第9章 3

話せば楽になる、という老人の言葉は、一面において真実だった。少なくとも、冷静にものを見られるまでには、頭が冷やせている。だが、ミミの名前を呟くたびに彼の胸を痛みが走るのは変わらず、心が落ち着いた分、それはかえってはっきりとした苦しみをもたらした。


もう、この話は続けたくない。老人にそう告げようと、顔を上げる。


「なるほど、ね」


グリーシャが口を開く直前、老人が機先を制して言った。何かを確かめるようにこちらの顔を見つめる、そのまっすぐな瞳に、グリーシャは囚われる。


「要するに、君はまったく、子供だという訳だ」

「子供……って」


 自分は、怒るべきだと思う。根掘り葉掘りと話を聞かれた挙句、藪から棒に「お前は子供だ」なんて、随分失礼な話じゃないか。文句をつけるのが本当だろう。


だが、頭が道理を説いても、彼は不思議と口を挟む気にならないで、おとなしく次の言葉を待っていた。何故だろう。老人の態度が相変わらず敵意や害意と無縁だったから? あるいは単純に、彼の真意が気にかかったから? どれも尤もらしいが、結局のところ、一番しっくりくる説明は別にあった。つまり――老人が親身になってくれていると解ったから。


「一つ聞きたいのだが。君は、どういう終わりを望んでいた?」


 既視感。かつてグリーシャに同じ問いをし、「大人になれ」と告げた女性がいた。彼女は、今のグリーシャをみて、どう思うだろうか。


「……望んだって、もう意味はありません。僕は、重い荷物を背負う覚悟がなかった。だから、さよならをして……それで、おしまいです」


 グリーシャは、偽らざる気持ちを告げる。すべては過去の物語となって、もう変えられない。二人はそれぞれ交わることのない線の上を進み始めた。あの分かれ道で見た後姿が、グリーシャの記憶に残る最後の彼女となるだろう。


 老人は笑う。


「やっぱり、君は子供だね」

「……やめてください。自分が馬鹿なのは、よく解ってる」

「馬鹿じゃない。子供だと言っているんだよ。そしてね、子供はいつか大人になる」


人を煙に巻くような老人の物言いがやけに癪に障り、グリーシャはもう一度抗議をしようと立ち上がる――が、その瞬間、彼はふと、胸中に棘のような異物を感じ、何となく勢いをそがれ、上げかけた尻を再びベンチに落とした。


その痛みが、世間一般に期待と呼ばれている事を、グリーシャはまだ知らない。希望という程大げさでなく、しかし確実に、人の心を振り向かせるもの。


「いいかい。誰だって脛に傷はもっとる。一生消えない痛みもある。けどな、全部一気に受け止めようとせず、時には間を開けて、ゆっくり気長に付き合っていけるのが大人ってもんだ。それが出来ないでいるうちは、まあ子供の喧嘩さ」


この老人は、絶望と違う景色にいる。それが楽観論者の幻想なのか、実際に手を伸ばせば触れるものなのか、まだわからない。グリーシャは、後者であればよいのにと思ってしまう。


「年寄りのたわごとだと思うかい? だが、わしもまた、君ほどではないにせよ、似たような経験をしてきたつもりだ。多少先輩ぶっても、バチは当たるまい」

「……似たような経験?」

「わしにはこう見えて四分の一、トラキアの血が入っとる」


 黒髪、黒目の顔がそう言うと、なんだか不思議な気分になる。そして勿論、世の中にはその違和感を『不思議な気分』で済まさない連中が沢山いる。


「その上、何を思ったか女房にはトラキア移民を選んだ。おかげで昔はいろいろあったさ。駆け落ちじみたことだってしたよ。丁度、君たちぐらいの年頃だ」


 グリーシャは、老人の影に自分の姿を見た気がして、瞬きをする。老人は一歩、グリーシャに近づいた。


「その時分は、わしも君と同じような事を思っていたよ。全部が全部、自分で引き受けなければいけないものなんだ、とな」


 そして。ひょっとすると、今目の前にいる老人は、違う答えを知っているのかもしれない。今やはっきりと自覚された期待がグリーシャを包む。老人は目を細め、彼方を見た。


「さっきも言ったがね。一度に運びきる必要はないのさ。遠回りしてもいいし、いらないものは捨てても良い。疲れたなら、暫く休んだってよい。それに気付いてからは、随分楽になった。今では一人娘も嫁がせて、あとは孫を待つばかり。良い人生だと思えるよ」


老人はその頭にぽん、と手のひらを乗せ、グリーシャの髪の毛をくしゃくしゃと揉んだ。


「まあ、口で言ってわかるもんでもない。だから、まずは大人になりなさい。それからもう一度考えたって、これっぽっちも遅くはない」

「けど……全部が終わってしまった後に、いったい何を考えろっていいんですか」

「あのね、君。終わりなんてものは、もっとずっと先にあるもんだよ。今はまだ、折り返しだって見えていない」

「……だって、彼女はもう行ってしまった。あれだけ走っても見つからなかったんです」

「君が道路で昼寝をしていた時の話か? 人間、焦ると判断力が鈍る。町中を走り回ったつもりでも、同じ場所をグルグルしていたりするものだ」

「でも、」

「でも、はいい。君は今、どうしたい」 


老人の問いは、理屈とは違う、もっと体の奥の奥からやってくるものに手をさしのばした。その感情の、なんと力強い事か。グリーシャは、体がぶるりと震えるのを感じた。


老人は優しげに笑う。


「……さて、ここからが重要だ。いいかい? 君は随分と物事を複雑に考える性質みたいだから、ちゃんと説明しておくよ。何はともあれ、まずは彼女を探す。見つけられなかったら、そこで終わり。思い出の頁を一つだけ増やして、物語を終える。それもまた一つの形だ。だがもし多少なりとも運が君に向いていたら……」


老人は、そこで一息間を置き、トン、とグリーシャの胸に指を付きたてた。


「そこから先は、君次第だ」

「……僕次第」

「そう。やる気になったかい?」


 そう聞かれたグリーシャは、気が付くと頷いていた。そして後から、感情が返事を追いかけてくる。あべこべの順序だ。


不思議だと思う。状況は対して変わっていない。なのに、老人が言葉巧みに彼を諭し、それだけでグリーシャは顔を上げ、前を向いてしまった。あるいは、自分が詐欺師の類に引っかかりやすいだけかもしれないけれど……今は、それでいいのだろう。

老人は、グリーシャの決意を満足そうに見つめ、ふと思い出したように手を叩く。


「ああ、忘れていた。もう一度、魔法の言葉を教えてあげないとな」

「魔法の言葉?」

「なに、単純な事さ。彼女を見つけたら、まず肩を掴んで、抱きしめて、一言、耳元でこうつぶやけばいい。『愛している』、と」


 老人のおどけた言い方がいかにもらしく、グリーシャは笑ってしまう。やはりこの男には、人を焚き付ける才能があるに違いない。


「さあ行きたまえ、若者よ。君の前途は洋々として開けているのだ」


 芝居めかしたそぶりが、やたらと様になっており、見ていて気持ち良い。もう二、三、老人と言葉を交わしたかったが、彼は急げとばかり背中を押す。グリーシャは頷いて走り出しかけ、しかしふと、重要な事を聞き忘れていたことに気付き、足を止めて振り返った。


「どうした、若者。時間は有限だぞ?」

「一つだけ。おじさんの名前を聞きたくて」


 老人はそれを聞き、ちょっとした物忘れを思い出したみたいに、頭の後ろを撫でる。


「おや、これは失礼。わしはユーリ。ユーリ・クライフだ。ありふれた名だよ」

「クライフさん。僕はグレゴリー・イワノヴィチ・セミョーノフ。お礼を言わせてください。貴方に救われたんだ」

「おいおい、そんなに大げさなものじゃない。ただ、ちょいとばかり手を引いただけさ」

「そのちょいとばかりが、僕には大助かりだったんです」


 クライフ老人の手を取り握る。思いのほか強く握り返され、その圧力を心地よく感じながら、グリーシャは思いつく。どうせだ。最後にもう一つ、運試しをしてみよう。確信というほどでもないが、分の悪いかけではない筈だ。


「クライフさん。あなた、娘さんがいらっしゃると言っていましたね。ひょっとして、名前はハンナでは?」

「おや、おや。これはすごいね。正解だよ」


 それを聞いた瞬間、老人とハンナの言葉とが、グリーシャの中で一つの線になって結ばれ、彼は初めて、ハンナの言いたかったことを真に理解できたような気がした。

そうだ、彼女は言っていたじゃないか――大人になって、分かる事が沢山ある、と。

その意味に気付くまで、ずいぶん時間が掛かってしまったけれど。


「ま、珍しい名前じゃあないからな。ただし、出来はそこらの娘とは比較にならんぞ。美人で人当たりもよいし、スタイル抜群、体力も申し分なし。どこに出しても恥ずかしくない子だ。ああ君、親馬鹿だと笑わないでくれよ。本当の事なんだ」

「ええ、もちろん。そうだと思います」


 この老人が育てた娘だ。悪い人間である筈がないし、グリーシャ自身もそれを知っている。


「クライフさん。このレインコート、娘さんにお渡しください。それと、心からのお礼も」

「ん? ああ、よく解らんが。渡せというなら承った。丁度良かったよ、実は帰りに顔を出すつもりでいたんだ。行きにも寄ろうかと思ったんだが、せっかくならいきなり手土産をもっていって驚かせたほうが良いだろうって、これからミハイルの家で菓子作り……」


 グリーシャは小さく一礼し、老人に背を向けて走り出す。彼の言う通り、時間は有限だ。


「ああ、待ちたまえセミョーノフ君。市庁舎前の噴水には行ったかい?」


 老人が、背後から呼び止める。


「いえ……多分、行っていないですけど。どうして?」

「せっかくパウルブルグに来たのだ、町の名物を見ないと損だよ。私も君に逢う前に寄ったんだがね、このご時世でも人だかりができていた――そういえば、金髪の別嬪な娘さんもいたな。いかにも誰かを待っているふうだったが。心当たりはあるかね?」


 老人がウィンクする。グリーシャは彼の顔を見つめ、一つ頷く。クライフ老人に手を振り、一目散に前へと進む。もう、迷わない。



後ろから、今度はうまくやるんだぞ、と老人の声がした。

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