第9章 4

あんまり簡単に見つかったものだから、最初はよく似た別人かと思ってしまった。けれど何度確かめたって、彼女は間違いなくそこにいて、噴水が滴を散らすのをぼんやりと眺めている。


ここで気の利いた一言でも言えれば、感動の再会に印象的な要素が一つ加わるのだが、あいにくグリーシャは、それほどの機転を利かせられない。というか、今の彼にとっては、ごく一般的な時候のあいさつですら、まともにこなせるか怪しいものである。許されるなら、両腕を振り回して快哉を叫びたい気分なのだ。


彼は先走る気持ちを抑え、ごく慎重に、ミミへと近づく。あまり遠目から彼女へ呼びかければ、ひょっとすると逃げられてしまうかもしれない。せっかく再会できたのに、言葉も交わせずまたお別れなんて、そんなの絶対ごめんである。


そうして一つずつ歩みを進め、ついに手が届く距離になって、グリーシャが腕を伸ばしたまさにその時、偶然か、あるいは何かを感じ取ったのか、ミミが噴水から目をそらす。少しだけ宙をさまよった視線が、見事にグリーシャを捕えた。


 目が合う。思わず足を止めてしまうグリーシャ。「あ」と一言漏らして固まるミミ。


 小動物が威嚇しあうような、変に切迫した均衡。それを破ろうと、グリーシャが一歩を踏み出す。瞬間、ミミは弾け飛ぶように逃げ出した。慌てて追跡の準備をするグリーシャ。しかし幸い、彼が走り出す必要はなかった――ミミが見事にずっこけたのだ。それはもう、べちゃっと、顔面から。あまりの痛々しさに、思わず「うわあ」と呟いてしまう。


 暫く動かないミミ。どこかけがをしたのかと、不安になって覗き込む。と、彼女は勢いよく体を捻って立ち上がると、中腰でこちらに向かい合った。表情は警戒感に満ち、また頬はリンゴみたいに赤くなっている(もっとも、これは転んだ恥ずかしさゆえかも知れない)。


何となく、自分が悪人になった気がするが……まあ、彼女が望もうと望むまいと、するべき事は決まっているのだ。あとは自分に、少しの勇気があればよい。


 一歩、前に踏み出す。


「やめて。こないで」


 ミミが体を強張らせる。もちろん無視して、一歩進む。


「言ったでしょう、貴方の事なんて大嫌いなの」


 無視、あと三歩。


「も、もう二度と顔も見たくないの! 本当なんだから!」


 あと二歩。彼女の顔がみるみる歪み、涙が溢れて白い頬に零れ落ちる。


「だから! 来ないでって言ってるのに!」


 あと一歩を、大股で飛びこして。グリーシャは、ミミの体を掻き抱く。


暖かい体温が、彼の胸に伝わる。自分の心臓は限界まで高まって破裂しそうなほどだが、今ならそれも構わない。夢ではないのだ。彼女が、ここにいる。


「……嫌い。グリーシャなんて嫌い! 大嫌い!」


 駄々をこねる子供のように、ミミがグリーシャの腕の中で暴れる。彼女は泣きながら、嫌い、嫌い、と、ただそれだけを繰り返す。


だから、グリーシャは、彼女に告げる。


「好きだ」


 ミミの体が、震えた。ライフルで背中を撃たれたってそうはならないだろうというくらいの大きな震えが、彼女の全身を駆け抜け、グリーシャに伝わる。


「好きだ、ミミ。誰よりも、おまえの事が好きだ」


湧き上がった言葉をそのまま伝える。気持ちを口にするたびに、感情がどんどんと強くなって、グリーシャの背中を押す。全部は受け止めて貰わなくたっていい。せめてひとかけらだけでも、伝わればいい。


「ミミ、好きだ。何度だって言う。お前のことが好きだ」


 グリーシャの告白を聞く彼女の吐息は、喉から絞り出すように切なげで。だからきっと、まだその瞳には、涙があふれているのだろう。


「……グリーシャっ、のっ……ばかっ……」


ひどく苦しげな彼女の声は、その胸中をグリーシャに突き立てているようだった。彼は何も言えずに頷き、その拍子、顎がミミの頭に乗る。腕の中の彼女は、何かを言おうとしていた。けれど、口を開いて息を吸っても、言葉が詰まって出てこない。そしてまた必死に息を整え、口を開き、しゃくり上げて口を閉じ。そんな事を、何度も何度も繰り返して。


「……どうしてっ……一緒に……、いてっ、くれないの……?」


 やっとのことで、ミミは告げる。決まりきったことだけれど、それでも、もう一度だけ、確かめずにいられない。悲しい未練に囚われた彼女の姿が、グリーシャの胸を締め付ける。でも、違うのだ。今はまだ、涙にふさわしい場面じゃない。彼女にそれをわかってほしくて、グリーシャは言葉を探す。


「……なあ、ミミ。俺たちは、まだ子供だ」


 ミミが、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げて、こちらを見つめる。透明な水滴が、彼女の長いまつ毛に乗っていた。


「子供だから、自分の手が届く場所しか見えていない。けれど、いつかは背筋を伸ばして、顔を上げて、遠くにある場所だって見つけられるようになると思う」


今ここにあるものだけが、全てじゃない。秋の木々が赤く染まった葉を落とし、丸裸で冬を過ごそうとも、幹の芯は少しずつ、春への準備を進めている。


「だから、もう少しだけ、待とう。そして、俺たちは大人になる」

「……わっ、わからない……わからないっ……」


 ミミが、体をよじり、嫌々をする。それは、決してグリーシャの腕から逃れようとするのでなく。体をこすり合わせ、お互いの存在を確かめるように。グリーシャは成すがまま、彼女へその身を預ける。ミミは泣きながら、これで終わりなんて嫌だと、そういう意味の事を、何度も、何度も言う。声は小さく、けれどはっきりグリーシャに伝わって――一瞬、甘い誘惑が頭をもたげる。彼女との逃避行。何度も何度も夢想した、綺麗な物語。しかし、それは捨てないといけない。『最後』に、二人、笑って立つために。


「ミミ。終わりじゃない。歩いていけば、いつかまた、きっと道が交わる。時間は掛かるかもしれないけど――」


 そこから先は、言葉にしない。「お別れ」だなんて、今の二人にはふさわしくないと思ったから。『終わりは、もっとずっと先にある』。それさえ覚えていれば、きっと大丈夫。


 長い時間、二人はその場に立ち尽くしていた。ミミは柔らかい頬をグリーシャの胸に預け、彼の服を涙の染みで染めていく。グリーシャは彼女の背をさすりながら、空を見上げる。いわし雲が、高いところで風を受け、ゆっくりと形を変えていく。


 ふと、胸の中でミミが動いた。彼女は俯いたまま、ゆっくりと、グリーシャの腕の中を泳ぎ、姿勢を変えていく。


「……ミミ、」


 グリーシャの言葉を、ミミの細い人差し指が遮った。彼女の肌は、指先までしみ一つない。空に浮かぶ雲を写し取ったように、清浄な白。


「……グリーシャ」


ミミのまなじりに溜った水滴が、音もなく頬を流れ、滑らかな肌に涙の通り道をひとつ増やした。彼女は両手をゆっくり握り、また開き、深呼吸をして息を整える。


「お願い。もう一度だけ、貴方の気持ちを聞かせて」


ミミは、まだ流れきっていない涙を、人差し指でぬぐう。そして、それが最後の一粒。もう、彼女は泣いていない。


「そうしたら、きっと、待てるから」


 ミミは、まるで宝物をねだるかのように、力を込める。その決意を、悲しいと思ってはいけない。だから自分の答えは、寂しさを押し込めて、明るい口調で。


「何度だって言うよ。俺はミミが好きだ。それさえ忘れないでくれれば、あとは全部捨ててくれてもいい」


ミミを抱く腕に力を込める。彼女の細い指が、彼の頬を撫でた。


「……最悪ね。恥ずかしい事この上ないわ」

「お前こそ」

「……待ってるからね」

「ああ。迎えに行く。いつか、必ず、どれ程時間が経ったとしても」


 ミミの体を、優しく離す。たとえ彼女が胸の中に居なくても、グリーシャにとってのミミは、きっとすぐそばに居てくれる。だから、辛くはない。


「……途中まで、一緒に。いいでしょう?」


そう言って差し出されたミミの手のひらを、グリーシャは静かに取った。視線を前に、一歩踏み出す。


暖かい日差しの中、グリーシャは大きく息を吸う。耳を澄ますと、噴水から湧き出た水が、さらさらと清浄な音を広場に響かせ、その合間に子供の笑い声が楽しげな色を添える。


もう、彼の心に曇りはない。茨の壁に向かい合うこの町にも、穏やかな日があるように。自分達だって、きっと。


ふと、空を見あげる。数羽の雀が群れて目の前を横切り、広場へ降り立つ。彼はその影を目で追い、雑踏のまにまに別の見知った動物がいるのを発見する。


竜だった。小さな竜が二匹、鞍を背負って広場の端に座っている。


グリーシャは、その光景に、なんとなく運命めいたものを感じる。ミミと初めて出会ったとき、彼は竜の背に跨っていた。そして、今このとき、再び竜が目の前にいて、二人を待ち受けるよう、広場の一角に坐している。


隣のミミを見る。彼女もグリーシャと同じ想いでいるらしい。こちらの視線に気づくと、首を傾げて「あっち、行きたいわ」と呟いた。


既に夕暮れの色が見え隠れしているが、日暮れまでは多少の時間がある。グリーシャはミミの手を引き、ゆっくり竜の傍らへと歩み寄っていく。


二匹とも人に慣れているようで、直ぐ目の前に立っても暴れる様子はない。首筋を撫でると、鼻先を二人の頬にこすりつけてくる。


くちばしの硬い感触を手に感じながら、しばし戯れていると、遠くに飼い主らしき人影があって、グリーシャ達へと近づいてきた。グリーシャは目礼をし、そして気付く。


「ねぇ。グリーシャ。あれって多分……」

「……警官だな」


 彼らは自分たちの竜に手出ししている不届きな若者を成敗すべく、居高な態度でこちらを睨んでいる。広場の逆端から歩いてくるのでまだ遠いが、すぐに手の届く範囲になるだろう。そうすれば警官はグリーシャ達を尋問するだろうし、尋問されればボロが出る。


 率直に言って、危機であった。この期に及んで公権力に拘束ともなれば、全部が台無しである。しかし、不思議とグリーシャに焦りはない。横のミミも、ただ楽しそうに腕を後ろで組んでいる。


だって、そうだろう。二匹の竜に、二人の竜騎兵、そして追手だなんて。


「まるで冒険小説の一場面ね?」


 ミミの言葉に、グリーシャは笑う。本当に、その通りだ。一筋縄ではいかない最後。まあ、それもいいじゃないか。カーテンコールは、少しくらい派手なほうが良い。


 さあ、これだけお膳立てして貰ったのだから、もはやするべき事は決まりきっている。グリーシャはいたずらっ子の気分でミミの手を取り直す。彼女はこちらの意を得て背筋を伸ばし、貴婦人の振る舞いでもって付き人の補助を受け、竜に跨った。


 二人の思わぬ行動を見て、頭に血が上ったらしい警官の一人が駆けてくる。グリーシャはそれに一礼し、自身ももう一匹の竜に跨ると、手綱を握った。


 ミミに身振りで合図をする。彼女はひらりと手を振り、準備万端であることを示す。腹を蹴り、口笛を一つ吹く。それを号令に、竜は嘶いて羽ばたく。赤と青の混じる、綺麗な色に染まった大気が、二人を待ち受けている。その中に、勢いよく飛び込んでいく。


空へ。グリーシャは上を向き、彼方に浮かぶ雲の連なりを目指す。あっというまに地面が遠くなり、それでもまだ竜は上昇していく。グリーシャのすぐ横、羽の触れ合うような距離にミミが居る。絡み合うように、無邪気なステップで廻旋曲を踊りながら、二人は夕焼けへと吸い込まれていく。


遥か眼下、パウルブルグの広場で、警官が悔しそうに地団太を踏んでいるのが見える。グリーシャは小さく手を振って、それに答える。


今、グリーシャとミミは、ダンスホールにいた。広い、広い、床も壁もないダンスホール。夕日の照明を浴びて、鳥の群れを観客に、心ゆくまで踊り倒すことのできる場所。


「ねぇ、グリーシャ! 私、今最高の気分!」


 ミミの声が弾んで、グリーシャのステップを導く。不器用で、不恰好で、まるでなっていないダンス。けれども、二人にはそれで十分だ。高く、高く、空の彼方を目指して、踊りを覚えたての子供みたいに、気の赴くまま。ひたすらに楽しく、心地よい時間。彼女と二人でなら、このままいくらだって上っていける気がする。


けれど――それはやっぱり気がしただけで。空にだって、果てはある。二人は見えない天井に到達し、そして、最後の一曲が止んだのを知る。


まだまだ踊り足りないけれど、もう時間だから。さあ、ホールを離れよう。体を離して、一礼をして。


雲はもう、グリーシャたちのずっと下に浮かんでいて、絨毯のように地面を覆っている。


高く、高く飛んでいるのに、風は不思議なほど凪いでいた。グリーシャは、丸みを帯びた水平線を眺めながら、小さく呟く。ホールの給仕に導かれ、出口に集まった客たちが、そこで交わす決まり文句。他愛のない、約束の言葉。


さようなら。いつかまた、どこかで逢いましょう。


いつのまにか、グリーシャの頬を水滴が流れていた。それを乱暴に平手で擦る。


せめて、今くらいは笑顔でいたいから。悲しい別れには、したくないから。


「――そうだ」


 グリーシャは、思う。さようならを言う代わりに、約束をすればいい。二人が、笑顔で別れるために。またいつか、どこかで逢うために。


「次もまた、旅をしよう」

「旅?」


 彼女の一言ずつを、グリーシャは心に刻む。澄んで美しい声を、忘れないでいたいから。


「そう、旅。世界のいろんなところを巡って、いろんな人たちに会って、いろんなものを見る。俺と、ミミの、二人で」

「……もう一度?」

「もう一度。今度はもっと落ち着いて。せめて警官には追っかけられない程度に」


 それを聞いて、ミミは静かに笑う。彼女の頬は夕日に照らされ、黄金色に輝いている。

「良いアイデアね。とても」


 もう一度、小さく「……とても」と繰り返した彼女は、一瞬だけ目の端ををぬぐうような仕草をする。


「じゃあ――準備ができたら、手紙をちょうだい?」


 小首を傾げて、グリーシャを見る彼女は、目の覚めるような笑顔で。だからグリーシャも、笑っていないといけない。


「ああ、出すよ。必ず」


 それだけ言えば、十分だった。あとはもう、言葉にする必要なんてない。


ミミの竜が近寄り、グリーシャの目前に、彼女の手のひらが差し出される。彼は腕を伸ばし、それを握る。人肌の温かみがゆっくり伝わる。


太陽は西へ沈み、雲の輪郭が音もなく夕暮れの色を吸い込んでいた。空を見上げれば、気の早い星が中天に瞬いて、夜を告げている。じきに、月も上るだろう。今日の日が、少しずつ終わりに近づいていく。


どこか遠く、鳥の鳴き声が空にこだまする。その群れは二人のはるか下を飛び、朱色に染まった大地へ、深く、濃く、シルエットを映し出している。


かつて人は、黄昏時に別世界への道を見たという。今ならグリーシャにも、そう思った人の気持ちがわかる。きっと彼らは、この光景があんまり美しすぎて、常世のものとは思えなかったのだ。


空の赤みが、絵具を薄く引くよう、深い蒼穹の色へと塗り替えられていく。グリーシャはそっと、ミミの手を放す。


彼女の指が、何かを求めるよう、僅かに揺らめく。それを見て、グリーシャはもう一度、腕を伸ばしたくなったけれど……止めておこう。次にとっておかないといけないから。


遠く、地平線へかかる黄金の網みたいな日の残滓を見つめ、手綱を引く。グリーシャはもう、ミミのほうは見ない。彼女もきっと、彼を見ていない。


 秋の空は信じられないほど澄んでいて、遠くに連なる山々がはっきり見えた。その上にかかる茜色の雲は、やっぱりこの世とは別の場所から湧き出たのだろう。だからグリーシャは、その景色を見て、こんなにも泣きたくなる。


グリーシャは、涙がこぼれないように、上を、真っ赤に染まった空を見上げて、思う。


叶わない約束にはしない。どれだけ時間がかかろうと、いつか手紙を送る。あの時、あの場所で、自分が君に伝えたかったこと、自分が君から伝えられたこと。何に笑い、何に悲しみ、そしてどれだけ、君を想ったか。その全てを綴った手紙を。ありったけの気持ちを込めた手紙を。


そして、もし手紙が届いて、返事が来たら。その時こそ、また、行くのだ。



























境界線までの旅路を、君と。











  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る