或る文學少女の手紙

 季節はすっかり初夏です。照りつける陽射しに茹だる暑さや、風の匂いや、立ち籠める草いきれが、懐かしい何かを運んでくるような気がします。脳裏に浮かぶ、いつかの情景があるような気がします。それはもしかしたらもう、記憶ではなく、ぼやけて、物語のようになってしまった曖昧な何かなのかも知れません。ですが、せっかくなので今日は、あの日、目の前の小さな教室が全てだった頃のことを、少しだけ、気まぐれにお話ししようかと思います。



 十五歳。今となっては懐かしいセーラー服を着て、私は同じような毎日を繰り返していました。好きなことは、本を読むこと、高い場所から景色を眺めること。苦手だったのは、誰かに合わせて作り笑いをすることや、嘘をつくこと。よく言えば自分の世界があって、わるく言えば……人見知り? そんな私だから、教室の中で楽しく笑い合えるような友達は、小さい頃からほとんどいませんでした。(ほとんど、ね? 大好きな人たちは、ちゃんといますよ)

 中学生、思い返せばあまりに幼い季節。狭い世界が、目の前の閉じた人間関係が全て。小さな社会が既にそこにはあって、うまく順応できない人や、小さな失敗をしてしまった人は、残酷にも無邪気な悪意に苛まれることになります。私もまた、先ほど述べたような性格のために遠ざけられたり、時に陰口などを言われることもありました。


 きっかけも、きっと些細なことだったのでしょう。なんとなく教室の中に広がる「あいつとは関わるな」という空気。その標的になってしまった子と話したばかりに、ある時私もその陰湿な悪意に晒されることになりました。確かに精神的にくる部分はあったけれど、縋りつかないといけないような関係性は特になかったから、私は特別どうとも思わなかったけれど、標的になってしまった彼女は違いました。つい先日まで、クラスの中でも活発な子たちの輪の中にいて笑っていて、そこから弾き出されるのは、きっとつらいことだったんだろうなって、思います。何があったのかは今でも分からないけれど、でもきっと、今になってみたら大したことではないのでしょう。

 私は、いやでした。その子が私に対して何か嫌なことをしてきたわけでもないのに、蔓延する空気を伺って接し方を変えるなんていうくだらないことをしたくなかったのです。ただ、それだけだったのに……当時ながらに「ああ、なんて理不尽なんだろう」と思ったことを、覚えています。理不尽。不条理は、常に生の隣に在ります。

 実際、十代前半なんてものは、周りの目を気にして自分の立ち位置をよく変える、変えざるを得ない年頃なんですよね。自分なりの考え方や、意志というものが形成されていく最中の不安定な時期なのです。誰も責めることなんかできないよ、とは流石に言い過ぎかも知れないけれど、何割かは、仕方のない部分もあるのだと思います。もう当事者じゃないから、こんなことが言えるのかも知れませんね。



 ある日の昼休み。放送委員をしていた私は、お昼の放送のために放送室に向かっていました。私の担当は、水曜日。給食は基本的に必ず教室で食べる決まりがあったので、昼休みの廊下はみんなが食べ終わるまではとても静かです。そんな静かな廊下を歩いて放送室へ向かうわずかな時間は、なんとなく心が軽く、憑き物が落ちたような気持ちになれました。教室の空気って、やっぱりどこか重苦しい。班員で机を向い合せて食事するなんて、そんなのおかしい、だって別に、仲良しでもなんでもないもの。


 さて、静かな廊下に、響く声がありました。いつも左の手首を派手な髪留めで隠しているあの子が、保健室で何やら叫んでいたのです。

「離してよ、死にたいの」

 入り口の扉の小窓から見えたのは、カッターナイフを握って暴れる彼女。保健室の先生は必死に止めていました。私は思わず立ち尽くして、そのやり取りを、その悲痛な言葉を、そっと壁越しに聞きました。


 お昼の放送を終えて、静かになった放送室で、私はいろんなことを考えました。死にたいと泣き叫んでいた子は、地味でもいじめられっ子でもなく、校則を破って髪の毛を染めたり、勝手に学校をサボったり、深夜の公園で悪い高校生と遊んでいるなんて噂を聞くような、そんな女の子でした。

 ああいう子でも、死にたいなんて思うんだなぁと、やけに親身に思いました。いや、ああいう子なんて言うのは、失礼かもしれませんね。だってきっと、大なり小なりあの頃の私たちが、似たように誰でも抱く感情なんですから。友人、家族、部活、勉強、恋愛。たったそれだけのことが、あの頃の私たちにとって全てで、同時に世界の全てでもありました。天気がどうであろうが、遠い国で戦争が起きようが、知らない誰かが死のうが、そんなことよりももっともっと大切なことが、目の前にあったんです。将来でも、未来でもない、ただ目の前にある「今」という瞬間だけが全てで、その脆くて変わりやすい現状に必死にしがみついて、明日のことだけを想ったのです。

 あの子は、今どこで何をしているのでしょう。心の底から笑えていることを願っています。



 校舎の屋上から、飛び降りた男の子がいました。夏休みが始まる、ほんの少し前のことでした。窓際の席の私が、何気なく眼下のプールサイドの木漏れ陽に想いを馳せていた時のことです。

 彼はちょうど、私の教室の真上から飛び降りました。

 私は、地面に辿り着くほんの少し前の彼と、真っ逆さまに落ちていく彼と、目が合いました。合ったと思います。でももしかしたら、それは私の記憶違いなのかも知れません。

 遺書なんてものは、残されていなかったようです。隠された謎なんてものも、別にありませんでした。きっと、人が死ぬということは、そんなにドラマチックな事ではないのです。

 彼は、いじめられっ子でした。クラスは違ったので、詳しいことは分かりませんが、3年のクラスでは、かなり酷いいじめにあっていたようです。なんて淡々と書くと、なんて冷徹な人間なんだと思われてしまうかも知れないけど、私、本当にショックだったんですよ? しばらくは何も考えられなかった。1年生の時同じクラスだった彼、特に何か親しく関わったわけじゃないけれど、すごく優しい笑顔をする子で、お人好しなんだろうなぁって思っていたから。私はあんな風に笑えないから、すごいなぁって。でもそんな、罪のない命がひとつ、どうしようもない苦悩と絶望の果てに消えてしまったのだと思うと、今でもやるせない気持ちになります。同時に、まるで他人事のように(とはいえ事実、他人事なんですけどね)、どこか冷静に、楽観的に、私だったらどうしていたんだろうとか、屋上から飛び降りるって、どんな感覚なんだろうとか、考えたりもします。

 苦しい状況にある時、中学生という存在は、なんとか目の前の世界だけでどうにかしなければと考えます。その閉鎖的な空間の外側に、いくらでも世界が拓けているとはとても想うことができません。そこへ逃げ出そうなどという考えにも及びません。それは当たり前のことです。そんな想像力を、普通に過ごしていたら気づけるはずもない。たかだか十五年ぽっちの人生で(私ッたら、偉そう)、そこに至ることができるはずがないのです。私もそうでした。だから狭い世界から抜け出すため、自ら「死」を選ぼうとすること、それは、少しずつ広がっていく世界を想うことのできない青さが導く、ひとつの正しい選択肢なのかも知れません。いえ、その命を自ら絶つことを肯定するわけではないのです。仕方のない想像力だと、言いたいのです。そこに私はちゃんと「でも多分、生きていた方が、楽しいよ」と添えます。生きていたら、きっと、いろんな可能性があるのです。ましてや十代、いくらでも、自分の道を(その気になれば)変えることができます。それは、私自身の経験を以て、主張したいことです。(長くなるのでここでは話しません!)

 孤独とは、絶望とは、なんでしょう。多分それは相対化できなくて、誰かと比べて幸せだ、不幸だなんて推し量ることはできないものだと思うのだけれど……。どんな人にも孤独があって、どんな人にも絶望があって、だから「私だけが不幸だ」などとは考えない方がいいですよね。でも、そういった境遇にいる時は、周りのことは見えなくなりがちなのかも知れません。見えたとしても、どうしても自分と比べてしまうものなのかも知れません。

 恥の多い生涯を送って来ました、なんて、十代が口にしたとして、「大人」から見たら笑いものなんでしょう。でも本気なんですよね、彼らにとっては。(彼ら、なんて、偉そう!)


 青い死は、少なからず私たちに静かな衝撃をもたらしました。

 鬱屈した何かが蔓延していたあの学び舎の空気が、少しだけ変わりました。それは、ある意味では単なる非日常だったのかも知れません。あの事件が起きてからの何日かは、誰もがなんだかふわふわしていましたし、思い出そうとしてもなんとなくぼやけています。

 本格的な高校受験の時期に入り、少しずつそういった陰湿さも減っていたように思います。(もしかしたら私がそう見えていただけで、苛まれている当事者にとっては相も変わらず続いていた苦しみがあったのかも知れませんが)

 今となってはその感覚はもう、曖昧になってしまいましたが、それ故にそう思えるのでしょう、冬の寒さが緩み出して、静かに春になってゆく季節の、誰もいない教室の空気などは、それはそれは美しいものでした。時間が止まったような空間で、早く卒業したいのに、なんだか少しだけ卒業するのが寂しいなぁなんて、思ったような気もします。

 そうして私は高校生になりました。それなりの進学校、同じような学力のクラスメイト達は幼い対立やくだらないいがみ合いなどすることなく、楽しい毎日を送ることができました。高校時代の楽しい思い出はここでお話するにはあまりにたくさんありすぎるので、今日のところは割愛させてもらいますね。



 さて、私は二十歳になりました。なってしまいました。十代という季節は終わってしまったのです。あの青い季節は本当にあったのでしょうか、なんて。最近ますます時間の進み具合が早くなっているような気がします。

 そうそう、成人式の同窓会で、私、思ったんです。ああ、誰といようがどう関わろうが、嫌われようが好かれようが、きっと元々中学校なんかに、私の「居場所」なんてものはなかったんだなぁって。それは、わりと前向きな発見でした。だって、考えてもみてください。ただ近くに住んでいるからってだけで、集められた人たちですよ? 友達なんかできなくったって、ちっとも不思議なことじゃないんです。居場所なんて、必ずしも狭い中学校の中にある必要はないんです。きっと、それからいくらでも見つかっていくものなんですから。

 あの日の私には、小説が、文学が、物語がありました。帰り道に見る夕焼けや、綺麗な花や、青い空がありました。本当の友達は、ずっと隣にいてくれたのは、きっとそういったものたちなんです。そして、多分、それでいいのです。だから私はあの日々を生きていくことができました。今に繋がるものを見つけることができました。どうしようもない日々だったけれど、でも思い返せば、あの日々があったからこそなんだよなぁって思います。そうして中学校を卒業して、幼い自分が知らなかった、知れなかったようなことを少しずつ学んでいって、考え方も行ける場所もどんどん広がって、世界は死を選ぶにはあまりに惜しいほど、楽しくて美しいものだと気づける日がくるのです。それはもしかしたら人によっては私よりもっと後に気づくことかも知れないし、無意識のうちにとっくに気づいているものなのかも知れないし、気づく前に死んでしまうかも知れないし、一生気づけないものなのかも知れなかったりするけれど、でも少なくとも私にとっては、この世界は生きるに値する、素晴らしく美しい場所なんだと思います。もちろん醜さも穢らわしさもたくさん目の当たりにしてきたけれど、でもやっぱり綺麗なものの、美しいものの力強さが、たくさんたくさん輝いています。

 きっと今も、死の目の前で悩んだり、教室の隅で哨戒する少年少女たちがたくさんいるのでしょう。私もかつて、そのひとりでした。少女ですって、ふふ、私も少女だったのね。


 高校生が終わると、それまでただ一瞬一瞬を全力で、無邪気に過ごしてきた私たちは唐突に、「将来」「未来」なんてものを考えるようになります。そうならざるを得なくなります。ある人はもう仕事をして、自分でお金を稼いでいます。ある人はもう結婚をして、子どもを育てたりしています。いろんな生き方があります。かつて同じ空間で、同じように生きていた人たちが、それぞれの生を探してゆくのです。まだまだ私も「子ども」なのかも知れないけれど、でも、あの頃よりは「大人」になった、いや、なってしまったんだろうなぁなんて思いながら、青い空を割る飛行機雲の行き先に、目を細めたりします。


 卒業してからたった二年足らずなのに、すっかり高校生という存在が可愛らしく見えてしまうほどには、私はどうやら成長してしまったようです。今思い返せばもっといろんなことができたような気がするし、たまにそんな後悔が呪いのようになって夢枕の私を苛むこともあります。でも、お酒も飲めるようになったり、友達と時に思い出話に花を咲かせたり、自分一人で遠く知らない場所へ旅をすることができるようになったりして、思春期が終わるってことも、大人になるってことも、そこまで悲しいことじゃないのかなって、思ったりもします。

 遠く、もう手の届かない日々のことを思い返したりするのは、果たして滑稽でしょうか。懐古とは、不毛なのでしょうか。

 時折、「いつまでも昔の事ばかり言っているんじゃない」と、知ったように説教する人がいます。でも、私は思うんです。過去に囚われることと、思い出と生きることは、違うんだって。

 誰にだってきっと、永遠にしておきたかった瞬間が、あると思います。でも、変わらないものなんてなくて、ただ、一さいは過ぎて行くのです。でもそれは、諦観ではありません。達観でもありません。永遠にしておきたかった瞬間を、形に残しておくことはできるのです。その記憶の中に、色褪せないように留めておくことは、きっとできるのです。

 思い出は、大概美しいものに変換されてゆきます。人間は、苦しいことは忘れるようにできているからです。そして、そうやって乗り越えた過去は、必ず今に繋がっていて、そうしてきっと、未来をも、照らしてくれるのだと、私は思うのです。少しずつ、世界の残酷で理不尽な「常識」が垣間見えていく季節に立って、「世の中とはそういうものだから」と知ったように達観して、妥協していくことが大人になるということだとは、私は思いません。それは確かな不条理ですが、誰かの受け売りで折り合いをつけるのではなく、ひとつひとつ向き合いながら、私は答えを探していきたいと思います。……なんていう私の信条は、決して間違っていないと思うんですけど、どうでしょう?



 ああ、つらつらとお話していたら、こんなに長くなっちゃった。

 もし、私なんかの話がもっと聞きたかったら是非、お返事くださいね。自慢できる青春も、いっぱい経験したんだから!

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