第9章 1

そこには何もなかった。劇的な音楽、咽び泣く観客。およそ終幕にふさわしいものは何一つ存在せず、ただ二人だけが、無人の舞台にあって立ち尽くしていた。


パウルブルグ。そのありふれた名前と同じよう、町自身の姿もまたありふれていた。大抵の道路は舗装されているが、馬車がすれ違える程広くはない。町並みは全体としてよく普請されているものの、総じて地味な色合いに留まっている。大きくも小さくもなく、平時にはベルンの典型的な町として程々に栄えていたのだろう。だが特徴のないその町は今、僅かに煤けた空気を纏い、昼間の陽光もどことなくくすんでいた。


その理由は考えるまでもなく、時折こだまのように届く大砲の音が教えてくれる。ここから先にはもう、国境や戦場とかいう、棘の生えた境界しかない。


町の中心だというのに殆ど人通りのない分かれ道で、ミミはグリーシャに背中を向け、頭上を見上げている。視線の先には「ルーシ国境」「トラキア国境」という二つの行き先表示が、結末を見届ける舞台装置として予め準備されていたかのごとく、無表情にこちらを向いていた。


今朝目を覚ましてから今この時に至るまで、二人はただの一言も言葉を交わしていない。ミミはグリーシャが傍にいることを忘れたかのように振る舞っていたし、彼はただその背中を眺めて付き添い、気が付けばこの場所にいた。


 グリーシャはバッグの中から麻の袋を取り出す。ミミのための旅支度。今朝、起きてすぐに彼がそれを準備したのは、気遣いというよりむしろ自己満足の為と言えた。


気配を感じたのだろう、ミミがおもむろに振り向く。グリーシャは彼女の目の前に歩み寄ると、手の中にあった袋を差し出した。ミミは何も言わず、グリーシャから受け取った袋の撚り紐を、親指でゆっくり擦る。


ひょっとすると、その中には缶詰や軍服と一緒に、旅の残滓も詰め込まれているかもしれなかった。けれど、手の中に重みを感じているはずのミミは、瞳を冷たく沈めたまま、感情の揺らぎが虹彩に宿ることもない。


グリーシャはミミから視線を外し、つま先で石畳の隙間を数え始める。一つ、二つ、三つ、四つ……八つ目を数え終えたとき、ミミの小さな口が、静かに動く。


「お別れの言葉も、くれないの?」


きっとそれ自体が、彼女にとっての、別れの言葉。だからグリーシャは、何も言わない。


ミミは数を数えるように、ゆっくり息を吸って吐く。五回の呼吸が終わり、ミミはふっと息を止め、こぶしを握り締めて下を向いた。ああ、どうしてだろう。今日はこんなにも良い天気だというのに。気が付けば、彼女の足元だけ、雨が降ったように濡れている。


「――さようなら。グリーシャなんて、嫌い。大嫌い」


そして、ミミはグリーシャに背を向け、歩き出す。グリーシャもまた行くべき道へと足を向ける。一歩進むごとに彼女との距離が開き、足音も小さくなっていく。遂に彼女の気配が感じられなくなって、グリーシャは一度立ち止まる。


耳を澄ましても、聞こえるのは鳥の囀りだけ。彼女は行ってしまった。グリーシャはそのことに寂しさを感じながら、同時に安心もする。もはや彼の胸襟をミミの影が悩ます事はない。


帰ろう。グリーシャは一言つぶやいて足を踏み出し。


その瞬間。柔らかな風が吹いて、ミミの匂いを彼へと運んだ。


頭を思い切り殴られたような衝撃とともに、グリーシャの全身を感情の奔流が駆け巡る。まだ彼女に伝えていない事が、たくさんある。言いたい事も、数えきれないほど残っている。このまま終わりなんて、嫌だ、嫌だ、いやだ。


「ミ、」


 振り返った先には、誰もいなかった。人の気配も、温もりもなく。路地裏から歩み出た猫だけが、胡散臭げにグリーシャを眺めていた。


彼はほとんど衝動的に路地を通り抜けた。曲がり角を適当な方向へと進み、遮二無二彼女の後姿を探した。人影を見つけるたびに必死で追い、別人だとわかるとすぐに方向を変えた。何度も何度も空振りし、そのたびに焦燥感が大きくなって押し潰されそうになった。それでもあきらめず、一時間も彷徨い、曲がり角でちらりと金色の髪が揺れたような気がして、溜らず走り出した。


そこにあったのは、茶色く汚れ、家の窓枠に引っかかって靡くぼろきれだった。


グリーシャは悟る。もう、自分は彼女に、何も伝えられない。彼女の姿は、秋の風に紛れて蜃気楼のように消え去り、二度とは現れない。


彼は本能の赴くまま、生まれたての赤子のよう、感情を喉から吐き出しながら町を駆けた。走って、走って、もう走れないという位に走って、躓いて、転んだ。


打ち付けた膝を庇って仰向けになり、突き抜けるような青空を見上げる。野良犬が怪訝そうにグリーシャを覗きこみ、鳥が彼の手をつつき、猫が近くで喧嘩を始めた。すべて無視した。目の端が冷たく、けれど頬はやたらに熱く、口の中が塩辛かった。


いっそ、全てを忘れてしまいたいと思う。今までの出来事を、丸ごとないものにできればいいと思う。だけど、どれほど望んだって、それは叶わない。遊ぶ子供が日暮れになっても帰らないよう、グリーシャもまた、終わってしまった旅路に囚われ続ける。


 今この瞬間が、物語の終わり。どうしようもないやるせなさに全身が沈み、それ以外の感情は全てが失われてしまった。もはや何をする気になれない。立ち上がる事すら億劫で、この上祖国への帰り道を歩いていくなど、一生の大仕事に思える。


 あるいは、自分の上を馬車なりが通り過ぎてくれれば、もっと簡単にケリが付くのだろうか。そんな事を考えながら流れる雲を見つめていると、視界に影が落ちた。犬や小鳥と同じように無視を決め込むつもりで、目をつむる。


「石畳の寝心地はどんな塩梅かね」


 その声にどこか親しみを感じ、グリーシャの意志は僅かに揺らいで、思わず薄目を開いた。


「やあ、彼氏さん。調子はどうだい?」


メッテルニヒで初めに出会った、名も知らぬ老人がそこにいた。

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