた少年だったが、八重の様子から身内だと悟ると、安心して彼女を外に送り出し戸を閉めた。


 去り際、塀の向こうから澄んだ笛の音が聞こえた。

 遮那王のそれとは、やはり違う。しかし前に思ったように、少年の笛の音を嫌いになる事は出来なかった。想像したより随分としっかりした音色で、吹いているのがまだ幼い少年であるとはにわかに信じがたい。

 浮かれた宴のざわめきに交じり聞こえる笛の音はどこか哀愁を漂わせ、ただただ静かで優しかった。


「驚いた。あの子も、平家なのよね」


 ぼうっとした口調で八重は呟く。白淳もまた微笑みを浮かべた。


「そうなのだろう。曇りのない眼差しだった。彼は健やかな子だ」


 頷きながら、八重はぽつりと口に出す。


「あの子をここから連れ出してしまえば、きっとあの子の親や親類のように人殺しをせずに済むのよね」

「……何を考えているのです、きみは」

「冗談よ。……そのうちあの子も、平気で人を殺める鬼になるんだわ」


 八重は肩をおとすと、寂しげにため息をつく。

 白淳は刹那、暗い影をその顔によぎらせたが、すぐにそれを振り払うと、八重の頭に手を置いて優しく語りかける。


「さあ。降り立つよりも飛び立つ方が人目について難儀だ。どこか開けた場所を探そう。今夜は冷える、ゆっくり休んで明日に備えよう」


 二人はほの暗い街道を進んだ。遠くからは、やはり平家一門の宴の喧噪が聞こえてくる。この一帯は平家一門の住処だと言うが、果たしてどれほどの人が宴で享楽を味わっているのだろうか。少しばかりまた八重は暗い心持ちになる。


 そうしてしばらく歩いた頃である。

 脇道から、物音が聞こえた。

 宴の音ではない。何事かとすぐさま様子を見に行こうとした八重を引き留め、白淳は唇に指を当てる。


「気を付けて。夜盗かも知れない」


 音を立てぬよう近くまで忍び寄ると、二人はそっと物音のした方をのぞき込んだ。

 街道にいたのは、路上で眠っていたのであろう男が一人と、鎧を着た郎党が二人である。平家の郎党であった。

 郎党は男を囲んで、二人がかりでその男をいたぶっていた。力任せに蹴りつけ、殴りつけ、痛めつけている。

 それは一種の享楽だった。彼らにしてみれば、平家の公達が宴で騒ぐのと大差ないのであろう。おごれる平家の威光を背に、まるで自らが絶対であるかのように彼らは難癖を付け男に絡んだのだ。ただ、暇と権力を弄ぶべく。

 やられている男は既に覇気がない。抵抗する事もなく、されるがままになっている。


「……なにを、しているの」


 八重は爪で傷が付くほど強く自分の拳を握りしめた。だが、痛みは感じない。

郎党は相変わらず男を痛めつけ、その姿を見て嘲笑っていた。


「許されるの、あれが」


 ぎり、と八重は唇をかみしめる。


「八重、……落ち着くんだ」


 異変を察知し、白淳は彼女の手を握りしめて抑えた声色でなだめようとする。

 しかし八重は止まらず、激昂げっこうした。


「落ち着けというの。これを見て、落ち着けと?」


 八重の一段大きくなった声で、彼らがこちらに気付く。

 殴られていた男はぐったりとして動かない。

 既に息絶えているようだった。


「これが平家。……ええ、そうよ。これが平家」


 まるで自分に言い聞かせるかのように八重は言葉を紡ぎ続けた。


「人を人とも思っていない。私利私欲のためなら平気で人も殺すんだわ。まるで、遊戯ででもあるかのように。結局同じなのよ、平家なんて。

 ……憎い。あんたたちが憎い! あんたたちがいなければ、私は、……私は、……!

 平家なんて。平家なんて、滅んでしまえばいい!」


「止めろ八重、言うな! 言ってはいけない!」


 何事か平家の郎党は喋っているが、八重には聞こえない。


「お前らなんか、瓦礫がれきに埋もれて死んでしまえ!」


 八重が叫んだ。

 刹那、兵の上にあった屋根が崩れ、何十枚という瓦が郎党に降り注ぐ。


 程なく壁までもが崩壊し、二人は瓦や漆喰に埋もれた。彼らのいた周囲が瓦礫で埋め尽くされる。


 二人の郎党は、瓦礫の下で事切れた。

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