第7章 1

冷え冷えとした隙間風に足を撫でられ、グリーシャは目を覚ました。空気が湿り、いつになく肌寒い。その原因は朝で気温が上がり切っていないから、というだけでもなさそうである。毛布からはみ出した足を引っ張りこみ、横目で窓の外を見れば、案の定空は灰色の雲に覆われ、そこから小さな水滴が降り注いでガラスを叩いていた。


 

うつらうつらしつつ、タイミングが良かったな、と思う。この雨中で野宿なんて事態になったら、泣きたくなること請け合いだ。自分は案外運に見放されていないのかもしれない。

 

あくびをしながら、時刻のあたりをつける。太陽の光線が出ていないので正確な所はわからないが、それ程遅いという様子でもなさそうだ。七時前といったところか。


とはいえ、二度寝をする気分でもない。暖かい毛布に多少の未練が残るものの、それを振り切って床を出ようと、気付けに全身を逸らす。手の先まで障害なく広げることが出来たので、違和感を覚えて両脇を見れば、一晩を同じベッドで過ごした――まさしく文字通りを表現したまでであり、他意はない――女性二人の姿かなかった。丸まった毛布が二枚、端においやられている所を見ると、既に彼女らは部屋を出ているらしい。すし詰め状態から解放された為だろう、三歩あれば端から端までたどり着けるような小部屋が、今は随分広く思える。


二人は何処にいるのだろうか。上半身を起こすと、折しもドアの向こうから尋ね人達のひそひそ声が漏れてきた。会話の調子から察するに、何事か議論をしているようだ。


グリーシャはちょっとした悪戯心をおこして、マットレスから降りると、ドアに近づいて耳をあてる。薄い木戸はよく音を通し、彼女達の声も問題なく聞くことが出来た。


『……さあ、覚悟を決めちゃいなよミミ!』

『でも、やっぱり駄目よ! あんなの……!』

『大丈夫、男は作りが単純だから、お手製って言えばそれだけで在り難がるもんなの!』

 

喧嘩でもしているのか、と思いきや、予想外に打ち解けた様子である。昨晩何かあったのだろうか。グリーシャが訝しんでいると、彼女らの声が一段高くなった。 


『だけど……!』

『だけどもかかしも禁止! ほら行った行った!』

 

ハンナの言葉と同時、木戸がギィと音を立てて開く。まずい、覗き行為がばれたら事だ。グリーシャは慌ててドアから飛びのき、ベッドの上に駆け戻る。


「お、おはよう」

 

毛布をかぶり直しながら、平静を装って挨拶するグリーシャ。二人が不審を抱いた様子はなく、ミミは俯きながら、ハンナは爛漫たる日光のような表情で「おはよう」と返す。二人の侵入が遠慮がちだったのと、部屋の小さいため素早く戻れたのとで、なんとか出刃亀の事実には気付かれなかったようである。


「……起きてたのね」

 

ミミは、直前まで木戸越しにハンナとしていた会話などなかったかのように、抑え気味の声音で言う。その態度はどこかよそよそしさを宿していたものの、変態の責めを負わずに済んだ安堵もあって、とりあえずは指摘せず話を続ける。


「今さっき目が覚めたんだ……。二人こそ、ずいぶん早いじゃないか?」

「貴方が遅いのよ、寝坊助」

 

ミミの台詞は、一聞すると普段通りの憎まれ口である。が、よく耳を凝らせばぼそぼそと歯切れの悪く、またグリーシャと視線を合わせようともしない。居心地悪そうな様子に、こちらまで尻の穴がもぞもぞしてくる。事情がわからず、助け船を期待してハンナに視線を向けるが、彼女は極上の笑顔を浮かべて「ほら、早く!」と呟きながらミミの脇腹をつつくばかりだ。


「わかってるから、少し待って頂戴……あの、ね、グリーシャ。今朝なんだけど」

 

ハンナの催促に耐えかねたか、ミミは何事か決心し、それでもやはり俯き加減のまま話し始める。所在なさげに服の裾を弄り、耳を紅色に染めているのが、常になく淑やかに見えて、率直な感想を述べるなら、その、非常に可愛らしかった。グリーシャは自分の体温がじわじわと上がるのを感じながら、彼女の二の句を待つ。


「貴方が起きるのがあんまり遅いから、その、することがなくて、だから、ええと……気まぐれに、そう、気まぐれにね、朝ごはんを作ってみようと思ったの……。あ、で、でも、違うのよ、深い意味はなくて、ハンナが強引に誘うから……」

「ミミってばね、グリーシャ君に何かしたいんだって聞かなかったんだよ!」

「あっちょっ、ハンナ! グリーシャ、違う、違いますからね!」

 

喜劇的な意味で整合性の取れた掛け合いだが、グリーシャはごく最初の段階で楽しむ余裕を失っていた。それも仕方あるまい。なにしろ、彼女らの物言いを換言すればこういう事になる――ミミが、その身分上間違いなく経験のないだろう朝食の準備という行為を、グリーシャのために行った、と。半ば停止した思考の中、僅かに作動している部分が仮説を提唱する。『グレゴリー・セミョーノフは今、世界の幸福の中心にいるのかもしれない』。


「だからね、その、まあ、食べてくれるなら、食べてくれてもいいんだけど……別に、おなかが減ってないならそれで構わないから、えっと……」

「ほら、グリーシャ君。何か言ってあげなよ」

 

ハンナが促す。グリーシャはまだ夢の延長線上にいるのではないかと思いながら、それでも時間の経過とともに、周囲の環境に多少気を配れるようになる。ひとまず彼女らを観察すれば、沈黙に耐えかねたらしいミミが「あの」だとか「その」だとか言いかけ、そのたびにハンナの制止を受けていた。


混乱のさなかにある人の姿は、かえって他者を落ち着けるものだ。グリーシャはミミの様子を見て、緊張がほどけていくのを感じながら、やっと言うべき言葉を見つける。


「……えっと、ありがとな、ミミ」


素直な気持ちの、礼の言葉。ミミはひゃっ、と一つ息を吸い、それきり二の句を告げられず、下を向いて横髪を弄りまわし始めた。やっぱり、自分は世界一の果報者だ。


「んふふー。ささ、グリーシャ様。朝餉の時間でございます。今日は目玉焼きですぞ!」

「うむ、苦しゅうないぞ」

 

ハンナが大仰な身振りでこちらの手を取るので、グリーシャもあえて偉ぶりベッドルームの奥へと歩く。剣山の上に座るかのような昨日から、羽毛に包まれた今日へ。ミミがグリーシャへ発していた敵意が消え失せているという、その事実だけでも天にも昇るような気分なのに、加えて手製の朝食だ。今死んだって諦めがつく。


さあ、食卓に繋がる木戸が開く。グリーシャは喜び勇んで足を踏み入れ、一つ大きく息を吸い――掛け値なしの幸福は、そこで初めて、わずかな綻びを見せた。


これは、なんだろうか。若干の、だが決して無視できない違和感が漂っている。


「なあ、ちょっと聞」

「ところで、グリーシャ君!」

「は、はい! なんでありましょうか!」

 

ハンナの強い問いかけに、思わず軍隊仕立ての返答をする。


「一つ確認しておくけれど、まさかミミの料理に手を付けないなんて薄情はしないよね?」


その言外に、拒否は許さないという激烈な圧力をかけるハンナ。もちろん、言われるまでもない。というか、この据え膳を横に除けるような朴念仁はそうそういない。にも拘わらず、あえて念押しするのはどういった訳か。


どうも話の展開に怪しげなものが混じり始め、自己保存の意志が、今この場に滞留しているわずかな『違和感』を無視してはいけないと指令する。


「……あの、ハンナ。一つ聞きたいんだけど」

「なんだい、グリーシャ君」


この上疑問など何処にある、とばかりの態度で返すハンナ。


「俺の気のせいかもしれないんだけどさ」

「うん、まあ言ってみなよ」


だがしかし、その表情は決して積極的に促していない。


「いや……なんか、焦げ臭くないか?」


ピシリと硬直したのはミミのほうで、ハンナは先ほどまでと変わらず、だが多少「空気の読めない男め」という風に見えなくもない笑顔をグリーシャに向けた。


「言っている意味がちょっとよくわからないな。いったい何がどうしたって?」

「いや、だから。焦げ臭いだろ。これ」


グリーシャの素朴な疑問は尤もであった。部屋に入った瞬間から、硝煙のような、目に染みる刺激を伴った匂いが漂っている。


「目玉焼きって、普通こんな匂いはしないよな……?」

「そうかな? 気のせいじゃないかな!」


ハンナは強引に話を進めようとするが、グリーシャとしても、自分が知らぬ間にその健康を俎上に載せてしまったらしい事を察した以上、あえて進行に身を委ねるという選択肢は無く、二人は水面下で静かに鍔迫り合いをする。数瞬だけ拮抗していた力関係は、しかし居候に対する家主という立場上の優勢を生かしたハンナに傾いていき、グリーシャはゆっくりとした足取りで食卓に歩み寄らざるを得ない。一歩、また一歩と進むごとに匂いは強くなり、そして遂に部屋の中心へと進み出るに至って、グリーシャは全てを悟った。


というより、竈の上で灰色の煙を燻らせるフライパンと、皿に乗った黒い白身――なんとも矛盾しているが、これが彼に出来うる言語表現上の限界であった――を目の当たりにすれば、誰にとっても一目瞭然であろう。


「……その、ね。ハンナに言われた通り作ったんだけれど……何故だか、随分、香ばしい加減に、なっちゃって」


ここまで地蔵のように動かなかったミミが、どんよりした調子で言う。


「なぁに、これくらいなら全然問題ないって! ね、グリーシャ君!」


ハンナが(こちらの足を踏みつけながら)フォローに回る。が、グリーシャはそれを無視して、タンパク質の成れの果てを見つめながら、聞く。


「……ミミよ」

「……は、はい。あの、えぇと……何かしら」

「目玉焼きは」

「……ま、待って。貴方が何を言いたいかは、その、よくわかるわ。だから、」

「難しい料理じゃ」

「グリーシャ、止めて、お願い……本当にお願いだから、それ以上は、」

「ない」

「………………うぅ」


 本人にもやらかした自覚はあるらしく、両手の指を口元で所在なく絡ませながら、しょんぼりと俯いてしまった。下手すると泣きべそかいているんじゃないだろうか。


「ああ、そんな顔しないで……もう、グリーシャ君には後でお姉さんから教育的指導がありますからね!」


ハンナが眉を吊り上げてグリーシャに言う。実を言うと、普段見ない様子のミミが可愛らしく、ちょっとからかうだけのつもりだったのだが、冗談が過ぎたかもしれない。彼はハンナの叱責を素直に受け止め、頭を掻きながらミミへと歩み寄る。実際のところ、実家で過ごしていた時分など、よく妹が炭にした肉を食卓に迎えていたものだ。今さら焦げ卵の一つや二つ、どうということはない。


「悪かった。冗談だよ。ミミ様が御自ら御用意された朝餉、心して味わせて貰うさ」

 

場の雰囲気を再始動させるために軽いノリで言ったのだが、あまり効果はなかったらしい。耳を澄ますと、彼女の小さな口からボソボソと愚痴が漏れている。


「……いいわよ、どうせ私は料理下手だもの。ふんだ、どうぞお召し上がりくださいませ。焦げを肺に入れて苦しめばいいのよ。どうせなら噛みきれないくらい硬くしてやればよかった」


落ち込みながらも憎まれ口を忘れないのは、やっぱりミミらしい。自分の身分や生活環境を言い訳にして責任を投げ出さないのもまた、彼女の矜持故だろう。それが悪意なく愉快に思え、グリーシャは椅子を引いてどっかと座る。


「さて、いい加減に腹が減ってきた。是非とも食事を始めようじゃないか?」

「だってさ。注文の多いご主人様をお世話してあげてね、ミミちゃん!」

 

ハンナのウィンクを受けたミミは、ぶつくさ言うのをとりあえず中断する。


「……もぅ。わかりましたわよ、ご主人様。少々お待ちくださいませ」


そう言ってキッチンの奥へといったん引っ込むミミ。少し経って戻ってきた彼女の手には、小さな皿が一枚。その上に載っている目玉焼きはやや色が薄い。多少なりとも出来の良いやつを選んでくれたようだ。


「……どうぞ、ご主人様。私に給仕の真似事をさせるなんて、世界中探しても貴方くらいよ」

 

言葉とは裏腹、どこか楽しげに言うミミ。今泣いたカラスがなんとやら、である。ハンナとミミもそれぞれ皿の前に行き、三人が食卓を囲んで座る。簡単なお祈りをしたあと、グリーシャは目玉焼きへと手を付けた。


「……どう?」

 

ミミが身を乗り出して聞く。グリーシャはじっくりと味わうように咀嚼し、ごくりと口の中のものを飲み込む。


「うん。案外いける。美味いよ」

「……ほんと?」

「おう。飯に関して嘘は言わないのが俺の主義だ」

 

力強く頷いたグリーシャに続き、ハンナもフォークに刺さった目玉焼きをパクリと一口。


「うん、確かにおいしい! よくできてるよ、これ!」

「……そう。まあ、お世辞は結構だけれど」


と、言葉尻だけは冷静を装っているミミだが、その実あからさまに喜んでいる様子だ。彼女に尾がついていたら、千切れんばかり振れているだろう。今ばかりは狼というより愛玩犬であった。グリーシャはハンナと二人、思わず顔を見合わせて笑みを漏らす。


「物足りないな。おかわりは?」

 

グリーシャは目玉焼きを平らげ、ミミに聞く。彼女はグリーシャと彼の皿とを眺め、ちょっと驚いたように目をぱちくりさせた後、控えめに、だが心底嬉しそうな顔になる。


「朝からよく食べるわね。少々お待ちくださいませ、ご主人様」

 

ミミが皿を持ち、軽やかな足取りでキッチンへと歩いていく。まあ、総合的に見れば、やはり自分は幸せなのだろう。彼女の背中を眺めながらそんなことを考えていると、横のハンナがつん、と彼の脇腹をつついた。


「……ねぇ、グリーシャ君。実際のところ、どう?」

「俺は今日、初めて自分の主義に反する言葉を吐いた」

「宜しい。褒めて遣わす」


グリーシャとハンナは顔に笑顔を張り付かせ、口の中の炭を噛みしめ続けるのだった。

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