第9章 2

人間というのは不思議なもので、どれだけ落ち込んでいようと、目の前に食べ物があればしっかり胃が反応するように出来ているらしい。老人の差し出すパンを見た途端、腹の虫が一声鳴くのを、グリーシャは確かに聞いた。


「食べるといい。何があったかは知らないが、口にものが入れば少しは違うだろう」


 グリーシャはのっそりと立ち上がると、素直にパンを受け取る。もぐもぐと咀嚼しているあいだ、老人は(聞かれてもいないのに)パウルブルグに来たいきさつを語り始め、おかげでグリーシャは(特に興味もないのに)彼の事情を知った。曰く、グリーシャ達がメッテルニヒを離れた次の日にふと思い立ち、早馬に乗ってここ特産の砂糖を買い付けに来て、今から菓子を作って家族に会いに行くとか。


「あの。ありがとう、ございます」


 老人の話を遮り、グリーシャは言う。パンをもらったお礼に加え、これ以上関わり合いになるつもりはないという意思表示をしたつもりだったが、老人は気に留めた様子もない。それどころか「なに、お互い様だよ」としたり顔で頷き、その上「ところで、お嬢さんはどこにいるのかね」などと、グリーシャが一番触れてほしくない話題をずけずけと振ってきた。


「……いません」

「いない? ははぁ、さては喧嘩だな。お嬢さん、むくれてどっかいっちまったんだろう」


 のんきな物言いが無性に腹立たしく、グリーシャは老人を睨み付ける。だが、老人はグリーシャの敵意を受けてもひるまず、むしろ人のよさそうな笑顔を一層柔らかく崩した。グリーシャが思わぬ反応に戸惑っていると、老人が彼の肩に手を乗せる。


「よし、少年。暇なら少し、年寄りに付き合ってはくれないかね? 別に難しい事じゃない。ただ今日はこんなにもいい日和だから、ちょいとばかり話をしようってだけだ」

「……今は、そんな気分じゃありません」

「そう言わずに。なんでもいいんだ。明日の天気の話でも、昨日の昼飯の話でも……」


 グリーシャは溜息をつく。この老人はただ底抜けに鈍感で、もっと言えば間抜けなのだろう。だから敵意に気付かず、へらへらと笑っているに違いない。


グリーシャは老人に興味を無くし、無視して立ち去ろうとする。しかし、振り払おうとした肩の手に強く力が入り、思わず彼は動きを止めた。


「……なんなら、連れ添いと喧嘩をした話だって構わないさ。口にして楽になることも、よくあるものだ。試してみる価値はある」


老人の顔に、興味本位の野次馬根性は見あたらなかった。彼はただ純粋にグリーシャを――ろくに素性を知りもしない馬鹿な若者を、励まそうとしている。


やはり、間抜けだ。人を疑わず、善意や好意だけで動く、一番面倒な類の人種。


だが今のグリーシャにとっては、彼のように間抜けな人間が必要なのかもしれない。その証拠に、鼻の奥がツンと痛んで涙の前触れとなった。


これ以上、醜態をさらしたくない。僅かに蘇った自尊心が、グリーシャを老人から離れさせようとする。だが一方、老人の柔らかな雰囲気が足を地面に張り付けさせてしまい、結果、棒のように突っ立っている彼の背を、老人が優しく撫でた。


「気負わんでいい。言ったろう? ただの世間話さ」

「……でも、ご迷惑になります。たぶん、長くなるから」

「なに、老人が残された人生を若者との対話で埋めるんだ。これ以上の幸せなどあるまい」


 そこが限界だった。堪え切れずに目から涙があふれ、口から嗚咽が漏れた。女々しいという気持ちや、何かの罠だという警戒や、そういった感情の一切は、老人の人懐っこい笑顔が振り払ってしまう。グリーシャは今、この老人を頼りたくて堪らなかった。


それから十五分間、グリーシャが再び意味のある言葉を使えるようになるまでに、老人は彼の肩を抱き、近くの広場まで連れて行き、適当なベンチに座らせてくれた。多少なりとも内心の整理がつき、グリーシャはぽつぽつと、旅路の思い出を吐き出し始める。


我ながら、要領を得ない話だったと思う。どこから話せばいいかわからず、どこまで話していいかの区別もつかず、でたらめに重ねた積み木のよう、いびつなエピソードの塊が連なっていく。それでも老人は、時に相槌をうち、時に意見を言いながら、言葉を導いてくれた。


そうやって、グリーシャの口から一つ一つの章が零れ落ちていき、いつしか彼の目前には、記憶が鮮明な映像となって広がっていった。彼女と過ごした時間は、これ程までにくっきりと、心に足跡を残している。彼は、そうしたいくつもの思い出を丁寧に撫でて、これまで来た道をもう一度辿り直していく。


そして、気が付けば、彼は何処かの森の中にいた。


始まりの山小屋から終わりの町までの間、確かにあった景色。梢の合間から覗いた青い空を、グリーシャは見上げる。


傍らには、金色の髪の少女。白い肌に木漏れ日があたり、陰の中に優しく輪郭が浮かびあがる。彼女のシルエットと、肩から伝わる温もりが、ひどく懐かしい。


目を伏せると、赤や黄色の落葉が地面に柔らかく積もっている。身を屈め、その一枚を拾った瞬間、暖かい微風が、木々の合間を渡って走り去り、二人の周りに微かな花の香りを届けた。


風の名残を受けて、少女の金色の髪が揺れる。その向こう側で、君は今、どんな顔をしているのだろう。その瞳は、どこを見ているのだろう。覗き込んで、確かめたい。君と話したい。君の手を握りたい。



あるいは、もしそれが叶わなくても。せめて、もう一度だけ――君に会いたい。

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