第8章 3

洞穴の壁に、二人分の影が揺れている。グリーシャにはそれが、森の奥で人を狙う悪霊のようだと思えた。


ミミは話を終えたきり、口をつぐんでいる。グリーシャもまた喋らず、ただミミの上着の襟からチョッキのボタンが僅かに覗くのや、手入れの良い髪が肩に垂れるのや、粗末なブーツの爪先が小さく動くのを眺め続けていた。そして今、ふと顔をあげると、彼女の瞳がグリーシャを捉えている。


「……以上。昔話は終わり」

 

そう言うと、姿勢を少し崩し、グリーシャから視線を外す。彼女の話は抜身の剣みたいに鋭利で、切っ先を容赦なく二人に突きつけた。そしてミミの睫毛は、まるで本当に剣が見えている様、不安に揺れている。


「やっぱり、退屈だった?」

「いや……いや。違うよ。退屈なんかするもんか」


慌てて言う。グリーシャが黙っているのは、話がつまらなかったからでは、もちろんない。はじめは、ただ衝撃を受けていた。彼女の言葉の一つ一つが、目に見えない力を伴って、彼の口を塞いでいた。


そして当初の印象が和らぎ、頭が多少の理屈を使えるようになってからは、考えていた。彼女が過去を語ってくれた理由。彼女が恐れているもの。彼女がグリーシャに望んでいる答え。それがわからなくて、言葉は音にならず、ただ喉から肺へ滑り落ちてしまう。


「あのな、ミミ。つまり……」


グリーシャは、必死になって言葉を探す。だが実際、彼がするべきなのは、考える事でなく待つ事だった。言葉は自然に、口をついて出てきたのだから。


「……ありがとうな」


彼女は、重い荷物を背負っていた。深い傷を負っていた。他人が軽々しく踏み込んではいけない領域に自分は今、一人招待されている。その事がどういう意味を持つにしろ、グリーシャはまず、これを告げなければならなかった。


「……いいえ。どういたしまして」


そう言うミミの口元に、ごく小さな笑みが浮かんだ。グリーシャは、彼女の不安が、多少なりとも和らげられた事を祈る。


「あのね。こんなこと、今迄誰にも喋ったことなかったの。だから、貴方が私の初めてよ」

 

少し冗談めかして、ミミが言う。グリーシャは未だに彼女の言葉をすべて受け止めきれていない。だけど、その一瞬だけで、彼の心は驚くほど平らかになる。つい先ほどまで感じていた戸惑いは泡のように消え、ミミの顔をしっかりと見ることが出来た。


「初めて、ね。男なら一生に一度は言われてみたい言葉だ。まさかこのタイミングで聞けるとは思わなかった」

「お望みなら何度だって言ってあげる。ねぇ、『初めての人』?」

 

しなを作り、猫がじゃれるようにこちらへと寄りかかるミミ。グリーシャは自分の顔が真っ赤になっているだろう事を自覚し、熱を持った額を撫でる。彼の様子を見て、ミミもすぐ我に返ったようで、照れくさそうに口をとがらせると、姿勢を直した。


「……ちょっと、黙らないでよ。恥ずかしくなっちゃうじゃない」

「あのな、そりゃこっちのセリフだっての」


そう言いながら、ミミを見る。彼女もこちらを見ている。視線が交差し、どちらともなく、くすりと笑う。


ミミは、グリーシャに過去を告げた。グリーシャはミミの過去を知った。それでなお、二人の間には笑顔がある。明日になれば消え去る絆。そののちには、またお互い敵同士として争いあう二人。グリーシャには、それがとても信じられない。


「……あのね」

 

会話の切れ間を、ミミが捉えた。彼女は深呼吸をし、一息に告げる。


「これから私、おかしなことを言うわ、たぶん疲れて眠いから、心にもないことが勝手に口から出てくるのね」

 

前置きを言い終えたミミの息は、僅かに弾んでいる。きっと彼女は、ずっと機会を探っていたのだろう。例えば人に作文を発表する前のような覚悟が、その顔には浮かんでいる。


「……確かに。疲れて眠いと、心にもないことが勝手に出てくるからな」

 

そう言ってミミの背中を押すグリーシャ自身もまた、少しずつ意識が遠くなり、辺り全体に光の靄がかかっていくような心地がしていた。視線がふらふらとさまよい、彼女が服の袖口を弄り回している事に気付く。真珠のような爪が、木のボタンにあたるたび、かちん、と固い音をたてた。


「そう。今からする話は、全部でたらめ。だから、真に受けないで頂戴」


嘘をつく人間は、これから嘘をつくと言わない。ならばその口から告げられる言葉も、虚実が織り交ざっているのだろう。グリーシャは目をつぶり、ミミの言葉を待つ。


「私はね、さっきも言った通り、野蛮人が嫌い」

 

洞穴の岩肌が、ミミの声を反射し、多重奏となって散らばっていく。虫の歌も、木々の囁きも、彼女の言葉に覆い隠される。


「けどね、貴方と出会って、いろいろあって。多少は、考えも変わったわ」

 

視界は薄い黒に染められ、そのかわりに木の燃える匂いと、時折肌を撫でる熱気と、彼女の声が、はっきりと感じられた。


「……グリーシャ。貴方の隣は、とても楽しい」

 

暗闇に白い影が揺れる。薪の炎だ。熱と共に光を発し、空気と戯れているのだろう。


「ずっと、そんな気持ち、忘れてたのに」

 

ミミの声は、小さく震えていた。瞼を開くと、横に座る彼女は、怯えた子犬のように目を伏せていて、その奥に潤んだ瞳が覗いている。


「……だからね、その……私、は」

 

ここで、彼女を止めないといけない。ふと、そんな気がした。だけど、理由のわからない警告は、頭の痺れに飲み込まれて、すぐに姿を消してしまう。


「……私は、その、貴方の事が……き、嫌いじゃ、ないの」

 

俯いたまま。口元にはぎこちない笑みを浮かべ。困ったように眉をしかめて。彼女は、確かにそう告げる。


「……嫌いじゃないし……一緒にいたい、の」

 

ミミはゆっくりと、躊躇う様に体の向きを変えた。彼女の顔が正面に現れ、それを見たグリーシャは思う。なぜ彼女はこんなにも辛そうで、今にも泣きだしそうなのだろう。


「私は、貴方の隣に、座っていたいって、そう、思って、」


一語一語が、まるで質量を持ったかのよう、グリーシャに叩きつけられる。彼女は両手を伸ばし、グリーシャの腕をぎゅう、と握った。


「……だから、グリーシャ。お願い、ずっと、これからも、二人で……」


それきり、ミミの言葉は途切れ、後を静寂が支配する。


今、ミミはグリーシャに、決定権を委ねているのだ。これから起こりうるすべては、彼の胸三寸で姿を変えるだろう。だからこそ、彼女は彼の言葉を恐れ、その腕を掴み続けている。


だがグリーシャは、既に答えを出していた。


彼女を抱きしめ、元来た道を辿って行こう、と。


ハンナの家でも、メッテルニヒでも、始まりの山小屋でもよい。その先にある、誰も知らない場所だってよい。そこで二人、寄り添い暮らそう。彼女の心に刻みつけられ、その体を縛る鎖の最後の一環までを、自分が解こう。一度は自ら投げ出した、あの砂糖菓子みたいな時間を、もう一度夢見よう。

 

熱に浮かされたようにぼやけた頭の中、今はただその情熱だけが、彼を突き動かす。


「なあ、ミミ」


呼びかける声は、水の中にあるよう、くぐもってグリーシャ自身の耳に響く。ミミの手が、彼の腕を痛いほどに握りしめてくる。青い瞳は、期待と不安のはざまで強く揺れながら、彼をしっかりと見つめていた。


「俺も、お前と――」


そして、次の言葉を継げる直前。


彼は、それを見て、息を飲んだ。


「……グリーシャ?」


動きを止めたグリーシャへ、ミミが不安げに問う。だが彼は答えず、視界がふと捉えたものを眺めつづける。


彼女の腕の、袖口から覗いた白い肌。そこに、小さな切り傷があった。よく目を凝らさなければわからない、うっすらとした赤い筋。きっと本人は、存在にすら気付いてすらいないだろう。平素は気にも留めないそれが、なぜか今、グリーシャの視線を掴んで、離してくれない。


じっと傷を眺めながら、彼は想像してしまう。きっと彼女の体には、これと似たような筋が、無数に刻まれているのだろう。当然だ。あれほど野を駆け、坂を登った。

それらは、まだミミの滑らかな皮膚を蝕むほどに広がっていない。けれど、これから旅路を進んでいくうち、一筋、また一筋と傷が蓄えられ、少しずつ彼女を苛んでいき。きっと最後には、彼女の体を、血と泥で汚しきってしまう。そんな妄想が、頭を占めていく。


――いや、弱気が見せる幻覚だ。気にしてはいけない。グリーシャは悪いイメージを振り払おうと、頭をふる。


だが、その時脳裏に、ふと映像が浮かんで、グリーシャの不安を捕まえる。ハンナとの別れ際、抱擁を交わした場面。レインコートを手にしたグリーシャへ、彼女はなんと言ったのだったか――そうだ。彼女はこう言ったのだ。『今重い荷物を背負ったら、君たちはいつか押しつぶされる』と。


たった一つの記憶が呼び水となり、あとは殆ど自動的、木が枝を伸ばしていくよう、ハンナの声が蘇えっていく。


――するわけないじゃん、駆け落ちなんて。――なら当然、行き着く先も悲劇さ。

――グリーシャ君、ちょっと危なっかしかったから。

――若さに任せて突っ走るのは重要だよ。けど、それで人生の行き先まで決めちゃいけない。重すぎる荷物に潰れて、結局不幸になるだけさ。


それらの言葉の一つ一つが、彼の心に冷めたい水を浴びせかけ、そのたびに楽観が飛沫となって散っていく。甘い誘惑の声は瞬く間に消え、気が付くと幻想の炎はあっけなく消え失せて、焦げ落ちた薪の中には、残って燻る現実の燃え滓だけがあった。


グリーシャは思う。彼が望めば、ミミは喜んで共に歩んでくれるだろう。けれどそのまま、手に手を取って、茨の道を進み続け。傷だらけの肌を庇い、擦り切れた靴で終わりの地を踏んだとしても。そこにはもはや、何もなく。ただ二人、寄る辺なく立ち尽くしている。


――それは、悲劇の行きつく先。訪れるかもしれない世界で、ミミはきっと泣いている。傷ついた腕から、真っ赤な血を流しながら。


だから、自分達は、これ以上先へと進んではいけないのだ、と。


「……グリー、シャ?」

 

二度目の呼びかけは掠れ、その手がグリーシャの腕を強く握っている。しかし彼は、食い込む指にあえて気付かないふりをした。そうするしかなかった。


「……もう、寝よう」


そんな言葉が、口を突いて出る。自分はとても残酷な事をしているのかもしれない。けれども、彼自身にはそうするべき理由があり、口が悪魔に操られているよう滑らかに、用意された言葉を紡ぐ。


「寝て、起きて、町へ行って」


自分の声が、他人のものみたいによそよそしく洞穴を満たしていく。何もかもがこの場にありながら、己の存在だけがまるで現実味を失っていく。そして、彼は決定的な終わりを告げる。


「……それで、お別れだ」

 

訪れた無音は、現実の静寂というより、精神的な停滞だった。


色が抜け落ちた世界の中で、ミミの手から、ゆっくり、ゆっくり、力が抜けていく。それを感じてなお、グリーシャの心は無に近い平穏を保っていた。


火に誘われた虫が、音の空白に耐えかねてリリリと鳴くのを聞きながら、グリーシャはミミの言葉を待つ。けれど、十秒が経ち、二十秒が経ち、虫が火に飲まれて歌が途絶えても、彼女は何も言わなかった。ただの一語も、吐息の一つすらもなく。呆けたようにこちらを見つめるだけだった。


洞のように見開かれた二つの蒼い目が、鏡となってグリーシャの姿を映し出している。彼は、自分をそうやって見つめているものの奥に何があるのか、もはや理解することが出来ない。 


「――そ、」 


やっと耳にした彼女の声は、壊れた笛のように震えていた。きっともう、どんな親しみの言葉であろうと、彼女には届かないのだと、グリーシャは思う。


「その、疲れて、眠くて……だから、心にもない言葉が、出てきた、だけで」


薪が弾けてぱちんと音をたて、ミミの言葉に被さる。彼女は表情を忘れたみたいに、二人の間に広がる虚空を見つめ続けていた。


「今の話は、気の迷いで……だ、だから」


ミミが言う。グリーシャは答えず、毛布を頭からかぶる。


今言わなくとも、いつかはこんな結末になっていた。自分は正しい。間違っているように見えようと、最適解はこれしかない。


そう言い訳を唱え続けてなければ、叫びだしてしまいそうな気がした。


「……忘、れて」

 

毛布越しに聞く彼女の声はくぐもり、湿っていた。


「お願い……忘れて」


それきり、誰も、何も言わず。最期の夜がゆっくりと通り過ぎていく。

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