第6章 4

(……眠れない)


 床についてから数時間、まんじりともできずにいたグリーシャは、虫や獣がざわめく中、幾度目かわからない寝返りを打った。もちろん、それで何かが変わるわけも無く、相変わらず森の住人達は安眠を妨げるように気配を振りまき続けている。


生き物が窓の外をガサリと駆け抜け、その主を確かめようとして、視界が灰色の壁に覆われている事に気付く。すっかり野宿に慣れてしまったな、と苦笑する。


 少し、夜風に当たりたい。そう思い、体を起こした。小さな部屋に三人が固まって寝転がっているため、文字通り足の踏み場も無い。皆を起こさないよう、慎重に外へ出る。


 入り口の扉をくぐった途端、木々の葉が擦れる音が鮮明になった。グリーシャは芝生の生い茂る地面に寝転び、束の間その心地よい音色に聞き入る。今宵は半月が綺麗に輝き、あたり一面を幻想的な青色に照らしていた。


(……そういえば、ミミと出会った夜は新月だったよな)


そんな事を考えている自分に気付き、ため息をつく。夜は魔物だ。考えたって仕方ない事を考えてしまう。どうあがこうと――別れの時はもうすぐそこなのに。


メッテルニヒを出てから、ずっとその事ばかりが頭をめぐっていた。何か切欠があったわけではない。ただ唐突に、終わってしまうことが怖くなった。一端意識してしまうと、後は泥沼に沈み込むようなもので、今では頭の天辺まで漬かっている。


既に道程は半分を超え、数日中には国境近くの町に到着するのだ。けれど、念願叶って最後の別れ道に立つ時、自分はどう振舞えばいいのだろうか。


 まあ、少なくとも、「はいさようなら」の一言で終わらせることは出来ないだろう。尤も、野蛮人を蛇蝎の如く嫌っているミミにしてみれば、さぞかし迷惑な話だろうが。


(……でも、最近は悪い雰囲気じゃないと思ってたのになぁ)


 女々しいのは自覚しているが、そう考えずにはいられない。


メッテルニヒでの一件以来、二人の関係はこれまでになく良好だった。大体グリーシャは、流暢にルーシ語を話すミミに対して元々それほど気後れを感じていなかったし、またミミのほうにしても、「一緒にいてもいい野蛮人」という言葉が、嘘だとは思いたくない。だから、誰かに関係を問われたら自信を持って「友人」と答えられると思っていたのだ。昨日までは。


今日の彼女は、まるで出会った時と同じだ。僅かの間に、彼女の心情に何かの変化が訪れたのか、それとも――結局、仲良くできていたというのは、自分の思い込みに過ぎなかったのか。彼女はずっと旅の終わりを待ち望んでいて、別れの言葉も無くグリーシャの前から去っていってしまうとしたら。


それは、とても嫌だ。


「やあ、青春しているねぇ」


 不意に声をかけられ、あわてて振り向くと、ハンナが草を口に咥えて立っていた。


「ああ、ハンナか……」

「こんばんは。寝られないのかな?」

「ああ。そっちも?」

「さっき水をたらふく飲んだんだけど、それが外に出てくるのって何時になると思う?」


あっけらかんと言うハンナ。衒いの無い態度は彼女の美徳なのだろうが、グリーシャには刺激が強く、俯いて目をそらすほか無い。彼女はそんな反応を楽しんでいるようで、ニコニコと笑みを浮かべていた。


「純情だなぁ。若いっていいなぁ」


 やたらと「若い」を強調するハンナであるが、彼女も自分達と齢はほぼ変わらない筈である。もちろん、いかに農家の長男坊とはいえ、女性に年齢を尋ねるほど無神経ではないから、グリーシャは代わりに当たり障りの無い台詞を選んだ。


「ハンナみたいな美人がそういうことを言うもんじゃないさ」

「あらまあ、お世辞が上手いねグリーシャ君」


本心だよ、と返すつもりだったのだが、それを言う前にハンナが言葉を被せる。


「でも、そういうのは他の子に言ってあげたほうが喜ぶんじゃないかな?」


思わぬ不意打ちで息が詰まりそうになる。たった今まで「他の子」について考えていた身としては、心臓に悪い流れだ。


「昼間も言ったろ。ミミとはそういうのじゃない」

「へへー。別に誰とは言ってないんだけどなー。なんでミミちゃんが出てくるのかなー?」


ぐうの音も出ない。彼女のほうが一枚も二枚も上手だ。


「ひょっとしてこんな遅くに星を眺めてたのも彼女のせい? それならお姉さんの出番だ、さあ相談してみなさいな!」


 ハンナが腰に手を当ててずずいと前に出る。干渉的な態度は得てして他人の反感を買うものだが、彼女の場合はあまり鼻につかなかった。その姿になんとなく母親の面影を見出し、グリーシャは笑みをこぼす。


「えーちょっとグリーシャ君、笑うこと無いじゃない」

「あ、いや、違うよ。良い奴だな、お前」

「適当な返しー!」


 というものの、ハンナは嬉しそうだ。やはり、良い奴なのだろう。半日の付き合いでも彼女の善良さは良くわかる。


 話してみようか。すべてを明らかにすることは憚られるが、ぼかして要点だけ伝えればよい。一人でうだうだと頭を抱えているよりいくらか建設的だし、彼女なら聞き役として適任だろう――そんなふうに理屈を付けたしながら、グリーシャはいつの間にか口を開いていた。


「……例えば、の話だけどさ」


使い古された言い回しは、それ自体が呪文となる。その最も強い効果は秘密の暴露、そして口止め。彼女も心得ているのだろう、心なしか目を細める。


「何百年もまえからずっといがみ合っている、二つの家がある。大昔から子々孫々に受け継がれてきた、今では原因もわからない恨みのおかげで、その家の末裔達は会ったこともない相手を死ぬほど憎んでいるわけだ」

「ありがちな悲劇の一幕目みだい、って言ったら失礼かな?」

「いや……俺もそう思うよ。で、そんな両家に育った男の子と女の子が、ひょんな事から一緒に旅をしなければならなくなった」

「ちなみにその子達、名前はグリーシャとミミだったりしないかしら」

「ご想像にお任せするよ。兎に角、始めはお互い反発していたけれど、そのうちに男の子は女の子を、その……まんざらでもなく思い始めた」

「あ、言ったね! 言ったね!? おねーさん言質取ったよ!」


 一応言葉を選んだつもりだが、ハンナ相手では無意味のようだった。それはもう見事にニヤついている。


「だ、だから例え話だってば! ……まあ、そんなこんなで二人とも、まあ面白おかしくやってきたわけだ。けれどもその旅も終わりに近づいて、男の子はどうしたらいいか分からなくなった。憎むべき外国人。旅をともにした仲間。綺麗な女の子。いったい、どうやって接したらいいのか。これからどうすればいいのか……」


 そこで、グリーシャは言葉を切った。


口にすると良くわかる。これは、一から十まで子供の我侭だ。非論理的で、感情的で、本人すら要求を理解できていない。意固地になって泣きべそをかき、親に叱られ、それでも座り込んでその場から離れない『男の子』。彼は何に突き動かされているのだろう。そして『女の子』はそんな彼を見て、何を思うのだろう。


「男の子は、どうすればいいと、思う?」


 淡々と聞いたつもりだが、もしかしたら縋る様になってしまったかも知れない。ハンナはグリーシャの目をまっすぐ見つめ、片眉だけ動かすと、少し考えるように俯いた。


「ひとつ、聞きたいんだけどさ」

「なんだ」

「その男の子は、どういう終わりを望んでいるの?」

「終わり……」

「そう。例えば彼女と身を固めて、幸せに年を取って、相手を看取って。そういうふうになりたい?」


 彼女の言いたいことはわかる。もちろん、グリーシャだって、それが出来れば一番良いと思っている。どういう形になるかは別としても、彼女と一生を共にすることが出来たなら、望外の喜びだろう。だけど。


「それは、多分できない」


 本人の意思とは別の、もっと根深いところで決まっている。今の自分達に、その終わりを目指すことは、出来ない。


「できない。ふぅん」


 ハンナは深追いしてこなかった。吟味するようにグリーシャを眺め、また思考に沈みこんでいるらしい。隠し事だらけの相談でも真剣に受け取ってくれる彼女を、改めて好ましく思う。


「それじゃあ綺麗な思い出にして、離れ離れになって、十年後くらいに『そんなこともあったなぁ』って思い出す。それくらいが落とし所?」

「……そっちのほうが、近い」

「だけど、望んではいない」

「わからないよ」


 そう言って苦笑する。あるいは、それを知るためにこんな話をしているのかもしれない。問いかけの形がはっきりとしただけでも、彼女との対話は成功だったのだろう。 


「ま、一番手っ取り早い方法を選ぶなら」


 ハンナは、答えを導き出したらしい。指を立て、グリーシャに向ける。


「手に手を取って駆け落ちだよね」

「駆け落ち、か」

「そう。敵対しあう両家の子供が、全てを捨てて何処かに逃げ出す。これも、『ありがちな悲劇』に定番の解決方法じゃないかな」


ハンナの言葉を、噛みしめるように聞く。いっそ全てを捨て、どこか知らない土地で彼女と過す。そんな夢想じみた未来を、思い描かない訳ではなかった。それが唯一正しい解決方法であると信じかけた瞬間だってある。けれどもそのたび、あえて真面目に検討もせず、馬鹿らしいと退けていた。


しかし、今ハンナに一つの選択肢として「それ」を示され、グリーシャは再び夢想する。たとえば、彼女と一緒に来た道を逆戻りし、誰も知らない街で二人、暮らす。それは悪魔のささやきであると同時に、魅力的な提案でもある。何度もグリーシャを支配しかけた未来がむくむくと頭をもたげ、意識を染めていく。


「仮定の話、だよな」

「そう、仮定の話」

「じゃあ、仮定の話として」


 結局のところ、グリーシャの答えは決まっていたのかもしれない。言い訳を糊塗して見ないふりをしていただけだ。そして、彼女の助言は、きっとそういうものを振り払ってくれる。


「ハンナが男の子だったら、女の子を連れて逃げ出すのか?」


 他人に決定を委ねる場合、大抵その回答は予測されているものだ。受け手に必要なのは、どちらかといえば覚悟。背中を押されて一歩が踏み出せたのなら、二歩目は、ずっと容易い。だから――


「するわけないじゃん、駆け落ちなんて」


 ――彼女があっさりとグリーシャの予想に反する答えを出した時は、やや拍子抜けした。


「しない、のか」

「不満気だね?」


 ハンナの指摘にはっとする。考えを見透かされているようで、なんとも言えず居心地が悪い。


「……てっきり、駆け落ちを進めてくれるものだと思ってた」

「まさか! 言ったでしょ、悲劇にありがちな解決だって。なら当然、行き着く先も悲劇さ」

「じゃあ、なんで……」

「グリーシャ君、ちょっと危なっかしかったから。今でも思ってるんじゃない? 『やってやれないことは無い』って」


 図星を突かれたグリーシャは、ハンナの顔を見られずに視線を逸らす。


「若さに任せて突っ走るのは重要だよ。けど、それで人生の行き先まで決めちゃいけない。重すぎる荷物に潰れて、結局不幸になるだけさ。悲劇ってのは、そうやって終わる」


 ハンナの忠告は、「現実の意見」だ。それはきっと正しい。グリーシャの夢物語より、ずっと。


一体、成人もしていない男女二人が、何の見通しも無く世間に放り出されたところで、何が出来るというのか。貧乏旅行ごっこをするのとは訳が違うのだ。土地に根を張り、そこで生活していく覚悟や、能力の有無を問われたとき、グリーシャは首を縦に振ることなど出来ない。 


彼女の言っているのは、そういう事だ。だから、認めるしかない。夢は夢のまま。自分達は現実に向かって歩んでいく。


「そんな顔しなーい。別に世界が終わるわけじゃないんだよぉ?」


 沈むグリーシャを、ハンナは明るい声で励ます。それが、グリーシャには余計に痛い。


「わかってるさ。けれども、彼女が近いうちにいなくなると思うと、なんだか妙な気分だ」


 さびしい、とは言いたくなかった。それを口にしたら、グリーシャはもう素直にミミの顔を見られない。


「出会いと別れって、そんなもんだよ」


 あっさりと突き放すように繰り出された彼女の言葉は、グリーシャの心にずしんと重くのしかかった。どう答えていいか分からず、小さなため息をつく。


「……ま、どうしてもって言うなら」


 ハンナは慈しみの表情を浮かべ、とグリーシャの頭に手を置く。まるで子供をあやす様に。


「大人になりなよ。そうすれば、いろんなことが見えてくるようになる」

「例えば?」

「それは自分で見つけるもんさ」

「投げっぱなしか」

「それも大人の特権だね!」

「つーかお前、多分同い年位だろ」

「ふっふーん、実は今年で二十六! バリバリの人妻だよん! 旦那は町まで行商中!」

「ほらやっぱうぇええええええええええええ!?」 


予想外の告白に、前段の真面目な会話そっちのけで驚愕するグリーシャ。ハンナは「やっぱり勘違いしてたー!」と得意顔で明るく笑う。その様子が、重くなっていた気持ちに多少の――本当に多少の、ゆとりを与えてくれる。


結局、そのあと一通り他愛の無い話をして、彼女は部屋に戻っていった。再び一人、星を見上げる。人の出会いに理由があるなら、ハンナは今の話を伝えるためにグリーシャと出会ったのかもしれない。そこにあるのは真摯な友人の忠告か、道化の気まぐれか。あるいは総てを解決する、機械仕掛けの神様か。


 指し示された方向に見える、霞のような何かの輪郭。グリーシャはそれを追いかける術を知らない。だから、胸の底に澱が沈んでいくのを、ただ黙って受け入れる事しか出来なかった。

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