第8章 2

雨は降り続いている。気温は低い。そして二人は、無言のまま歩みを進める。


ハンナに教えられた林道は道と呼ぶのも憚られるような荒れ様だった。人が好き好んで通るような場所ではないが、半分お尋ね者になったグリーシャ達にとってはかえって有難い。大きな道を通るよりパウルブルグへは近道なのも、常なら好ましいに違いなかった。尤も、今の彼はそれを利点と思えなかったが。


もちろん、理由を考えるのは火中の栗を拾う事と同義で、だから彼は無心になろうと、ただひたすらに足を動かし続ける。それでも、どこかに思考の空白ができると、何者かが目ざとくその隙を見つけ、彼の心を揺り動かして、切れ切れの無為な思考が頭を支配していく。


ハンナの家から出る時、グリーシャはその理由を「自分達のせいで彼女が傷つけられてはならないから」だと言い聞かせていた。嘘でない。けれど、彼を突き動かしていたもう一つのものからは、努めて目を背けていた。つまり――本当のところは、恐れて諦めただけなのだ。


いつ失われるのかわからない、けど確実に無くなるもの。不確かな死を恐れる病人のような環境に耐えられず、ならば、いっそ自ら芽を潰してしまおうと、グリーシャはあの場を離れた。今思えば、ミミの妙な思い切りの良さにしたって、彼と同じ事を考えていただけかもしれない。


そして今、自分は寒さに凍え、疲れ切って道を歩いている。ミミはすぐ隣に陣取り、はっ、はっ、という荒い呼吸を口から零していた。一体、この道の終わりに待っているものは何か? 答えは出ないまま、湿った土が踏みしめられて音をたてる。

 

沈黙のまま、どれだけ歩いただろうか。突然グリーシャの目前に黒い塊が飛び出し、驚いて足が止まった。狼でも横切ったのかと思いきやそうではなく、ミミが横からレインコートを差し出している。


「……なんだよ」

「もう使わないから。持ってて頂戴」


言われて空を見上げれば、いつの間にか雨は止み、雲間から太陽が覗いて遠くの山肌を照らしていた。その明るさは朝でなく正午のものだ。気が付けばずいぶん長い間歩いていたらしい。

 

グリーシャはミミのレインコートを受け取ると、無造作にバッグへ仕舞い、自分が来ていたものも脱ぐ。露わになった首筋が、風に触れてひんやりとした。


「なんだか――疲れたわね」

 

ミミの言葉が合図になり、グリーシャの体からどっと力が抜ける。彼は特に答えず、近くの倒木へ腰を下ろした。


「……どれくらい歩いたかしら」

 

グリーシャの真横、落ち葉のクッションへと直接座ったミミが聞く。


「さあな。まあ、どんなにゆっくり歩いたって明日の午後には町につく。そしたらあとは……」

「お好きにどうぞ、ね」


言葉につまったグリーシャの続きを、ミミが引き取る。投げやりな台詞の後を続けず、彼女はすっくと立ち上がると、森の中へ歩き出した。


「あ、おい。どこへ行くんだ?」

「汗で体中ベトベトなの。どこかに小川でもないか、探してくるわ」


そう言ったきり、雨露の滴る木の間へ消える。ミミの姿が見えなくなり、それに安堵した自分を見つけ、彼は溜息を付いた。


グリーシャは、まだ答えを見つけられていない。別れの時に、何を言えばいいのか。どう振る舞えばいいのか。残りの時間を、どう過ごせばいいのか。ただ確かなのは、今この時が、思索に使える最後の機会だと言う事。けれどもいくら頭を捻ったところで、大した考えは浮かばなかった。空洞となった頭の中を、周囲の景色の印象が埋めていく。


あたりに漂う白い靄。陽光を反射して光っている。その奥から小鳥がトウヒの枝を縫って歌声と共に飛び去っていく。眼前の勝景に、グリーシャはただ身を預けた。彼の悩みを、霧と森と小鳥の影が持ち去ってくれるよう願う。


「何処でも寝られるのね、貴方」


誰かの声を聴き、目を開ける。いつの間にか舟を漕いでいたらしい。ぼうっとした頭を振り振りし、人の気配がするほうを振り向けば、憮然とした様子のミミがグリーシャを見下ろしていた。水源を見つけたのか。彼がそう尋ねる前に、ミミがグリーシャの服の裾を掴む。


「ん?」

「……こっち」

 

ミミはそう言うと、グリーシャを引っ張り、森の中へと入っていく。


「お、おい。どこ行くんだよ」

「これ」

 

一分ほど歩いて急停止したミミは、極めて簡潔な指示代名詞と共に顎を突き出す。その先を見れば、地面の窪み、木の根の間に小さな洞穴があった。自然に出来たものらしい。さほど深くはないが、人二人が入るくらいなら問題ない広さである。枯葉が底に敷き詰められているので、寝転がればさぞ気持ちよいだろう。とはいえそれ以上の特徴らしい特徴はなく、別段変哲のない穴である。従って、それを見たグリーシャの感想といえば、


「……穴だな」

 

でしかない。ミミも素直に「穴ね」と返す。グリーシャはてっきり追加の説明があるとばかり思っていたが、彼女はそれ以上ものを言わず、ただ突っ立っている。


「……で?」

 

仕方なしにグリーシャが聞くも、ミミは答えない。横顔に少しの苛立ちが浮かんでいるのは、グリーシャの察しの悪さを責めての事か。会話の空白が十数秒続き、結局しびれを切らしたのはミミのほうだった。


「……つまりね。まだ雲が出ているし、もう一度雨が降りださないとも限らないでしょう?」

「まあ、確かに」

「いざ夜になった時、雨の中で野宿じゃ大変だわ」

「そうかもな」

「だから、えっと……ここなら、ゆっくり休めると思うけれど」

 

成程。つまり彼女は、この穴で晩を明かそうと提案している訳だ。それならそれでもっと直接に言えばよかろうに。やたら遠まわしなのは、日が高いうちに歩みを止めるのを憚ったのか、あるいは拒絶を恐れているのか。顔色を窺うよう上目づかいにグリーシャを見つめているあたり、後者かもしれない。が、彼としてはその提案に乗らない理由などなかった。


「そうだな……じゃあ、今日の寝床はここにするか。あとは熊が出なければ良いけど」

 

ミミは、冗談めかした言葉を聞いて、安心したように小さな笑顔を浮かべる。グリーシャは肩をすくめて返答代わりにし、ふと思う。そういえば、これが今日初めて見る彼女の笑顔だ。

 

和らいだ空気の尾を引きながら、洞穴の奥を覗く。動物の痕跡はなく、先約の心配はしなくて良さそうである。乾いた枯れ木が点在しており、火を起こすこともできそうだ。


「結構広いぞ。ひょっとしたら、ハンナのベッドより快適かもしれないな?」

 

あえて軽口を重ねるグリーシャ。どんな反応が戻ってくるかと身構えたが、ミミは笑顔を消さず、人差し指をぴんとたてる。


「確かにそうだけど、貴方はかえって残念なんじゃないかしら」

「なんでさ」

「ハンナのベッドじゃ、両手に花だったものね?」

「まあ、否定はしないが。片方は棘付のバラだったからな」

「……言ってくれるじゃない。今日の貴方はそのバラの花を隣にして眠るのよ」

「刺してくれるなよ」

「どうかしらね」


そんな雑談の終わりに、二人の小さな笑い声が挟まる。森は徐々に陽光めき、あたりは心地よい温かみの中にあった。今朝から纏わりついていた重苦しい空気が、やっと解れていく。


それからグリーシャとミミは、薪を集め、マッチで火をつけ、近くの捨て井戸で水をくみ、その間にポツポツと雑談をする。兎に角、グリーシャは決して言葉を絶やさなかった。やっとのことでつかんだ会話の尾を、逃がしたくなかったから。一度沈黙してしまえば、今度こそ二度とミミが口を開いてくれなくなるような気がしたのだ。

 

野宿の準備を終わらせる頃になると、あたりはすっかり夕暮れの色を映し出していた。グリーシャは蒼然となった森を一瞥し、洞穴の奥へと入る。


入り口近くでは薪が静かに燃え、洞穴を温めていた。ミミは奥に座って火を見つめ、雪のような白い肌に照り返しを受けている。


グリーシャはミミの横に座り、口をへの字に結ぶ。勢いだけの話は随分前に種が尽き、お互い告げる言葉もなくなりかけていた。グリーシャは必死に会話の糸口を探し、ふと頭に上った疑問を、ろ過せずに口へとつなぐ。


「そういえば」

「……ん?」

 

うつらうつらしていたらしいミミは、吐息のように返す。


「今更だけど。ミミは、なんでルーシ語が話せるんだ?」


その瞬間、グリーシャはミミの表情が氷のように固まるのを見た。


しまった、と思う。一度強く拒絶されて以来、何となく聞けなかったこと。いつか知りたいと思っていたが、よりにもよってこのタイミングである必要はなかったかもしれない。


「いや、すまん……喋りたくなかったら」

「あんまり、楽しい話じゃないけれど」

 

出し抜けに、ミミが言った。グリーシャが顔を上げると、彼女の視線が真っ直ぐ彼を向いている。グリーシャは、彼女の瞳の青に、これほど底知れぬ深さがあることを初めて知った。


「……私が、ルーシ語を話せる理由。貴方が聞きたいなら、話すわ」

 

グリーシャはさして考えもせず、半ば無意識で首を縦に振る。彼女の背負っているものが何か。グリーシャは、心構えもできないまま、ただ耳を傾ける。

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