第6章 5
真夜中にふと目を覚ますと、二人が部屋にいなかった。はっきりしない意識の中、外から漏れる声を聞き取る。話をしているらしい。
その事自体は至極どうでもいいし、むしろ空間を独り占めできてありがたいぐらいである。ただ一般論として、あくまで一般論として、他人のひそひそ話というのは一度意識してしまえばどうにも内容が気になるものだ。
なので仕方無く、少しだけ部屋の窓に寄って耳を傾けることにした。
二人は随分話し込んでいるようで、会話の途切れる気配がない。内容は聞き取れないが、まさか逢引……いや、それはあるまい。半日足らずでは流石に進みが速すぎるというものだ。
まあ、確かにハンナは男好きのする容姿だし、目に見えて捻くれている性格でもないから、グリーシャのような軟弱者であれば、ころりとほだされても無理はなかろう。いずれにせよ、私には関係のない話である。二人の仲が僅かの時間でどれだけ発展しようと、一切は彼らの問題。そんなことは百も承知だ。承知なのだが。
しかし、それでも。何故だろう。今日一日中、グリーシャがズルズルと鼻の下を伸ばし、仲睦まじくハンナと語らう様を見るたび、喉元を羽虫が飛び交うような不快感がこみ上げていた。そして今また、その感覚に犯され、私はぎゅっと目を瞑る。
『おやおや、盗み聞きは関心しないねぇ』
突然、奇妙な音の連なりが降ってくる。それがハンナの発したトラキア語だと気付くのに、やや時間がかかった。
『ま、恋人を取られないかって心配するのはわかるけどさ。そうまであからさまに警戒されちゃうと寂しいなあ』
『……貴方はいくつか誤解をしております。一つ、わたくしが盗み聞きなど、はしたない事をするわけがありません。一つ、特別、貴方を警戒している事もございません。そして、これは殊更強調させていただきたいのですけれど――あの野蛮人は、断じて、わたくしの恋人では有り得ませんので、悪しからず』
『へぇ。随分綺麗なトラキア語を使うんだね』
『お褒めに授かり光栄でございます。ただ、私としては賞賛の言葉よりも正しい理解を望んでおりますわ』
『細かいことは気にしない。それより、同郷出身が二人きりなんだからさ、お喋りしようよ。最近トラキア語に飢えてるの』
私の突き出した皮肉に、ハンナはまったく応えていない。ベッドの真ん中にごろりと寝転がり、片肘をついてこちらを見据える。彼女の飄々とした態度を見て、私は一つ大きなため息をついた。
「……一人相撲ね、私」
『ん? ごめん、聞こえなかった』
『なんでも御座いません。聞き流してくださいませ』
『あ、ちなみにグリーシャ君の事は心配しなくていいよ。只の雑談だったし。彼はもう少し夜風に当たるって言ってたから、私だけ戻ってきたんだ』
ハンナの言葉に、思わず肩が動いてしまう。小さな笑い声が憎らしい。
『ふふ、可愛い』
「最悪だわ」
ルーシ語で悪態をつく。彼女の態度と、ハンナの言葉に安心してしまった自分に向けて。
『ねぇねぇ、率直に聞きたいんだけどさ、いいかな?』
『嫌だと言ってもお聞きになるのでしょう?』
『正解。ね、ミミちゃんはグリーシャ君のこと、どう思ってる?』
『ああ、もう、本当に率直ですこと!』
『それって褒めてる?』
『褒めていますとも、勿論』
『はは、やった!』
噛み合っているようで噛み合わない会話。もはや呆れを通り越していっそ清清しい。この女相手に小細工を弄するほど馬鹿らしい事もないだろうと、私は率直に口を開いた。
『……わかりませんわ、そんな事』
ごまかしのように聞こえてしまうかもしれないが、偽らざる気持ちである。ああ、認めよう、確かにここ最近は、グリーシャの事をそれほど悪く思っていない。野蛮人を素直に受け入れられている自分が、新鮮で楽しくもある。だが、その感情になんと名前を付ければいいのか、見当がつかなかった。自分でも理解できていないことを、他人に説明できるわけがない。
『そういう訳でございますので、これ以上の詮索はお止めくださいまし』
ぴしゃりと言い切る。これなら流石に彼女も追求を続けることはなかろう、と踏んだのだが。
『へへぇ。知らぬは本人ばかりなり、ってことね』
含みのある笑みを浮かべ、思わせぶりに肩をすくめる様子を見ると、まだまだこの話題は終わらないらしい。奥歯に何かが挟まったような物言いは、聞き返せといわんばかりだ。罠だと分かって食らいつくのは癪であるが……。
『何か疑問がおありで? でしたらはっきりおっしゃって下さいな』
『いいの? じゃあ言っちゃうけどさ、ミミちゃんってば、グリーシャの事好き過ぎでしょ』
……何を言い出すかと思えば。いくらなんだって、それはない。ありえない。私は重大な誤解を解消するために口を開き、
「……ふぇっ」
発声に失敗した。口が上手く回らない。顔が火照り、汗がにじむ。兎に角、何かしら言葉にしようともう一度息を吸い、それきり吐き出せなくなった。
『わあ、ミミが茹蛸みたいだ』
「あっ、あっ、あっ」
『ほら落ち着いて。お水お水』
ハンナが差し出した皮袋を受け取り、口をつける。冷たい液体が喉に染みこみ、やっとまともな思考ができるようになった。
『……っ先ほどお伝えしたでしょう! グリーシャとはそういう関係ではございません!』
『怒るのは図星を疲れた証拠だよー』
『ふきっ……』
興奮して舌がもつれ、意味不明な単語が飛び出す。
『あはは。ここまでわかりやすいとからかい甲斐があるなぁ』
一瞬、本気で張り倒したくなる。ハンナにしてみればいい玩具なのだろうが、弄ばれる方はたまったものではない。体よくあしらえない自分の不器用さを今ほど恨めしく思った事はなかった。せめて蟻の一噛はしようと、彼女をにらむ。
『貴方、いい性格してますわ……』
『それも褒め言葉だね!』
心底嬉しそうに言うハンナ。水面に釘を打ち付けるような手応えに、私は一人ため息をつく。
彼女は本当に私と正反対で、どうしようもなく惑わせられる。奔放、快活、社交的。そういった形容詞は、私の人生においてついぞ無縁だったものだ。だがハンナには、その全てがある。
ああ、そうか。私は、彼女に嫉妬しているのかもしれない。ハンナが持っているものが羨ましくて。その「私にないもの」が、グリーシャを絡め取ってしまいそうなのが恐ろしくて。ただそれだけの話。
だが、内なる感情にラベルを張ることが出来ても、それをどう扱うかはまた別の話だ。結局、私は手の中で徒にそれを転がすしかできない。喉まで出かけた言葉を失い、ふうと吐息を吐きだす。
『……ハンナ・クライフ。私には、わからない』
『もう、ハンナで良いって。ミミちゃんってば、トラキア語だと別人みたい』
ハンナが呆れ気味に言う。別人、か。確かにそうかもしれない。かつて、憎き野蛮人をトラキア語で貶め、嘲笑い、声を大にして「あの連中を殺せ」と連呼していた。なのに、今私はルーシ語で野蛮人と心地よい雑談に興じ、自分以外の女と喋っている姿を目にするたびに不安で押しつぶされそうになっている。甚だ矛盾した姿だ。いったい、本当の私はどちらなのだろう。
『ねぇ、教えて。私は……』
喉が引きつり、しゃっくりのような音が出る。深く呼吸をし、改めて口を開くと、自然に言葉が漏れ出でた。
「私は、グリーシャを好きになって、いいの?」
ルーシの言葉でそれを口にした途端、感情が溢れ出した。苦しくて、切なくて、悲しい。気付くと、目じりがひんやりしている。涙が浮かんでいるのだ。
「……うん。やっぱりルーシ語のほうがしっくり来るね」
トラキア人丸出しのハンナが、トラキア貴族の私に言う。それが場違いに滑稽で、私は泣きながら笑った。ハンナもそれに笑いで返し、束の間、虫の合奏に二つの楽器が加わる。
「ま、最終的には自分で気付かないといけないんだけどさ」
ハンナは笑顔の尾を引きながら、私に言った。相変わらずその態度はどこか掴みどころがなかったが、今は素直に耳を傾けられる気がする。
「そこまでたどり着くのに、時間がかかる事もある。たとえば貴方みたいに、『正しく』あろうとしていれば、気付きたくても気付けない」
「正しく?」
「そう。貴方は正しくトラキア人だから、ルーシ人と交わるなんてもってのほかだもの」
「その割に、べらべらとルーシ語を喋っているけれどね」
「はは。そういうこともある」
思わず口にした私の自虐を、ハンナは深く追求してこない。先ほどまで不気味に思っていたその距離感が、今は有り難かった。
「正しいっていうことと、良いことか悪いことかっていうのは、別問題。だからミミちゃんが何語をどんなふうに使っていようが、それに首を突っ込むつもりはないよ」
正しいトラキア人。私の体の中に深く突き刺さっているその言葉を、ハンナは慣れた手つきで扱う。医者が患者の病巣を取り除くように、それが傷の疼きを少し鎮めた。
「で、さっきの質問だけど。きっとさ、ミミちゃんの中ではもう結論が出てるんじゃないかな?」
「……でも、私は、ずっと正しくあろうとしていたから」
私はずっと、心の一番柔らかい部分を漆喰で塗り固め、壁紙を張り、『彼女』との思い出に蓋をして過してきた。だからそれは、もはや私という家の一部になっている。そこを無闇に崩せば、全体が歪んでしまうかもしれない。そんな強迫観念が、私を怖気づかせていた。
「今更、どうすればいいのよ――?」
「だから、ミミちゃんは深く考えすぎなの!」
「けど……」
「あーもう、じゃあちょっと反則だけど手助けをしてあげる」
悪童がいたずらの種明かしをするよう笑い、ハンナは私の鼻をつつく。
「グリーシャ君も、あなたのことが、大好き」
……動揺は、しないつもりだった。また何か不意打ちが飛んでくるのだろうと覚悟していたから。けれど、彼女の言葉を聞いた瞬間、視界から色の情報が抜け、鼻の奥がツンと痛みを訴えた。体の平衡すらおぼつかなくなり、小船で大海を漂流するようにふらふらと地面が揺れる。おおよそ全ての感覚が正常な信号を喪失し、私は奇妙な意識の空白に染まった。
グリーシャが、私を。そんなの、考えた事もなかった――いや、本当にそうだろうか? 私がグリーシャから「そういう」ふうに想われている事を夢想しなかったと、天地清明に誓って断言できるだろうか?
私は自問の答えを見出せず、縋るようにハンナを見た。彼女は笑顔で頷く。その態度に嘘が無いことを理解し、私はやっと、自分の感情がどういうものなのかを判断する余裕が出来た。
全身を駆け抜けるしびれは――なんということだろう、心地よい。体の芯が温かな炎で満たされ、高揚感で首筋がピリピリする。今まで人生で抱いたことのあるどんな気持ちとも違う、不思議な感覚。私はそれを制御できなくて、体をぎゅうと掻き抱いた。
「どうしよう。私、変に、なった」
このまま死んでしまうのではないかと思うほど、心臓が激しく脈打つ。私の体の色んな場所が、熱くなる。もちろん、その原因はハンナの告げた一言で、だからそれを意識から追い出そうと無心を心がけるけれど、その努力はかえって強く私の頭の中に先ほどの台詞を反響させる。
「助けて、ハンナ。本当に、おかしくなる」
切実な懇願に、何故かハンナは驚いたような表情を浮かべていた。
いや、違う。これは驚きというより、興奮?
なんというか、盗賊に襲われて助けを呼んだら熊が出てきたような恐怖を覚える。
「……かわいい。食べちゃいたい」
「あの、ハンナ? ちょっと」
「だめ、我慢できないわ」
妖しい表情で私に擦り寄ってくるハンナを、振り払うこともできなかった。精神衛生上の危機に貞操喪失と論理感崩壊の恐れまで加わり、私は完全なパニックに陥る。
ハンナの手が私の背中に回され、柔らかい脂肪の塊が二つ、私の――多少ボリュームに劣らないでもない胸に押し付けられ、くらくらする。もう何がなにやら。脳はあまりの過負荷に機能停止寸前である。
耳元にハンナの唇が近づく。吐息がこそばゆい。いけない、彼女は何をする気なのだ。ああどうしよう、このまま流れに身を任せたら、次に起こるのは――。
「なんちゃって」
「え?」
「ねえ、ミミちゃん。あなたは大丈夫。変になったんじゃないの。少しびっくりしているだけ」
ハンナの一言は、私の混乱をすぅっと鎮めた。
「思わせぶりな話もしちゃったけど。つまり貴方は素直になればいいのさ。国だとか、人種だとか。まるっきり無視できるもんでもないけど、それは後で考える話だよ」
「……私、貴方が羨ましいわ」
「そう? ま、この胸は確かに自慢できるけど」
ギリギリの軽口だが、まあ今は許そう。私は彼女の単純さに救われたのだから。
暫く、お互いに無言で抱き合っていた。吐息が宵闇を漂う。これまでの夜はただやり過すだけの、忌むべき時間だった。でも今は、この静寂を感じていたい。
しかし、残念なことに、安らぎは部屋の外から草を踏みしめる音で破られた。
『おや、うわさをすれば。グリーシャ君が戻ってきたみたい』
『……今までのお話はご内密に』
『そういわれると喋りたくなっちゃうなぁ?』
『ちょっと――』
抗議を聞き入れる前に、彼女は小さく「おやすみ」と呟いた。肩を揺り動かしたかったが、グリーシャが部屋に入ってくる気配がしたので、慌てて狸寝入りをする。
グリーシャは小さくため息をつき、ミミとハンナの間に滑り込んだ。その肩が私の頬をくすぐる。それでハンナの一連の『助言』を思い出して、なんともいえぬむず痒い心地になった。
……私は変わっているのだろうか。それとも、かつての自分に戻ったのだろうか。『彼女』――私にルーシ語を教え、私にルーシを憎む心を植え付けたかつての友人は、今の私を見てどう思うだろうか?
いや、考えるまでもない。きっとグリーシャを見て私を冷やかし、それでも最後には笑って応援してくれるだろう。そういう人だったから。
グリーシャと、私と、『彼女』が三人で、何の憂いもなく笑いあう。叶わない夢だけど。そんな事を考えながら、心地よく無意識へ落ちていくことが出来た。
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