少女と鵺

「……誰」

 冷蔵庫からくすねた缶ビールを片手に、少女は自室の入り口で立ち尽くす。

「鵺」

 ベランダから怪しく彼女を見つめる四本脚の異形は、低く不気味な声を上げて、笑う。



       少女と鵺



 街では未だ夏の空気が、騒々しさを連れて忙しなく歩き回っている。八月が終わるという独特の寂寥と感慨も、相変わらず喚き続ける蝉の声に掻き消されてしまうかのようだった。

 郊外の住宅地に、父親がローンを組んで建てた築一三年の一軒家。その二階、南向きの一番いい部屋を自分の部屋として与えられた少女は、冷蔵庫からくすねた父親の愛飲するビールを片手に、気だるげに階段を上る。始業式だけで午前中に放課した学校から、ちょうど太陽がじりじりとコンクリートを焼きつける時間帯に、徒歩通学の彼女は汗だくで帰宅した。

 汗でへばりつくブラウスの胸元をぱたぱたと扇ぎ、空気を送り込む。気休め程度の微風でも、部屋でエアコンをつけるまでの辛抱だと、階段を上りきる。そのまま左手側へ歩くと、突き当りで少女を迎える扉。小学生に上がった時に与えられたその部屋の扉には、当時から掲げられたままの『ちよのへや』という木製のプレートがぶら下がっている。千代――高校二年生の彼女の名前。千代は幼い頃、その妙に古臭い自分の名前があまり好きではなかった。しかしそんな想いは、父と母の愛情に十何年触れるうちに薄れていった。今ではそれなりに愛着を持ち、友人から呼ばれる「ちよちー」というあだ名も密かに気に入っている。千代はドアノブに手をかけ、回す。馴染み深く、最早何気なくなったその行為の先には、いつもと変わらない、もう何年もその場所で過ごした、自分だけの部屋がある。

 特に何を意識するわけでもなく俯いて部屋に入る。真昼の太陽の匂いを連れた風が、廊下に向かって流れていく。扉を閉め、風が流れてきたベランダの方へと、振り返る。

 ――振り返り、固まる。

「よう」

 おそらく母親が換気のために開けておいたであろう部屋の窓。その網戸越しに千代の目に映ったのは、異形。ベランダのアルミ柵の手すりに器用に居座る、怪物。――それは端的に、怪物と形容できる姿をしていた。そしてその異形は、間違いなく、言葉を発した。

「……誰」

 黒と黄色の縞模様、虎のような四本脚を持つ巨体。けれどその顔は猿のようで、赤茶色の肌がその手足とは異質に映る。黄土色のたてがみはライオンのもつそれのように首回りを分厚く包み、そこから尖った大きな耳が飛び出している。たてがみは長く、大きくうねり、触角を思わせるようでもあった。胴体の色はこれまた他のどこの部位とも違った薄暗い灰色で、少し硬めの毛並みであるように見える。怪物が気まぐれに振ることで、顔や胴体の陰から時折見て取れる尻尾は、生々しい深緑色で爬虫類の鱗のような質感を持っており、その先端には間違いなく頭――蛇の頭がついている。真っ赤な舌を出している様子も伺うことができた。様々な動物のパーツが雑多に組み合わさったような奇妙な見た目。しかしその部位の繋ぎ目に不自然さはなく、それは確かにひとつの生命体だと認識できる。だが、これは動物なのだろうか。どうしてこんな大きな生物がベランダにいるのだろうか。見た目からして重そうなのに、何故ベランダの柵は潰れないのか。というか、言葉をしゃべった? 日本語? 聞き間違い? 様々な疑問が一気に脳を駆け巡った結果、頭が真っ白になった千代は、その異形に対し、思わず「誰」と、呟いた。

「鵺」

 その怪物は、含みを持たせるような重く低い口調で、そう答えた。どことなく不穏な響きを持つその声が発せられる口元には鋭い牙が並んでいた。

「幻覚?」

 暑さが見せた幻だろうか。はたまた夏休み明けの疲れの現れだろうか。千代は妙に冷静に、自分自身に尋ねるように声を漏らす。

「残念、実体」

 顎を上げ目を細め、表情豊かに、その怪物――鵺は言う。

「……化け物?」

「妖怪」

「妖、怪」

「そう定義づけたのは人間様だぜ。俺は自分のことを化け物だなんて思ったことはない」

 どことなく陽気な口調になる、鵺。猿の顔をした怪物が、顔をしかめたり、にやついたり、眉をひそめたりすることに、千代はまるで夢を見ているかのような浮遊感を抱いた。

「で、何?」

「冷たいな」

「その妖怪さんが何の用」

「惚れた」

「……は?」

「お前に惚れた。だから来た」

 鵺は、千代に対し至極真面目に返事をした。その言葉に、千代は困惑し言い淀む。

「……いや、あの」

「なんだ」

「……妖怪は妖怪に恋をしないの?」

 どこか現実味のない目の前の出来事に、その言葉に、思わず千代はそんな質問をする。何言ってるんだろう、私、と、疑問を投げた後で馬鹿馬鹿しくなる。

「大抵雌は不細工だからな。人間の女は美しい」

「ふーん……」

「お前、名前は」

「……千代」

「ほう、良い名前だ。百年前愛した女と同じ名前。思い出す、彼女は美しかった」

 鵺は目を細め、遠く過ぎ去った日々を思い返すように、しみじみとした表情を浮かべる。千代は自分の名前が褒められたことに、少しだけ嬉しいようなくすぐったいような気持ちになったが、化け物の価値観は人間と同じなのだろうかという疑問がよぎると、その喜びは薄れた。

「……何それ。暇なの?」

「ああ、暇だ。暇なくせに寿命が無駄に長い。それにこの現代に俺たちの居場所はほとんどない。が減っちまったんだ。嫌な時代になったもんだぜ」

「だからストーカーとかするんだ」

「女くらいしか楽しみがないからな」

 不思議と、怖さはなかった。意思疎通ができるからなのか、表情が人間らしいからなのか、それともあまりの非現実に感覚が麻痺しているからなのかは千代自身にも判らなかったが、奇妙なことにこの遭遇に彼女は順応していた。

 喉が渇いた、そう思った千代は、肩にかけたままだったスクールバッグを床に降ろし、手に持った缶ビールを開ける。小気味よい音が小さく響き、飛沫がプルタブを開けた右の人差し指にかかる。ビールの匂いがつんと、千代の鼻を突く。

 渇いた口、出ない唾を飲み込むようにこくりと喉を鳴らし、意を決する。狭い飲み口の先で揺れる液体を睨み、思い切って呷る。その独特の苦みを堪え、強張った表情で一気に流し込む。味は受付けなくても、その冷たさが、火照ったままの全身に沁み渡る。そういえばエアコンをつけるの忘れていたと、千代は思った。

「なんだ、お前、未成年がビールなんて飲むのか」

「別に、勝手でしょ……うぅ、マズ」

「不味いのに飲むのか」

「……じゃないと、みんなに馬鹿にされる、から」

 千代の友達の間では、大人に隠れてお酒を飲むのが流行っていた。高校二年生にもなるとお酒を飲んだりするのは普通のことだったようで、友達に流されるまま千代も缶酎ハイなんかを飲んだりした。秘密の飲み会は回を重ね、いつしか友人たちはみなビールを好むようになった。「やっぱりビールだよね」なんて、そんなところで背伸びなんかしなくたっていいのにと内心思いながらも、みんなについて行けていないことにどこか焦りも感じていた千代は、思い切って父親のビールで練習することに決めたのだった。

「ほう。そうか、なら」

 そう言って気味悪く笑う鵺の周囲の空気が、蜃気楼のように歪む。千代が目を凝らし、瞬きをした瞬間、鵺は二十代前半くらいのスーツの青年の姿に変化した。

「例えばこんな男を侍らせるのはどうだ? 馬鹿になんかされなくなるだろう」

「……えっ、あ、え?」

 千代の目の前には、ベランダの柵に気取って手をかける、清潔感のある青年。声質も、いかにもその青年が発しているような爽やかなものに変わっている。しかしその口調は間違いなく今さっきまで会話していた鵺のもので、千代は鵺が『変身』したのだと、受け入れがたいがそう考えるしかなかった。

「ん、同じ高校生くらいの方がいいか? それとも少し年増のエリート営業マンか?」

「なんでそんなことできるの」

「妖怪だからさ」


 缶ビールの容器から、結露で現れた水滴が一滴、側面を伝って、桃色のカーペットに小さなしみを作った。


「……ねぇ、ていうかさ、そんなところに居て、見られないの?」

 短い沈黙の後、千代が口を開く。

 平日昼間の住宅街、人通りが多いというわけでもないが、それでもこんな奇怪な巨体が二階建ての建物のベランダにいたら、通行人に気づかれないはずがない。徐々に現実の枠組みの中での思考を取り戻してきた千代は尋ねた。

「見えなくもできる」

 その疑問に、鵺はあっさりと答えた。そうして一瞬、千代の視界から、鵺は消えた。あれ、と驚いた瞬間、再び同じ場所に鵺は姿を現した。

「……妖怪だから何でもあり?」

「いや、そういうわけじゃない。俺だって所詮生き物だ」

「ふーん」

 呪われたりしないならそれでいいやと、千代は適当に返事をした。

「求愛だ。俺の女になれ」

 鵺が言う。鵺からすれば話を本題に戻しただけなのかもしれないが、千代は唐突だ、と思った。そして当然の如く、そんなの有り得ないと、言葉を返す。

「やだ」

「やっぱりこいつのことが好きなのか」

 その冷淡な拒絶に、鵺はまたしても変身した。

「!!?!?? は、せんぱ――、なん、で……」

 千代が通う高校の、男子の制服。ワイシャツのボタンは上ひとつだけ開け、ネクタイも少しだけ緩めている。そこからほんの少し覗く鎖骨。少し長めの髪、どことなくアンニュイな目元、千代の背丈より十五センチほど高い身長、捲り上げた袖から覗く細い手首……鵺が再び変化したその姿は、千代がつい数十分前、途中まで一緒に下校していた男子高校生――『先輩』そのものだった。

「さっき見かけた」

「最低」

 顔を赤らめながら、鵺に対し有らん限りの悪態をつく。自分の秘密を知られてしまった時のような恥ずかしさ。先輩との関係は、親しい友達にすら話したことがなかった。

「何がだ?」

「……最低」

 先輩。最近何かと仲の良い、一学年上の男子高校生。一緒にいることも、満更ではない。千代は彼に対して何となく、特別な感情を抱き始めていた。

「そうだ、こいつに憑りついちまえばいいのか?」

 いつも耳にする低めのトーンが、絶対にしないような口調でしゃべる。

「やめて」

「冗談だ。俺に憑依の力はない」

 鵺は元の姿に戻る。少女と妖怪は網戸越しに向かい合い、しばらくお互いの顔を見つめ合う。千代は鵺を睨みつけ、鵺はおどけた表情でそれを受ける。蝉が喧しく鳴き続ける。家の前の道を車の騒音が通り過ぎていく。踏切が規則正しい警報音を鳴らす。どこかから主婦たちの談笑の声が聴こえてくる。そんな穏やかな昼下がりの喧騒は遠く、六畳の部屋には静寂が流れる。

 空きっ腹に流し込んだアルコールのせいか、目の前の怪物に辱めを受けたせいか、千代はじんわりと、頬の火照りを感じた。


 静寂を破ったのは、「千代、お昼ご飯よ」という、階下からの母親の声だった。千代はそこで、お腹が空いていたことを思い出した。午後一時、少し遅めの昼食を取るため、千代は鵺を睨みつけたまま、手に持った缶ビールを数歩先の勉強机に置く。なんだかんだ言ってその怪物に近づくのは気が引けたため、窓を閉め鍵をする勇気は湧かず、ビールを置く際も随分と腰の引けた体制であった。その目線を逸らさないままゆっくりと後ずさりし、ドアノブに手をかける。

「部屋の中、入ってこないでよ」

 釘を刺すように鋭く言った千代は扉を開き、部屋を後にした。



 昼食を済ませた千代は、そのまま居間でしばらくテレビを見て時間を潰そうとしたが、主婦向けのバラエティー番組を見ている最中も、意識は数十分前の怪異のことでいっぱいだった。少しも内容が入ってこないテレビに見限りをつけ、ソファーから立ち上がる。床に寝転がって携帯ゲームをしている、同じく始業式で午前放課だったらしい中学二年生の弟の尻に軽く蹴りを入れ、居間の端にあるパソコン机に向かう。背中から聞こえる「なんだよねぇちゃん」という言葉を無視し、パソコンの電源を入れる。手持ち無沙汰に数十秒を過ごし、立ち上がったデスクトップでインターネットを開く。ホーム画面の検索欄に『ぬえ 妖怪』と打ち込み、エンターキーを押す。

 表示された検索結果の一番上、お馴染みのウェブ百科事典のリンクをクリックする。記事には確かにその『鵺』とやらが歴史ある〝妖怪〟として日本人に認知されているのだということが書かれていた。一通り流し見した後、こんなこと知らなかったと少し賢くなった気になる千代。しかしこれで問題が解決されたわけではない。パソコンの電源を落とし、おもむろに立ち上がる。はあ、と小さく溜め息を漏らし、階段へ向かった。


 どこか緊張しながら階段を上りきり、突き当たりの自室の扉に手をかける。耳を澄まして部屋の様子を探ってみるが、それらしい物音は聞こえない。恐る恐る扉を開くと、鵺はいなかった。千代はそのまま、自室に入って左手側にあるベッドに倒れ込む。仰向けになると、いつもと変わらない天井。桃色のカーペットに射す太陽光の反射で、どことなくピンク色に染まった天井の壁。

 鵺。あいつは何だったんだろう。もしかして私の、白昼夢だったのだろうか――

 千代は左を向く。小学校の入学祝いに買ってもらった勉強机の上には、たっぷりと汗をかいた缶ビールが寂しげに佇んでいる。昼下がりの柔らかな光が学習机に降る。埃がゆらゆらと漂う。

 そのまま左向きに身体をねじり、うつ伏せの体勢になる。両腕で枕を抱え込み、網戸越しにベランダから見える街並みをぼんやり眺める。少しだけ丘のようになった場所に建つこの家の二階からは、住宅の屋根や屋上が連なって見える。果てしなく続く灰色の凹凸、その先の先に、遠くぼんやり見えるのは高層ビルディングの群れ。

 ――東京。都会だなんて言われるけれど、別にそうとも思わない。それは私がずっと、ここで生きてきたからなのだろうか。十七年。馴染み深い街の風景。昔に比べて開発が進んだようだけれど、それでもそれなりに残っている緑の中、暮らしてきた。東京と言えども、中枢から少し外れたら、きっとどこも変わらないようなのどかな風景が広がっているんじゃないのかなぁ…………。



    *



 うつ伏せのまま、制服姿のまま、千代は居眠りしてしまっていた。枕元の時計を確認すると、もうすぐ六時になろうとしている。夏休みの不規則な生活習慣を、学校の再開によって正さなければならない彼女の今朝の睡眠時間は三時間だった。

 太陽はまだ沈むことなく、西陽が紅く部屋を染める。

「やっば……寝すぎた」

 寝起きの喉の渇きを満たしたく起き上がる。机には缶ビール。勉強机に敷かれた透明なデスクマットにはビールを中心に小さな水溜りができている。デスクマットに挟まれた乱雑なスクラップもいい加減整理しなきゃなと思いつつ、千代は右手で缶を持ち上げティッシュで水溜りを拭き取る。水溜りでぼやけていた中学校の頃の部活動の写真がはっきりと姿を現す。陸上部のジャージを着た女の子が四人、ピースサインで笑っている。千代は右から三番目。今とは違うショートヘアーで、手には賞状を持っている。懐かしさを覚えると同時にふと、あの頃みたいな、何か熱意のようなものがなくなってしまった今の自分のことを思う。高校で入った陸上部は、何だかうまく打ち込むことができず一年と経たずに辞めてしまった。

 何となくな毎日。何となくな関係性。何となくな生き方。不幸ではないけれど、でも幸せかと訊かれたら、別にと答えるしかないような日常。ウチは貧乏じゃないし、友達だっている。恋だって……、先輩とこれからどうなるかは判らないけど、良い感じなはずだし。

 それでも、何だか何もないような気持ちに、ふっと襲われる時がある。心が、空っぽになる時がある。その空洞は、誰も、どんな行為も、どんな感情も、埋めてはくれない。

友達も、先輩とも、何で関わってるのかと言ったら、何となくだ。何で高校に通ってるのかと訊かれたら、みんながそうしてるからだ。何で生きているのと言われたら、何となくだ、別に死ぬ必要もないからだ。

 恵まれているはず、きっとそうなんだけど、でも――――……


 指でそっと、デスクマット越しに写真を撫でる。写真に映る千代が持つその賞状には、小さく「二位」と書かれていた。

 次々と浮かんできてしまう雑念も一緒に流し込もうと、千代はビールの飲み口に唇をあてがう。缶自身も小さな水滴でしっとり濡れていたが、構わずに呷る。苦みが口に広がる。やっぱり不味い、と千代は舌を出す。何度飲んでも、千代はこの味を好きにはなれそうになかった。

「ぬる……」

 冷えていればまだ誤魔化せる味も、ぬるくなったことで露わになる。こんな飲み物私の人生に必要ないと、千代は思う。いつかこれを美味しいと思う、オトナってやつになるのだろうか、と、いずれやってきてしまうであろうその季節に、彼女は少しだけ、思いを馳せた。

 夕飯まであと一時間くらいだろうか。明日から無慈悲にも始まる授業の予習なんてする気にもなれず、千代は部屋に入ってすぐ右手側にある本棚から、漫画の単行本を手に取る。先日古本屋で全十二巻をまとめて買った、今彼女の中での一番のトレンド。お小遣いはそこそこもらっているが、おしゃれやら交友やらにもお金をかけないといけない女子高生の彼女にとって、一冊百円で買える古本はありがたいものだった。立ち読みした一巻があまりに面白すぎたため、衝動的に全巻を掴みレジに向かったその日のことを、千代は思い返して小さく笑う。買ってすぐ一通り読んだが、何となくもう一度読み返そうと千代は一巻から読み始める。

 その漫画の内容は、一言で言えば非日常。退屈な毎日を送っていた主人公が、ひょんなことから特別な力を持つ少女と出逢い、それまで知らなかった世界へ飛び込んでいく物語。

 一度読んだその物語に、またしても惹き込まれてしてしまう。何かを求めるように、その登場人物になりきるように、夢に溢れた世界を冒険するかのように――

「あ、そっか」

 読み進める手をふと止めた。半分開かれた口から、静かに言葉が零れた。

 千代は、何故自分が鵺と出遭った時、大声も上げず驚きもせず、逃げもしなかったのか、その理由に、気がついた。

「非日常が、ほしいんだ」

 何となくなんかじゃない、物語。私は、それが、ほしいんだ――



 読み終わる頃、辺りはすっかり暗くなっていた。さっきまで夕暮れだったのが嘘のようだ。季節もこんな風に、気づかぬうちに変わっていくのだろうかと、千代は少しテツガク的な事を考えたりした。「夕飯よ」という母親の声も、今日はまだ聞こえてこない。お昼が遅かったから、夕飯も遅めに作り始めるつもりなのだろうか。

 全十二巻の二周目を終え、一息つく。光に集まる羽虫が入ってくると鬱陶しいからと、網戸のままだった部屋の扉を閉めるべく立ち上がる。

「う、あ」

 窓枠に手をかけた瞬間、視界に飛び込んだ巨大な影に千代は思わず肝を冷やす。

 鵺。昼間と同じように、ベランダの手すりに器用に掴まって、千代の部屋を覗き込んでいた。部屋の明かりが鵺を不気味に照らし出し、彼女が恐怖感を抱くほどには、昼間とは違い恐ろしい雰囲気を醸し出していた。

「よう」

「夜見ると、流石に怖い」

「なあに、いずれ早く逢いに来てと疼くようになるさ」

「……自信家だね」


 千代は、思い切ってベランダに出た。何故だか不思議と、大丈夫だろうと、思ったからだった。虫が入らないように窓を閉め、少し緊張しつつ鵺の隣に立つようにして手すりに寄りかかる。

 夜の風は少しだけ涼しく、確かに八月は終わったのだと、千代は思った。右斜め上に目線をやると、鵺越しに月が見える。月明かりを背にこちらを見つめる鵺の身体は、近くに立ってみると想像以上に大きく逞しく、千代は圧倒された。鵺の全長は、大きさで言えば動物園のライオンより一回り大きいほどではあるが、そのたてがみの異様な長さによって、それよりもさらに大きいように錯覚させ、より怪物的な印象を抱かせる風貌となっている。

 よく見たら何だかカッコイイ、と千代は思った。もちろんそのカッコイイは先輩の顔を見た時に思うそれとは違うけど、と、誰にするでもない弁明を心の中で呟く。


「ねぇ、空、飛べる?」

 千代は何気なく、訊く。

「容易い」

「……私を背中に乗せて飛ぶのは?」

「もちろんできる。望むなら世界中どこにだって連れて行ってやろう」

 その言葉に千代は、しばし考えを巡らせ、やがて、小さな声で言う。

「……じゃあ、乗せて」

「俺の女になるか?」

 鵺はいやらしく陽気に、言葉を返す。

「……それカンケーない」

「ふん、まぁいい。惚れさせてやろう。俺しか見せてやれない景色を以て、人間の男に満足できない女にしてやる」

「……何それ」


 千代は鵺の背中に乗り込む。胴体の体毛は見た感じそのままに硬質で、ごわごわとした手触りをしている。夜風に靡く首回りのたてがみが、千代の頬を撫でる。その長いたてがみに、全身が包み込まれるような独特の感覚を千代は抱く。それは何故だか安心感にも似ていた。いつか飼育体験でウサギを抱えた時のような温もりが、両手で掴んだ鵺の首筋から伝う。妖怪も動物みたいな体温なのかなと、千代は思う。

「さぁて、行こうか」

「……みんなに、見られない?」

「勿論」


 ひょう、と一声鳴いて、ベランダの手すりを蹴って、鵺は、音もなく、飛んだ。強い風が、千代の全身を迎えた。

 宵闇を駆ける巨躯。雲ひとつない夜空は蒼く晴れ渡り、月明かりが静かな住宅街を照らす。いつも部屋から眺めている風景とは違った景色に、千代は感動した。遠く無機質に光る高層ビルの群れも、何だか悪の組織の本拠地みたいに見えた。

 千代は、心がすっと澄み渡るような、興奮と清涼感を抱く。心のどこかで、ずっとずっと求めていたものは、もしかしたらこういうものなのではないかと、飛び込んでくる知らない景色に目を見開き、瞳を輝かせる。

「どうだ千代! 俺だけが見せることの出来るこの景色は!」

 鵺が笑いながら、背中に跨る小さな少女に声をかける。少女はその言葉を受けて、大きく息を吸い込む。


「……最高! 悔しいけど、最高!」

 千代は夜空の真ん中で、向かい風の轟音に負けないくらいの大声で叫んだ。

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