行間 3

初めに言っておくけど、よくある話よ。つまらなくなったら言って頂戴。すぐに止める。


今更かもしれないけれど、私の家はトラキアじゃそれなりに大きな貴族なの。大昔に皇帝を出したこともあるらしいわ。長ったらしい名前もそのせい。父の代でもそれなりに勢力はあったみたいで、家族は皆、暇さえあれば政治の話をしてた。尤も、私は誰それの悪口を聞くより外で走り回るほうがずっと楽しかったから、よくは知らないけど。


お父様とお母様は私の事を『こうていへいかのおそばにたつにんげん』に仕立てたかったみたい。だから、家庭教師を何人も付けられたし、早いころからサロンにも連れていかれたわ。


 成果はあったか? まあ、家庭教師の連中は大喜びだったでしょうね。なにせ、部屋でぼうっと座っていればお金が転がり込んできたんですもの。その間、私は近くの公園で日向ぼっこ。八歳の小娘にしては、うまく立ち回れたと思うわ。利害の一致を見た私達は、それぞれが得をするよう秘密契約をしていたって事よ。


もちろん、家庭教師連にルーシ語を使いこなすような頭はないし――なにせトラキア語すら怪しい連中ですもの――出来てもそんな無茶はしなかったでしょうね。


だから、私にルーシ語を教えたのは、全然関係のない別の人。『彼女』――レニと最初に会った時の事は、よく覚えているわ。五月の半ばで、よく晴れた気持ちのいい日だった。


その頃はいい加減にお父様が怪しみだしていて、お尻に火が付いた家庭教師の一人が、珍しくまともに授業を受けさせようとしてた。私は彼の『契約違反』に怒って、いらいらしながら部屋を飛び出したわ。


いつも通り裏門を出て、大通りを抜けるまでは良かった。けど、怒っていると駄目ね。周りを見ずにいたものだから、公園の入り口から馬が出てくるのに全然気づかなかった。実際、あと少し御者の手綱を引くタイミングが遅かったら、私はここに居なかったかも。


子供の特権の一つって、理不尽な怒り方ができる事だと思うの。その時の私も、自分の事は棚に上げてこう言ったわ。『ちょっとあなた、突然飛び出てこないで頂戴!』。そうしたら、馬の御者はこう返した。『これは失礼、かわいいお嬢様。次からはここを通る前にお手紙でもお書きいたしましょう』。随分ふざけているわよね。でも私、思わず笑っちゃった。


御者も笑って、『良かった、お怪我はない様だ。ここらは馬の通りが多い。気を付けて』なんて言って、そのまま去ろうとした。けど私は何となく人恋しくて、咄嗟に引き留めたの。


『待って。貴方はいたいけな子供を轢き殺そうとしたのよ。その精神的苦痛を和らげる義務があるわ』。『なるほど、それはごもっとも。では私めはどうすれば?』。『簡単だわ。馬に載せて頂戴』。『それで済むならお安い御用です。さあどうぞ、かわいいお嬢様』。


それが、レニとの出会い。


馬で散歩する間、適当な事を話したわ。彼女は十歳年上で、公園の近くに住んでいて、女の人なのに男物の恰好をしていて、貴族の出なのに髪の毛が肩に届かないくらい短かった。尤も、実際の生活は身分負けも良いところだから、それで困らなかったみたいだけど――あ、これ、彼女が自分で言ったのよ? 


それに実際、金色の短髪がすごく似合ってたの。どんな紳士より紳士らしくて、五分も話せは誰だって彼女の事を好きになるわ。もちろん私もそう。気が付いたら、今迄誰にも言ったことがないような愚痴も漏らしてた。家族はいつも政治の話ばっかりで構ってくれない、勉強は全然理解できない、サロンは窮屈で疲れる、外で遊びまわりたいのにできない……。


レニは根気よく私の話を聞いて、相槌をうってくれた。それで、私が何度目か自分の境遇に悪態をついた時、彼女はこう言ったの。


「はは、それは何とも『パスレードニイ』だ」

 

耳なれない言葉だったから、私は聞き返したわ。そしたら彼女はケロっと答えた。『ルーシ語ですよ。そうですね、最後、とか最新、とか……まあ、この場合は最悪、と訳すのが一番良い』。


 びっくりしたわよ。その時はもう、いつ戦争になるかなんて話も出ていたから。でも彼女は平然としていて、いくつかルーシ語の単語を教えてくれた。数の数え方とか、挨拶とか、私の名前のルーシ語読みとか。


 知らない言葉、それもあんまり口にしちゃいけない言葉を綺麗に使う彼女が、私にはすごく魅力的に思えた。だから思わず『あなたが私の家庭教師だったらいいのに』って言ったわ。彼女も『それは良い考えだ』って返してくれたけど、その時はまあ、冗談の類だと思ってた。


 だから、三日もしないうちに彼女が家にやってきた時は、何かの間違いだと思ったものよ。


お父様が得体のしれない食い詰め貴族に頼りたくなるほど追いつめられていたのかと思うと、流石にちょっと申し訳なかったけど……それよりなにより、彼女と一緒に居られるのが嬉しくてたまらなかった。


 一応最初は試用扱いだったみたい。けど、お父様がほかの家庭教師に暇をやって、レニに頼りきりになるまでそう時間はかからなかったわ。今まで真面目のまの字も見当たらなかった娘が、彼女にかかってずいぶん大人しくなったんだもの、当然ね。


 実際、レニには教師の才能があったんだと思う。彼女のおかげで勉強がずっと楽しくなったもの。彼女に褒めてもらいたくて、予習復習だってするようになったわ。私が授業の十五分前には勉強部屋で準備しているようになったなんて、前の家庭教師連はとても信じないでしょうね。


家庭教師に立候補するだけあって、レニは何でも知っていたわ。歴史、幾何学、神学、化学。それともちろん、ルーシ語も。最後の科目は予定になかったけれど、私がお願いしたら、喜んで教えてくれるようになった。


もちろん、課外授業の事は秘密だった。でも、『新しい言葉は、絶対人前で使わないように。二人だけの秘密ですよ』って、冗談めかして彼女が言った意味を、私は深く考えなかった。ただ「二人だけの秘密」がうれしくて、随分熱を入れたものよ。


本当、レニが来るようになってから、毎日が楽しくて仕方なかった。二人でお勉強をして、そのあとにお菓子を食べて、時々ご飯も一緒に食べて。私がわがままを言って、彼女に泊まってもらった事もあったわ。ふふ、一つのベッドに二人で寝たのよ。傍からみたら、恋する少女そのものだったでしょうね。


小さな子供の憧れと言ったらそれまでだけど。大げさでなく、レニは私の救世主だったの。退屈な日常から救ってくれた騎士様。世界を広げてくれた人。冗談でこう言ったりもしたわ。『愛しい私のナイト様。囚われの姫を助けた褒美に、いったい何をお望みかしら?』。そうすると、彼女はいつも笑って答えるの。『褒美などはいりませぬ。私がそうするべきだと思っただけでございますゆえ』。ねぇ、貴方も――いいえ、なんでもないわ。


 ……レニがルーシ語を話せた理由? それが、わからないの。私も一度、彼女に聞いてみたことがあるけど、困ったみたいに笑うだけで、教えてくれなかったわ。彼女がそんな顔をするのは本当に珍しかったから、びっくりして深く追及できなかった。

まあ、当時の私からしたら、些細な事だったし。すぐに忘れちゃった。私は彼女と過ごせればそれでよかったから。


楽しい時間って、あっという間に過ぎていくものよ。気が付いたら三年。私は十一歳で、レニは二十一。勉強は万事順調だったし、「課外授業」の成果も出てた。『声だけ聞けば、きっと皆がミミ様の事を生粋のルーシ人だと思うでしょう』、なんて言われたら、それはもう、舞い上がるしかないわよね。


……ねぇ、グリーシャ。例えば、貴方が新しい玩具を買ってもらったとして。それを『人に見せびらかすな』って言われたら、その言いつけを守り続けられる?


私はね、出来なかったの。レニとの秘密は嬉しいけれど、やっぱり誰かに自慢したかった。私はこんな玩具を持っているんだぞ、レニと私だけしか遊べない特別な玩具なんだぞ、って。本当、馬鹿だと思うわ。


確か、夕食の後だったと思う。夏で、まだ窓の外に日の名残があったのを覚えてる。お母様は一人掛けのソファで刺繍をしていた。お父様はお兄様たちと難しい政治の話をしていた。私はお父様の横に立って、分りもしない話にもっともらしく合いの手を入れていたわ。


私は兎に角「秘密の言葉」を使ってみたくて、うずうずしてた。レニにお墨付きをもらえたルーシ語を、今こそ皆に披露してあげよう。お父様はどんな顔をするかしら。お兄様たちは驚くかしら。お母様にも自慢をして、そしてみんなにも教えてあげて……。


『ミミ、お前が聞いてもわからないだろう?』。お父様が、私の頭に大きくてあったかい手を置いて、苦笑いしながら言った。だから、私は喜び勇んで答えたわ。『いいえお父様、よくわかってよ。それはなんとも『パスレードニイ』ね!』


その瞬間のみんなの表情は、きっと一生忘れられない。

 

お父様は鬼が宿ったような形相で私を叱りつけた。お兄様たちは汚いものみたいに私を見つめていた。お母様は事情を聞いて、この世の終わりみたいに泣いた。私だけが、何が起こったのかわからずにおろおろしながら、お父様がこう言うのを聞いていたわ。


『世俗六選帝侯に連なる我が家が、野蛮人を祖とするなど――』『我が家系に汚れた血が流れていること、誰にも悟られてはならぬ――』『万が一陛下に伝わろうものなら身の破滅――』

 

難しい言葉ばかりだったけれど、断片だけは必死に拾ったわ。特に最後の一言は、随分強い口調で言われたから、特に印象に残ってる。


『――なればこそ、お前は誰よりもトラキア人たるべし!』


それが、私を縛る鎖の、最初の一環。


私にルーシ語を教えたのが誰なのか……今更だけど、それだけは喋っちゃいけないって思ったから、どんなに問い詰められても、絶対にレニの名前は出さなかった。けど、少し考えれば誰にでもわかるわよね。


もう次の日から、彼女は来なくなった。さようならも、ごめんなさいも言えなかった。本当に、最初からレニなんて人はいなかったみたいに。きれいさっぱり、私の周りから、彼女の気配がなくなってしまったの。


最初のうちは、怖くて何にも聞かなかったわ。けど、みんながレニの事を喋らなくなってから一か月くらい経った時、とうとう我慢ができなくなって、勇気を出してお父様に聞いた。ねえ、レニはどうしているのかしら?


お父様は、吐き捨てるみたいに言ったわ。


『あの女は外患に通じていた。通報したらあっという間に処刑されたよ』

 

……本当のところは、今もわからない。彼女は実際スパイだったのかもしれないし、あるいはただ、知的好奇心を満たすために言葉を学んだだけなのかもしれない。

 

一つだけ確かなのは、レニがもうどこにもいないんだって事。


私は考えたわ。なんでこんなことになったんだろう。何が原因なんだろう。考えて、考えて、考え続けて。そしてそのうち、答えを見つけた――見つけた事にした。


つまりね。私の中の汚れた野蛮な血が、レニを消しちゃったの。お父様が怒るのも、お母様が泣いちゃうのも、お兄様たちが怖い顔をするのも、レニがいなくなっちゃったのも、全部ルーシの血のせいなの。


だから、私はルーシ人が嫌いだった。野蛮人が、ずっとずっと、大嫌いだった。

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